はてなキーワード: 政治的表現とは
というようなブコメが貞本義行らの炎上に対してついているけど、個人的には彼等こそ現代において「技術的に上手い絵」を追究する真のアーティストであると思う。
文脈がどうの、政治的なメッセージがどうの、というのは彼等からすると追究すべき技能〈アート〉から逃げた半端者でしかない。
コンプレックスではなくむしろ技能者としての圧倒的な自負こそが彼等をトリエンナーレに対する批判に駆り立てているのだと思う。どんなに高尚なメッセージが込められようが技術的にみるべきものがなければそれはゴミなのである。
彼等にとって言論において全く不器用であることはむしろストイックさの表れたいえる。
だからなんだっていうと、とにかく絵が上手いのが取り柄の人達に人間的立派さを求めても不毛なだけだし反省させて謝らせようったって無駄だよ~という話である。
篠原?とかって人は政治的表現の手法において貞本氏より上等かも知れないが、絵の魅力は足下にも及ばないので、なんら貞本氏にダメージを与えることはできないのではないかと思う。
【概要】
『遊戯王』の原作者こと高橋和希(以下高橋)がinstagramに当作品の主人公やモンスターに政治的主張をさせる画像を投稿し炎上、結果謝罪した。
一言で言うと「残念」という感想だが、この出来事の争点となぜそう思ったかについて少し遅れたが述べる。
なるべく、遊戯王について全く知らない人向けに書くつもりである。
争点は3つあり、以降(A)〜(C)と略す。
(C)政治主張の中身
(A)について
日頃から増田やSNSで熱く政治を語る人には理解しづらいことであるが、娯楽の世界に政治を持ち込むことは基本的にそこの住人に嫌悪される行為である。
SNSや掲示板にある遊戯王のコミュニティでは、当然遊戯王が好きな人が集まりカードやアニメについて語る。
政治思想が対立していてる人達でも笑い合える。それが遊戯王やその他娯楽の良さで、娯楽に触れる時くらい政治とは一旦距離を置きたいはずである。
しかし、政治が絡むとそれについての話がヒートアップし、コミュニティで遊戯王の話ができなくなってしまう。政治が絡むと思想を問わず平気で汚い言葉を吐く人がやってきて、不快な思いをする人も増える。この2つが厄介。
だから政治を持ち込んでほしくなかったが、よりにもよって原作者の手によって遊戯王=政治のイメージがベッタリと付けられてしまった。高橋がただ政治主張を述べるだけなら問題なかったが、キャラに言わせたことで『遊戯王』を巻き込んでしまった。
「政治に興味を持つ遊戯王ファンが増えていいだろ」と思う人もいるだろうし、高橋の意図もそれだったのかもしれないが、前述の通り「娯楽に触れる時くらい政治とは一旦距離を置きたいものである」。
これが残念と思う理由の1つ。
(B)について
これが1番大きな問題だと思う。
『遊戯王』の世界観は「古代エジプト」「ゲームで勝った者こそ正義」で「現代日本の政治」とはおおよそかけ離れたものである。
独特な世界観で現代日本を風刺する描写も少なく、それが20年以上続いていたのである。
そのような世界観のキャラに日本政治に関する主張をさせるのは、長年積み上げてきたキャラのイメージを損なう行為としか言いようがない。
ここで、1つの言葉が課題となる。「キャラをどうしようが作者の自由」である。これを主張する方がとても多い。
まず言っておくと、この言葉自体は正論である。キャラの性格や展開をどうしようがそれは「作者の自由」かつ「表現の自由」で、禁じられた行為ではない。
ただ、自由を行使した結果キャラが崩壊したことに不満を持ったのである。不満を持っただけで止めさせる権利が無いことも分かっている。
別の物事に例えるなら、「この漫画は面白いけど最終回は微妙だった」「この映画は続編でつまらなくなった」「クールな女性キャラが別作品で主人公の父親にベタベタの愛人と化していた」という感覚に近い。
この3つの例えも当然「作り手の自由」であり、受け手がそれを止めさせる権利は無い。ただ、このような事態に遭遇した人の多くは何かしらの不満を述べるだろう。
それと同じく、キャラ崩壊に「残念」等の感想を述べる権利だってある。これも「表現の自由」である。
これに関し、『遊戯王』に愛着は無いけど高橋の主張に賛同する人達が平然と「作者の自由、嫌なら遊戯王やめろ」と言う光景を見て、非常に残酷で冷たい人達だなと思った。
「嫌ならやめろ」は正論ではあるが、1つの物事(今回は遊戯王)が好きな人にその言葉を使うのは、物事とそれを愛する人を切り離そうとし相手を大きく傷つける行為である。それを言っても相手は傷つき悲しむだけで、決して政治に興味を持ち高橋の主張に賛同するなんてことは無い。
逆に、そんな残酷な事を言う政治に熱心な人達やそれらが集まる政治の話題そのものを忌避するだけである。だから「嫌ならやめろ」なんて言ってほしくなかった。高橋の主張に賛同するなら、もっと言葉を選んでほしかった。
