「イントネーション」を含む日記 RSS

はてなキーワード: イントネーションとは

2012-11-15

赤西を見なおした

まあこれを見てくれよ

赤西仁 英語インタビュー

http://www.youtube.com/watch?v=Bb0K-k5KDdk

英語意識の高いはてな民なら、この喋り方からものすごい努力のあとが感じられると思う。

発音やイントネーションもだけど、インタビューを受ける時の芸能人としての態度というか雰囲気というか仕草まで完コピしてんのな。

このKoreAMって団体?がインタビューしてる他のネイティブ俳優を見たけど、ああこういうの見て勉強したんだな……ってのが見て取れた。

そりゃあ語彙の選び方とか、そこでそう返す?みたいな、全くネイティブと違わないかというとそうでもないのかもだけど。

いや、でも、20過ぎてから英語始めて(留学時は22とか)こんだけ発音やイントネーションに気を使って喋れる英語学習者どれだけいるよって。

しか赤西って、ジャニーズなんかはいってたから、頭がよくて英語をガリガリやってきたわけでもないんだよ。すごいよまじで。

なんか、つい外国人から発音もイントネーション完璧でなくてもいいやって思っちゃってた自分に喝がはいった。

職業上そうせざるを得ないってのもあると思うけど、完璧をめざす赤西さんまじでかっこいいわ。

せめてこのくらい発音とかイントネーションとか話す時の仕草に気を使いたい。

赤西

2012-09-23

映画イーグル・アイ」の空耳

1:31:10 ミシェル・モナハンセリフが「できへん」って聞こえる。イントネーション完璧

字幕は「できない」(命令されてシャイア・ラブーフを殺そうとするシーン)

原語ではなんて言ってるんやろう。聞き取れん。

(iTunesにてダウンロード視聴のため英語字幕不明)

どこかの職人さん、かわりに動画サイト投稿して!

