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はてなキーワード: 長い散歩とは

2024-03-21

anond:20240319213303

これ気になってドラッグストアーで件のポテチを、ローソン無印てんさい糖ビスケットを買ってきて実際にやってみたけどおいしかったわ

てんさい糖ビスケットほのかな甘みにバターっぽい香りの独特の甘さと塩気と油が加わってパンチのある味になったし食感もポテチの固め厚め+ビスケットサクサクの軽さの違いで食べごたえ出る感じ

ビスケットプレーンココアとあるけど、プレーンのに合わせる方がおいしいよね

山登りやめてずいぶん経つけど、これ自分ミックスして作る行動食にするとかなりよさそうだなと思った

ジップロックに1:1で混ぜて持ち歩くのいいか

まあもう登らないんだけどどっか遠くの川見に行くとか公園行くとか長い散歩ときと持って歩こうかな

ありがとう増田

2021-01-06

PCR検査陰性で高熱だとなかなか受診できない話。

以下、表題の件についてメモ

【1日目】

昼食時に食欲低下を自覚夕方寒気がするため検温したら37.5度の微熱。安静にするもみるみる熱が上がり20時には39度まで上がる。当然コロナを疑い、まずは明朝かかりつけ医に連絡することを念頭に寝る。夜中熱は下がらず、関節痛と腰痛がひどい。手持ちの鎮痛剤を服薬しようやく熱が下がり眠れる。呼吸器系の症状はまるでなし、ただ熱が上がり関節が痛い。味覚嗅覚正常。倦怠感なし。

【2日目】

朝の検温37度でスタート子供保育園に登園できず、しかし元気。仕方がないので無人の道を選びながら散歩に連れ出す。道中各所への連絡開始。わかったことは以下。

かかりつけ医PCR検査の陰性証明書がないと受診できない

PCR検査は当日昼に別の病院駐車場で受けられ、その結果が出るのは夕方

保育園は、陰性証明書と、私が平熱なった以降に一度病院受診健康体のお墨付きをもらったら登園できる。

まとめると、まずはともあれPCR検査を受けなければならない。陽性であれば保健所の指示に従うのみ。話はそれからだ。と言うわけで、子供相手を頑張り、昼寝のタイミングで夫に託して、車で30分ほどの駐車場に到着。この時点で熱は39.2度まで戻っていた。検査自体は鼻に長い綿棒を入れるタイプですぐ終了。私の他にも5台くらい車が来ていた。対応スタッフは3名ほどで重装備。スタッフが車の窓越しに掲げる端末で医者先生の問診。熱があることや、喫煙歴、身近なコロナ患者の有無などを回答。陽性になった場合隔離生活可能かなどをヒアリングするアンケートに回答。幼児が完全に母親っ子の時期なため、自宅療養でないと難しいと記載した。帰宅。横になりながら幼児相手をする。

18時頃、陰性と結果報告の電話あり。熱が出ていることに変わりはないのだが、受診などへの案内はなかった。「現時点では陰性です」と、念押しのように言われた。陰性証明書作成可否を確認し依頼する。保育園に経過報告して、子供を寝つかせ、とりあえず手元の解熱剤を飲む。20時に38.5度あった熱が0時には36.7度だった。しっかり眠れた。解熱剤効果はすごいが、独自で飲み続けていて不安でもある。腰は変わらず痛い。

【3日目】

朝の検温36.5度でスタート。解熱剤の効果も切れているだろうし、すわ治ったかもと思ったが、今日は周辺病院が軒並み休みで通院できず。そもそも陰性証明書が受け取られるのも午後なので、保育園は行けず、子供めっちゃ元気。仕方がないのでまた無人ルートを考えながら長い散歩に出る。帰宅したらやや悪寒がし37.2度。以降安静にする。11時頃病院から、陰性証明書について、「16*00-16*30の間に受け取りに来てほしい、ついでにお会計もお願いします」旨連絡あり。自由の利く親戚が行ってくれた。検査代約1500円、証明書5000円。夜受け取った証明書には、コロナ陰性であることと、「当該患者に以下の症状がないことを証明する」の文言医師署名があった。以下症状とは、熱・咳・鼻水などなど。私、まだバッチリ熱がありますけどね。一瞬電話して聞いてみようかと思ったが、もう営業時間外なのであった。熱は上がり7続け、20時に38.5度。関節痛が収まってきたので、これ以上勝手に薬は飲まないと決めて子供の寝かしつけとともに就寝。

ここまでが今日の話。

ここから明日からの話。

【4日目】

●朝熱があったら?

⇨陰性証明書と共にかかりつけ医まで通院。子供は連れて行きたくないけど、預かり先が無いからな…昼寝の静かな時間を狙うか。

●朝熱が下がっていたら?

⇨陰性証明書と共に開いてる近所の病院に通院。健康体のお墨付きをもらえたら保育園に登園。私は休養。

発熱から3日間、たしかに体は病気だけど病院にかかることができず薬も手元のもの適当に飲むしかなかった。もしかしてオンライン診療とかと契約したほうが良かったのかな。私は他にできることがあったでしょうか?あと、そもそもこの高熱はなんの症状だろう。不安だなあ。

インフル予防接種済、発症から今まで風邪らしい咳鼻水一切なし、腰が痛い。少し頭が痛い。もしかしたらインフルに掛かっているのかなと疑うものの、今は危険から市内ではほぼインフル検査実施されていないんだって。解熱剤を飲み続けるしかないのかなあ。

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日

私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。

私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。

私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。

初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。

私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。

コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。

コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。

スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。

これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。

スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。

とても単純ですが、本当のことです

彼は散漫の対極のような人でした。

彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。

彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです

彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います

彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。

彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの

スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。

彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。

パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。

愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。

彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」

リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。

リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。

ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています

スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。

彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。

若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。

家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。

リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。

彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。

彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。

そして実際、買いました。

スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。

彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。

スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?

はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。

四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。

彼は幸福大事しました。

そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。

最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。

ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。

兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。

ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。

あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。

彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。

その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。

病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです

スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。

「これが特別治療だよ」と私は伝えました。

彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。

挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。

一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。

彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。

私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。

私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。

ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。

二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです

火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。

彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから

「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」

着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。

昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。

そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。

呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。

これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです

彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。

フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。

彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。

やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。

山を登っているようでした。

その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。

その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。

船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。

スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-08-23

ニート散歩する。

前略、ニート

暇なので散歩した。

ルートは、所沢小平西武新宿線沿いをあっち行ったりこっち行ったり)

途中から暑くて汗がすごかった。

水分補給しつつ、散歩


その途中、久米川駅近くのコンビニチキン買って食ってたんだけど、

知らん人に「すいません」って話しかけられた。

よく日焼けした身体で、僕よりちょっと背が高い。

で、日本語らしき言葉を使う。きつ音かも。結構どもってた。

交通量も多くあまり聞き取れなかったので、何度か聞き返したりした結果、

  • 家出した
  • 家には帰ってない
  • バイト面接の帰りだ
  • 金がないので
  • お金貸して(返せるわけないだろw)

ということらしい。

最初スキを見てひったくるつもりなのかな、と警戒してみたものの、チキン食べ終わってないので

「ちょっと食べ終わるまで待っててね」

というと素直に待ったので、その線はないだろうと判断。


事情はあまり聞かずに、あるだけの小銭をあげた。額にして105円。僕もお金がない。というか、おろしてない。

コンビニで買い物しそうだったから「近くのスーパーならおにぎり買ってお釣り来るからそっちにしなさい」

と言うと、彼なりの笑顔で応えてくれた。十分だ。

いつか僕もああなってしまうのか、という思いがあったことは否定しない。


久米川から小平の間を歩く。

小平霊園の前で、はじめてスカシバを見た。

霊園にはバッタが多い。踏まないように進む。

もう何年も手入れされてないだろう墓が多い。

「御名刺受」というのが付いた墓をたくさん見た。宗派の違いだろうか、私の先祖の墓、周辺では見たことがない。

葬式にも地域差があるというのだから、ありえそうだ。


小平駅前に着く。モスバーガーで休憩。

いつもよりたくさん噛んで、舌で、歯で咀嚼して、味わって食べる。

そして電車に乗って家に帰ってきたのが今。3時間半にわたる長い散歩終了。


まとめ。

なぜ彼はたくさんいる人の中から僕を選んだのだろう。わからない。

これから日本は彼のような若い人がたくさんいるようになるのだろうか。格差を実感する。

今日は、ゆっくりしよう。

2007-10-19

うちの柴犬(オス・4歳)は一体誰の元へ走り寄るのかテスト

母「おいでーおいでー」

父「ほらこっちだぞー」

姉「いつも散歩してるのは誰だー?」

俺「この間高級エサやったよなー」

太郎「……」

しーらね。って感じで頭を後ろ足でボリボリしてる

母「休日長い散歩してるもんねー」

父「ブラッシングしてやったもんなぁー」

姉「なんてったって日々の散歩だよねー」

俺「ほーら太郎ー。俺はオヤツを持っているぞー」

母父姉「「「お前!!!!!!!!」」」

姉「ズルい!オヤツなんか持ってたら来るにきまってんじゃん!よこせ」

俺「あぁ…俺のエサが!」

母「アンタのじゃなくて太郎のでしょ」

父「ていうかそれは俺が買ってきたオヤツだ!こいつはチーズが好きだからな。なぁ太郎」

太郎「……」

自分のケツを舐めようとしてる太郎。

姉「ばっちいよ!太郎!」

母「まったこの子は肛門なんか舐めて」

俺「ある意味きれい好きだよな」

父「今手とか舐められたくない……」

太郎「……」ピクン

耳を動かす太郎

父の言葉を聞きつけたのか!?なぜか父に突進してくる太郎

父「なんで?!なんでえええええええええ」

父に腰を振る太郎

父「おまっ……さっきケツ舐めただろその舌……うわっなんか腰ふっとる」

母「ブラッシングしてあげましょうねぇー」

姉「キレイキレイしようねぇー」

俺「毛がモサモサだなぁー」

父「お前ら何和んでるんだ!!!太郎っ!おすわりっ!おすわりっ!」

太郎、「そんなコマンドしらね」といった顔で父の足元にゴロンと転がる

全員「ぬおおおおおおおおおおお」

姉「かわよいいいいいいいいいいい」

俺「ぬおおおおおおおおおおおおお」

母「いい子ねぇーいい子ねぇー」

父「お前はそうしてるとかわいいのになぁ。黙ってるとかわいいのになぁ」

太郎、皆に撫でられ放題。

突然起き上がる太郎。

はっ!誰かが俺を呼んでいる……!という顔になる太郎。

俺「た、太郎どうしたんだ!?」

姉「ここら縄張りをしめてるプードル(オス・五歳)からの伝言があったようだ」

俺「な、なんだって!」

姉「ふむふむ……『ご主人様……申し訳ない……この家を守るという責務、しばし外させていただく』と言っている」

俺「太郎渋っ!」

姉「『拙者は行かねばならない……ボスが呼んでいる!』」

母「ボスって私達じゃないの?」

姉「あ……」

父「おい太郎!ボスは俺たちだぞ!!」

太郎、「は?もうどうでもいいっすけど?」といった感じでお姉さん座りをしている

父「太郎ーーーーーーっ!!!」

太郎、「だから何がやねん」といった顔で耳をかいている

 
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