自分の好きな作品が似たような目に遭っても、「これも作り手の自由だから」と割り切る人がどれほどいるだろうか。そこで「嫌ならやめろ」と言われた時、素直に去ることができる人がどれほどいるだろうか。
(C)について
キャラに言わせたことは一旦置いといて、高橋の主張内容について。
まず政治主張は表現の自由や思想・信条の自由で認められていることであり、高橋も例外ではない。
1つ、日頃から熱く政治について語っていると感覚が麻痺しがちだが、高橋が使った「独裁」と「売国」は「過激な言葉」で、無垢な人がそれを聞くと大抵「引く」。
高橋の目的が「ファンに投票を呼びかけ、ついでに自分の政治主張を支持してもらう」だとしても、その2つの言葉を使うと無垢なファンが引くだけなので、もっと別の言葉を使うべきだった。
長年クリエイターをやってきた高橋なら主張の趣旨を変えることなく、経済・税金・年金その他いくらでも「過激ではない言葉」を選べたはずである。
最後に
高橋は最終的に、「キャラクターに政治的表現をさせてしまった事、ファンの皆様に深くお詫び申し上げます」という謝罪をした。
ここで謝罪しているのは「キャラに政治表現をさせたこと」、つまり(A)と(B)で、自分の政治主張の中身まで謝罪したわけではない。
高橋の政治主張は保たれたままなので、謝罪としては悪くない内容である。
もう1つ、「むりやり謝罪させられた、謝罪すべきでなかった」という意見に対して。
こちらの意見を言うと「謝罪して正解」で、謝罪には炎上を抑える効果があり(A)によって荒れたコミュニティを速やかに戻してほしいからである。
政治に熱心な人には分かりづらいことかもしれないが、政治思想抜きで楽しめるコミュニティと共に育ったジャンルにおいて、その輪を荒らすことはたとえ原作者であっても反感を買うのである。
ザッシュ2号(@zassyu2_ero)が漫画家協会を相手取り民事調停を行うという。
彼の主張はnoteにまとめられている。 → https://note.mu/tutakazura/n/n7d7d48a377d3 https://note.mu/tutakazura/n/n162e8bb5c9eb?creator_urlname=tutakazura
言いたいことは山程あるが、今回は表現の自由について少し検討したい。
エロは無修正で書くのが当然、憲法にも記されている。憲法違反の法律、判例、判決は無視するべきだと憲法に記されていることを主張。」
果たして本当だろうか。
「エロは無修正で書くのが当然、憲法にも記されている」おい、されてないだろ。
好意的解釈の原則からいくと、表現の自由があるから、エロ表現も保障され、修正を強制されることはない。だから無修正で書けるのが当然だ、ということだろうか。
ありとあらゆるすべての表現が許されるのだろうか?
もちろんそんなことはない。
ある芸術家が殺人こそ至高の芸術であり、表現である。そう主張し、殺人をおかした場合、その殺人は表現の自由として許されるかと問われたら当然否である。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
表現の自由といえども無制限に保障されているものではなく、公共の福祉よる合理的でやむを得ない程度の制限をうけることがあ(る)
端的に表現の自由は絶対無制限なものではなく制限を受けるものだと喝破する。さらに引用を続けると、
その制限が容認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきである。
まとめると、表現の自由から、当然にエロ漫画の表現が許される、という解釈にはならないのである。
では性表現は制限されるのだろうか。すなわち、刑法175条に規定する「わいせつ物」に当たる場合刑法犯となってしまうが、そうならないように表現の自由の保障が発揮されるのか、それとも制限されるのか。
最高裁はS32.3.13(チャタレー事件)にて以下のような判示をしている。
わいせつ性をもつ場合には、性生活に関する秩序及び健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められる
としている。すなわち、わいせつ表現は表現の自由による保障が制限される類型であるとしているのである。
これに対しザッシュ2号は
という。
この主張は(ある意味で)ただしい
(ある意味というのは、わいせつかどうか(制限されるかどうか)の判断は「わいせつ性の判断は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念を基準とし、当該作品自体からして純客観的に行うべきもの」(チャタレー事件)とあるため、社会通念は重要である。また「作品等の芸術性・思想性等との関連において評価するなど、わいせつ概念の相対性を承認して総合的に判断しなければならない」という悪徳の栄え事件での田中二郎裁判官の反対意見があるほか、「性表現による害悪の程度と作品の社会的価値との利益衡量が不可欠である」最判S58.3.8での伊藤正巳裁判官の補足意見などがあるため、世論は一定程度必要であるが、一部の人間がモザイク反対! を叫んでも社会通念とは言えないだろう)。