2012-08-10

渡辺謙すげえ

インセプション見てたんだけど渡辺謙自然な発音だしイントネーションだしでびびったわ。

そりゃ神経質な人は気になるレベルだけどあんだけ自然にできれば外国人としては万々歳じゃね。

ネット情報を信じるならラストサムライから勉強はじめたって、40超えてからかよ。すごすぎるわ。

自然イントネーションは諦めろって言われてたかちょっとだけ勇気づけられたわ。

そりゃ他にやることいっぱいあるけど発音だってイントネーションだってあきらめたくないよな

2012-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20120327143851

更に更に横だけど

から見ても「オレ知ってるぜー」以外の何の意味もないレスしか見えねえ。

オレのイントネーション小学生特有の「オ(↑)レ(↓)」で。

2011-12-20

拉致寸前

友達のおばあちゃんとおじいちゃんのお話

友達のおばあちゃんとおじいちゃんは、若いころにとある有名な拉致事件現場の近くで仕事をしていた。

季節は秋、仕事からの帰り道での出来事だった。

仕事から自宅まで明かりが少ない松林の中の近道があった。

帰りを急いでいた2人は、その道を通って家へ向かっていた。

明かりのない道を月明かりをたよりに歩いていたとき、突然、草むらの中から数人の男たちが飛び出してきた。

「静かにしろ!」とこの地域の訛りとはことなるイントネーションで話しかけて、取り押さえようとしてきた。

しかし、男たちは、2人のなりを見てさっさといけとばかりにジェスチャーをして、その場から追い出すように追ってきた。

2人は明かりのあるところまで、必死に逃げた。振り返ると男たちの姿はなかった。

そのときは、人さらいが出たとだけ思っていたと話していた。

あの一連の拉致事件報道を見てからは、考えが変わり、拉致事件寸前の状況だったのではないかと思うようになったそうだ。

身近なところで体験談が出たのでメモしておきます

2011-12-05

北海道弁

うっかり北海道弁を気づかずに使ってしま

「はぁ?意味わからん日本語話せやボケェ」と言われた。

西日本の人はチャットTwitterでも方言つかってて何も言われないくらいなのに

それ以外の方言認知度の低さはいったいなんなんだろう。

イントネーション方言認知されてなくて、おかしいから直せと言われるし。

うっかりでちゃったくらいなら、あ?方言かな?と思ってくれてもいいのに。

2011-09-22

エメラルドマウンテン

うん、特別カッコイイ名前では無いが、まぁ良い名前だと思し、結構買ってた。

しかし、エメマンは無いよ。しか大阪弁イントネーションで。

かっこ悪すぎて、もう買う気しないよ。

2011-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20110722115247

書き言葉では使わないよ。

関西弁イントネーション言語から、書き言葉でやるとめちゃくちゃ違和感が出る。

読むのはもちろん、書くときでさえゲシュタルト崩壊してくるから、上手く書けない。

「あえて関西弁」の人の関西弁って大抵ぎこちないけど、あれもそういう理由だろうな。

でなきゃ単なる関西人騙り

地元方言じゃないのに語尾が「だべ」の奴

使い古された表現だが、ゲームってコミュニケーションだべや。

それがないのが今の問題なんだわな。

こういう気持ち悪い語尾使うの気持ちが奴がマジでからない。

リアルでもごくたまに遭遇するけど鳥肌が立つ。


ガチ方言自然に「~だべさ」とか「~じゃき」とか言ってる場合は全く問題ない。

それはふつーに聞けるし、各地の方言って素敵だと思う。

大学でいろんな地方言葉イントネーションに接して、すごく魅力的だと思った。

北海道出身友達の喋り方はかなりこっちにうつった。


そういうのとは明らかに違う、

標準語話者の「だべ」とかってなんなの?マジで

気色悪い自意識と下流臭が匂ってきて聴いた瞬間にゾーッと鳥肌が立つ。

意味がわからないし。本当になんなのあれ。


明らかにあんまり程度や学歴がよろしくない人に「だべ」使用者が多い気もするので

特定社会階層スラングなんだろうか。ニガーことばみたいな。

http://anond.hatelabo.jp/20110722111751


xsinon

それを言うなら東京人が時たま使う変なイントネーション関西弁の方が気色悪いんだけど

2011/07/22

「それをいうなら~の方が」じゃなくて

それとこれは全く同じ問題。

2011-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20110323104705

俺も俺も。

共通語話してるんだけどイントネーションが訛ってるって。

札ぶら下げられちゃったよ「カッペにつき注意」ってね。

2011-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20110119231916

文法をパロールに対するラングとかランガジェって意味で捉えると、言語学的には文法の一種ってことになるかな。

国語学的には勿論文法じゃないですよね。まぁ、言語学国語学も扱う範囲が広いしね。

そもそも「文法とは何か」ってのも国語学的な議論で、あ~・・・。のこの三点ドット言語学的には「文法」だったりするんですよね。

言葉でやっても、あ~の語尾をちょっと下げてイントネーションを出すのも、意味作用が生じるって意味で文法。

「文法生成器官」が脳みそにあるぜ!ってのが最近言語学ですからね。言葉なんて適当に使えばいいんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20110119225357

うん、だから

そこで取り扱う「文法的な正しさ」というのは、矛盾なく日本語を構築できる体系を目指そうというものであって、「正しい文法と間違った文法」を振り分けるものではないでしょ?

