天気の良い日は散歩に行って
だらだら本を読んだり
少しだけ家事をしたり
これで充分満足しているのだけど
バリバリ働いてる人や向上心がある人、趣味にのめり込んでいる人を見ると
焦るのはなぜだろう。
かっこよく意見をしたつもり。
楽しい出来事があったつもり。
仕事を頑張ってるつもり。
辛かったつもり。
気の利いたことを言ったつもり。
最新ニュースを知ってるつもり。
友だちと仲の良いやりとりをしてるつもり。
知人のつぶやきがそんな風に感じ始め、だんだん全てのつぶやきがそう見えてきた。
やめたいけど、依存度が高かったので簡単に抜け出せない。
90歳になる祖父がたいそう学歴と役職が好き。
一昨日、祖父が「みんな結婚して、うちの孫は6人に増えた」と言い出した。
あれ、8人じゃないの?と言ったら
「○○さん(兄の嫁)と■■くん(従姉妹の旦那)は大学を出ていないから孫じゃぁないなぁ。
△△さん(従兄弟の嫁)は、えー、早稲田だったっけかなぁ。早稲田、早稲田。うへへへへ」
だって。
半ばボケてるとはわかっていても気持ち悪い。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20121011/1349961364
これ読んでた。
んで、ふと思った。ふつうの勤め人ってこんな難しいこと考えねえと仕事できないんだろうか。
それなりのあいだはてなにいて、ホッテントリ読んだりなんだりしてるんだけど、なんかすごい。交換不可能性がどうこうとか、それ働く人間が考えなきゃいけないことなのか。
俺自身は低学歴で、かつ低学歴でもやれる仕事で今日まで食ってきてる。たぶん明日も明後日も、おそらく1年後も同じ仕事をやって食っていっていると思われる。そういう人間と、たとえば大卒で「まともな」企業に勤めてる人間ではそれほどに「働く」ということに関して考えなければならないことの質が違うのだろうか。
英語や中国語が使えたほうがいい、というのはなんとなくわかる。俺の仕事には関係ないが、使えたほうが有利になる局面が多々あるだろうことは想像に難くない。業種によっては必須で、そしてそういう業種のほうが将来性があるだろう、ということもおぼろげに想像がつく。
しかし、交換不可能性とは。
そしてあの強迫的なライフハック記事の群れだ。人間の24時間は絶対的に有効に活用されねばならぬ。人間には無駄はあってはならぬ。無駄があるのだとしたら、それは次なる有益のためでなければならないとでも言いたげな一連のライフハックどもだ。
もちろん「現実にはできていない」からこそああした記事が読まれはするのだろうが、それにしたってそうした価値観が内面化されている、という事実は見逃せない。
多くの仕事は、たとえ大卒でなければなれない職業であろうとも「働きはじめてから」覚えるものだろう。だとすれば、それは決して人間ができないようにはできていない。にもかかわらず、人が仕事に関して自分の存在意義をからめて考えたり、あるいは24時間すべてを有効活用して仕事にかからなければならないのだとしたら、それは、人間の限界を越えた仕事が質量ともに個人のうえにのしかかっていることを意味するだろう。
このへん、どうなのだろう。
俺は現場からの叩き上げで、そのままその業種で自営になった人間だから、勤め人の実際というものを知らない。自営ともなれば、ときには寝食投げ打ってでも働かなければならないときもあるし、トータルでいえば負担はおそらく勤め人より重い。上がいない、という気楽さはさておき、それだけに自分の手で切り開いていかねばならぬ局面、解決すべきことは多い。しかしそれは決して「難しい考え」を要求するものではない。必要なのは熟慮することと、人に当たること、そしてリスクを把握したうえで実際に行動してみることだけだ。現在自分の前にあるタスクは、かならず過去の延長線上にある。経験がものをいう、ということで、経験で補えないことはもちろん学ぶしかないわけだが、必要性は目の前にぶら下がっている。なにを学習すればいいのかは自明だ。学習しても及ばないのなら、その仕事の単価は上がるだろう。自分にできることは大方ほかの人もできるのだし、逆もまたそうだからだ。
こういうことを前提としたうえで、俺のようではなく、まともに大卒で、かつまともに企業に就職し、いま現在も働いている人たちに聞きたい。これは俺が知らないので、純粋に聞いてみたい、ということだ。
はてなのホッテントリによく上がるようなライフハックは「本当に」必要なものなのか、そして、たとえば冒頭のエントリに挙げたような、自分の存在をまるごと投げ入れなければならないような深刻な悩みというのは「かならず」仕事についてまわるものなのか。
人間に任されている仕事である以上、それはかならずや人間がやれるようにできている、というごく楽観的な前提すら崩れるくらい、いまの「ふつうの」勤め人の状況はやばいのだろうか。あるいは「働きはじめてから仕事を学ぶ」という前提が崩れるくらい世のなかは逼迫しているのか。
俺は「本当は」人間の悩みというのは、たいてい取るに足らぬ自分自身の問題に還元されるので、それゆえにどうにもならずにあがくものだと考えるのだが、実際どうなのだろう。
率直な意見を聞きたい。
過去に拉致を否定して被害者を見殺しにしてきた元総理の娘が拉致される話とか、第三次大戦で受けた核攻撃から復興するために移民を大量に呼んだけど復興後は難民キャンプみたいなところに押し込められて参政権も与えられず社会問題化して内乱に発展するとか、大戦中に中国が沖縄を核攻撃した事実を公表しようとする荒巻の元同僚を止める話とかあるから。
朝日新聞グローブ (GLOBE)|内閣法制局 -- 強い経済・強い財政・強い社会保障
http://anond.hatelabo.jp/20120922164617
給料だけではなく、名前も完全公開!!パートのおばさんの給料まで堂々完全公開です!!