しかし、裁判所がわかっていないという「表現の自由の重要性」とは一体なんなのか。
これを本来は腰を据えて考えなければならない。そしてその自由の重要性との関連で初めて、「エロ漫画」の表現への自由(制限されないこと)が語れるはずである。
ザッシュ2号は弁護士会の声明 https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2009/2009_2.html を引用し、表現の自由の重要性を主張している。
それを参照しながら、なぜ表現の自由が重要であるか一度見直したい。
憲法21条1項が保障する表現の自由は、民主主義社会の死命を制する重要な人権である。自由で民主的な社会は自由な討論と民主的な合意形成によって成立するのであり、自由な意見表明が真に保障されていることが必要である。
これを受けてザッシュ2号は
と言う。コレ自体は誤りではない。しかしなぜ重要だと言っているについて注意深く読むべきである。
この声明では「表現の自由は」「民主主義社会の死命を制する重要な人権である」と言う。すなわち表現の自由の重要性の一つとして「民主主義社会の死命を制する」という点をまず強調するのである。
なぜ制するのか。これが次の文である。
前提として「自由で民主的な社会」(=民主主義社会)は「自由な討論と民主的な合意形成によって成立する」という。そしてそのためには「自由な意見表明が真に保障されていることが必要である。」
つまり、表現の自由が重要であるのは、「民主主義社会」という重要な存在があり、その成立のためには「自由な意見表明が真に保障されていること」が必要だからだ、というのだ。((本当に民主主義社会が重要であるのか、という点についての検討はここでは省略する。しかしこれを考えなければ、民主主義社会の成立のために表現の自由が重要だという論理が成り立たなくなるため、本当は超重要である))
表現の自由は大事だ! と単に言うのではなく、「民主主義社会」の成立のために必要だから重要だ、と言っているのである。
ザッシュ2号がさらに続けて引いた声明文を見ればわかりやすい。
民主主義社会における市民の表現行為の重要性に鑑み、市民の表現の自由及び知る権利を最大限保障するため、
(1) 国、地方公共団体、特に警察及び検察は、市民の表現行為、とりわけ、市民の政治的表現行為に対する干渉・妨害を行わないこと。
「とりわけ、市民の政治的表現行為に対する干渉・妨害を行わないこと。」
という一説からも分かる通り、この民主主義社会の成立のための表現の自由というのは、もっぱら政治的表現の自由のために用いられる論理なのである。
勘の良い方はすぐに気づくだろうが、性描写(わいせつ)表現を「表現の自由」から保護するべき、という論理を展開するときには、民主主義社会のために必要だという論理はあまりうまく嵌らないのである。
もちろん、性描写(わいせつ)表現と政治表現が一体化することはあるし、風刺的な表現にはわいせつと政治が混在することは多々ある。(トランプや安倍、金正恩らの風刺エロ漫画があった)
また表現の選別を行うことは、結局政治的表現の保護につながらないんだ、と主張することで、「民主主義社会のための表現の自由」論からも性描写(わいせつ)表現を要保護だと言うことはできる。
しかし、それでは弱い。
これである。
表現の自由は「人間の本質的な属性である精神活動を充足するもの」であるから重要だ。これは性表現との親和性が非常に高い。
エロ漫画の表現を擁護するならば、どちらの論理の方が優れているか。明白だろう。
性的活動は人間の根幹に存在し、有史以来、それを表現したものーー性的表現は幾度とない弾圧・規制の中でも確かに存在してきた。その表現は人の精神的活動の大きな一翼を担っているのである。
そして表現活動において、自己の表現に対し一部モザイクを付さねばならないことは、十全な精神活動を阻害することになる。
このような主張になるだろうか。
そして、こうして表現の自由がなぜ重要をざっと見た(あまりに表面的というのはそのとおりである)だけで気づくことはいくつもある。
少なくとも、表現の自由から直ちに「無修正が当然」となるわけではない、ということ。
表現の自由から「無修正であるべき」という主張を通すのならば、それなりの論理が必要だということ。
そして、重要な権利でありそれの保護が必要だということだけではまだ足りないのである。さらに、より具体的になぜ現在の制限が駄目なのかを主張しなければならない。