もちろんこれは単語や音韻イントネーションにも同じように言えるわけで。

教育学アプローチがあるというのは、数ある国語理論教育として有用なものか(というわけでいま橋本文法が権威を持っているわけなんだが)という話でしかなく、「「正しい日本語を教えるための」アプローチはない。

あなたの言うそれはずいぶん前にあった算数教育の、掛け算どっちが先かって議論と同じ。

多人数教育に便利なメソッドが欲しいだけ。そういうものはどんな学問だって要請されてる。何も保守的からという話じゃない。

2010-10-18

外国語の詩の暗誦 ― 趣味と実益を兼ねて ―

外国語勉強法にはいろいろあるが、ネイティブが書いた文章をそのまま丸暗記する方法は古典的なものと言っていいかもしれない。よく知られているところではシュリーマンがいるが、日本人では渡部昇一が叙述文を丸暗記したという話がある。専門の英語だけではなくて、ラテン語の習得のために「ガリア戦記」を筆写して覚えたそうだ。ただ、この方法はひどく手間がかかりすぎる。外国語を専門にする大学院生ならできるかもしれないが、一般にはなかなか難しい。

そこで出てくるのが詩の暗誦である。詩なら、特に長いものでなければ、覚えることに大きな努力を必要としないので、一般には重宝するはずなのである。ここで詩を暗記することのメリットを、思いつくままに書き連ねてみよう。

単語の暗記に役立つ

言葉の相互の関係が散文より密接なので覚えやすい

・「音声」「音」「リズム」に対する感覚を磨く

・音やリズムを覚えると読むスピードがはやくなる

・聞き取りも楽になる

・口の動きがその言語に慣れる

言葉そのものに対する感覚を磨く

・暗記力そのものがのびる

・詩の知識そのものが有用

まだありそうだがこの辺にしておいて、次にデメリットとしてどんなものがあるだろうか。

・すぐに役立つ表現は滅多にない

・方法として回りくどい

・難解すぎて誰にでもお勧めできない

・そもそも暗記が苦手

などが、思いつくところ。

そこでネット検索してみたが、どうやら外国語教育と詩の暗誦の関係に関する研究日本ではあまりないらしい。それでも、いくつか記事や論文を読んでみたが、誤解とは言わないまでも、もうちょっと書き方があるのではと思われるものがいくつかあった。

(とりあえず、英語詩と教育に関する論文としては以下のものが読める。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/90001054.pdf

http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/bitstream/10076/4578/1/AN002341770510007.PDF

ネットで見たところに限ると、詩の「読解」という表現が散見された。が、これは誤解を生みやすい、あまりよくない表現だと思う。「読解」とは「ある文章の意味が分かること」を指す。「英語の長文読解」というと長い英文の理解を問うのが一般的だ。

しかし、詩は「読解」するだけでは意味がない。韻律にきちんとのせないと詩にならないのであって、「読解」はそのための前提でしかない。単語意味や文法的なつながりを理解して、そしてようやく韻律に意味音楽性が生まれる。

もちろん、詩の理解を無視して、音だけで覚えてしまう方法もある。けれども、成人の場合は難しいだろうし、なにより退屈に過ぎると思う。(ところが、矛盾するようだが、詩を楽しみ味わうコツは最初にとにかく丸暗記してしまうこと、覚えようとしてしまうことだったりする)

さらに、たとえ「読解」ができても、正しい韻律にのせられるかどうかは、残念ながらまた別の話だ。少なくともちゃんとした発音が頭の中で鳴っていなければ、文字だけで韻律まで汲み取るのは相当に困難な作業であるという点は認めなくてはいけない。リンクした論文には、シェイクスピア台詞の韻文はネイティブでも解釈が分かれるとあった。

しかし、そういった困難を乗り越えると、一生の宝物になること間違いなしの喜びが眼前にひろがっていることに気がつくはずだ。

最初は疎ましい、面倒くさいこと限りがなかった「読解」や「韻律」の困難さが、徐々に謎解きを解くような喜びに変わる。詩を暗記してしまってから、よりよいリズムイントネーションを見つけた時、分かったつもりになっていたフレーズに別の光を当ててみるとそこに思いがけない新たな姿が立ち上がった時、この発見の喜びは何物にも変えがたいものとなる。それになにより、韻律にのった、言葉による音の遊びが、こんなに純粋快楽なのだということが、外国人にも分かる瞬間がある。そうなると、その言語がますます好きになってくる。なにより、身近なものとして、自分の一部として、最初は遠い存在であった外国語外国文化がより近しいものに感じられるだろう。