http://anond.hatelabo.jp/20120922164617
恵まれてない人を見てないかんじ
「今日も仕事だわ」を「今日も仕事だは」とか「子供には泣かれるわ嫁には怒られるわ」を「子供には泣かれるは嫁には怒られるは」みたいに
「○○わ」を「○○は」って書くようになったのって
なんか元ネタでもあるの?
◆肩書、ハーバード大に確認せず
振り返れば、取材の過程で何度か、森口氏の虚偽に気づく機会はあった。
「ハーバード大客員講師」という肩書は、過去の新聞記事などで使われてはいたが、ハーバード大に確認していれば、否定されていただろう。
過去に森口氏が一流専門誌に発表した論文も、その後の確認取材で、専門家の厳格な審査「査読」を受けない自由投稿欄が多かったこともわかった。事前に詳しくチェックすれば、こうした不自然な実態を見抜けた可能性が高い。
また、〈1〉前提となるはずの動物実験の論文が確認できない〈2〉倫理委員会で承認されたとの確証がない――といった点を軽視せず、取材を積み重ねていれば、今回の誤報は避けられただろう。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121013-OYT1T00140.htm?from=tw
問題は記者の専門知識の不足ではない。
無数に枝分かれした分野の先端を記者があまねくフォローできるような体勢を敷くことは現実的に不可能だ。
また、学者を紹介する際、業績や肩書きを所属機関等にダブルチェックしていない事を責めるのも酷だ。普通、大学の公式サイトに森口氏のプロフィールが乗っていればそれを信用するし、もし虚偽ならば大学側の責任でもある。
ただ、それでもこの誤報は防ぐことはできたと思う。疑うべきだったポイントは2点。
「わざわざ学者が自分で新聞社に売り込んできた」という不自然性と、「今後大々的な発表を予定している」と言う不確実性。
記者は、こんな成果なら放っておいても大騒ぎになるのになぜ自ら売り込むか、問うべきだった。
そしてデスク側は、少なくとも正式な発表と学会の反響が”事実”として確認できてないうちに、なぜ急いで大々的に掲載する必要があるのか、問うべきだった。
まず言っておきたいのは
始まってからすいませんすいませんとか言いながら人の前を通るなということ
申し訳ないという気持ちがあるなら通路で見ろ
次に上映中身を乗り出す奴。視界に入るわ椅子が揺れるわウザ過ぎワロエナイ
しかも決まっていいシーンで。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121012-OYT1T01230.htm?from=ylist
「山中さんは「失敗すればするほど幸運は来る。若い間に、いっぱい失敗して、挫折してください」などと語り、会場の高校生らにエールを送った。」
山中みたいに才能と環境に恵まれた人の失敗ってなんなんだよ 「晩ご飯のカレーをつくるの失敗した~w」とおんなじくらいだろ
こっちは勉強も出来ないし運動も出来ない、ブサイク、ニキビ跡が酷い、病気もち
自分自体は親の失敗作だは
勉強も運動も失敗ばかり どうにかしようと藻掻いてもどうしようもなかったりする
このままだと受験も失敗するかもしれない
そんな奴らは努力が大切だとか失敗が大切だとかいうけど、失敗者が頑張らなかった訳無いだろ
Twitter funapon1