外国語の詩の暗誦は、たしかに回り道ではあり、ある程度文法や単語がしっかりしていないとついていけないかもしれないが、しかし実用一辺倒で詩の鑑賞を捨ててしまうのも実にもったいない話であって、ささやかな、しかし一生の趣味として「詩の暗誦」は悪いものでは決してないと思う。

外国語学習を、単なる道具の使い方と割り切って考えるのは大事なことではあるのだが、しかしもう一面として、その言語文化や彼我の人間の違いを知ることという、俗な言い方をすれば「異文化理解」のために重要だという要素を、決して忘れることはできない。外国語勉強は、長く、つらい。しかしそこに宝物があることを感得できれば、つらいことにも耐えられる。お勉強してよかったなと思える。外国語の詩の暗誦は、お勉強の結果与えられるご褒美として、もう少し積極的に語られても良いのではないか。

(追記)

http://anond.hatelabo.jp/20101018172417

道具として文化コンテクストを理解する必要があるという立場だったら 映画を丸暗記した方が良いような気がする。

映画の丸暗記もよく勧められる方法だが、「文化コンテクストを理解する」よりも、「すぐに使えるフレーズを覚える」には役立つだろうと思う。ただし、やったことはないので、詩の暗誦のような喜びがあるのかどうかまでは、分からない。

(追記終わり)

2010-08-30

私は子どもミンチなんか見たくないんだ

明らかな未就学児が一人、もしくは、12歳未満と思われる子どもとだけと一緒だと、とても気になり、車が来るときは盾になったり、抱き上げたりしてしまう。

というのも、うちの息子はおチョロさんで、10秒目を離すといなくなる子どもだったので、ご近所の目に助けられていなければ、とっくに事故にあってると思うから。

ごくごく単純に、私は自分子どもにしてもらったことをよその子にしているだけで他意はないんだけど、保護者からすると煙ったいらしい(とげとげしい、お礼の言葉イントネーションから察することが出来る)。

子ども保護者の「ありがとうございます」に対して。

「お互いさま」というには、相手と年代が違い過ぎる。

事故見たくないだけなんで」じゃ重すぎる。

なんて言ったら(あ、ごく当たり前のことなんだ)と相手にさらっと流してもらえるだろう?

2010-08-22

日本語

日本語は素晴らしい言語だ。

平仮名片仮名漢字を駆使して相手に思いを伝える。言語にツールが多い所が繊細な表現を可能にしている。

例えば「私」「わたし」「ワタシ」、「君」「きみ」「キミ」。受ける印象はすべて同じだろうか。

他にも敬語イントネーション等、しっかり使いこなすには勉強が欠かせないが、その価値は大いにあるものだろう。

日本敗戦国だ。だが敗戦した際に英語に支配されなかった事は本当に幸運なことではなかろうか。

残ることを許された日本語という言語はこれからも受け継がれてほしいと思う。

アメリカという国は嫌いだが、敗戦後の日本の扱いには認めるべき点があるよな、と思った。

2010-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20100808030209

800字程度の作文をすればわかるが、日本語ですらまともに扱いきれないひとが多いのに、英語なんていわんや。って話と。

英語を教えている教師のイントネーションをもっと練習させろって話と(日本語訛り英語はどうよ?)

単純な練習量が足りないので、もっと簡単な英作文を徹底的に量をこなさせろって話かと。

2010-05-03

勝間さんとひろゆきさん

話題になってたのでみてみました。そして悲しくなりました。一生懸命勝間さんに胃の痛みを覚えたので、全部は見れてないです。でも必死で笑顔を作ってかわいそうだったので、書きます。ひろゆきさんとの議論がどうこうっていうよりかは、勝間さんを見てて思った、今のインターネットについてです。

たぶん勝間さんは、どこかで誰かに悪口を言われてる可能性を全く疑わずに生きてきたか、他人の意見に耳を貸さずに一生懸命生きてきたか、そのどちらかなのだと思います。そうしたらやっと地位を築いた今になって、ネットでの叩きを目にして悲しい気持ちになってるのだと思います。インターネットのすごいところは、発言者を選ばず、言葉に等しい力が与えられるところだと、わたしは思います。だって、現実で発する言葉には外見や表情やイントネーションや、さらには発言者社会的地位なども含め、影響力を変化させる要素が幾つも絡まりあいますが、文字って誰が書いても同じです。ずーっと見てて好きなブロガーの発信する文字はまた別だと思いますが、それを誰かに紹介した時に同意ってしてもらえるものなんでしょうか。ホームページデザインセンスが、文字に重みを与える事ってあるんでしょうか。わたしはそこが文字とネット限界だと思ってます。

インターネットの可能性に夢を見られるのは最初のうちだけな気がします。ネットで成功したって、その後は結局現実につながります。世渡りの術やおべんちゃらなど、結局いつか求められます。一人で生きてけるような気がするのは、部屋に閉じこもってる間だけです。ネットをツール以上のものだと過信するのは、本当に危険だと思います。「口で言うのは簡単だけど、行動にうつすのが難しい」という言葉がずっとあるのに、どうしてみんな文字情報を過信するのかな。わたしは名前を出して戦ってる勝間さんを評価しますよ。論破されまくりだと笑われてますけど、ネットへの基本意識が全く違うので、もうあれはしょうがないのだと思います。ひょっとしたら暇つぶしに他人の悪口を言う、という習慣からして勝間さんにはないのかもしれない。

あと、話は変わって世間での話なんですが。ツイッタービジネスチャンスが生まれた!画期的!とか言ってますけど、契約も交わしてない口約束になんの意味があるんですかね。けっきょく会って打ち合わせするんであれば、ピンポンダッシュで出会いが生まれた!画期的!とか言ってはしゃいでた小学生時代と同じじゃないんですかね。目新しいきっかけを見つけてもちあげてるだけ、ってのはうがりすぎなのかな。

2010-04-03

方言いいよね、と言った意見を聞くようになったけど

この10年くらいで、方言いいよね、と言った意見を聞くようになったけど、それって想定範囲が西日本限定じゃないのかね。

東日本方言は相変わらずかっこ悪いって思われているじゃないかな。少なくとも受けがよくない。

ちなみに僕自身も方言をいいなと思うときがある。

でもそれは語彙が違うという話じゃなくて、イントネーションがすきなんだよね。

2010-03-29

スイーツ社畜無宗教

今日の話。新宿就活面接を終えた僕は、お昼ご飯を食べるためにセンタービルにあるカレー屋に入った。そのお店にはたまに行くのだけど、ランチタイムナンを何枚食べても許されるというシステムになっていて、手頃な値段で満足できる良いお店なのだ。入り口にあるレジで890円のセットを注文して席に案内されると、特にやる事もないので面接の出来についてボーッと考えることになった。後ろ方の席からいわゆるスイーツな会話が聞こえてきたのは、ちょうどカレーセットが運ばれてきた時だ。内容についての細かいことはあんまり覚えていないしここでは書かないけれど、「シアワセ」について20代か30代ぐらいの女性2人が語り合っていた。僕は、その種の女性特有のイントネーションで行われる何とも言えない会話を聞きながら、「薄っぺらい幸せだよなぁ」と無意識に考えたと思う。「スイーツ」という言葉には(笑)が必ず付いてくるものだけど、それはきっとそういった薄っぺらさに由来するもので、多くの人がなんとなく共感しているのだと思う。まったく傲慢な話ではあるのだけれど、僕は半ば無意識に、彼女たちをそんな薄っぺらい人間だと思ってしまったわけだ。

ところで、僕は海外ニートの人の話にとても共感を覚えるタイプ人間だ。つまり、仕事なんて生きるために適当にやればいいんじゃないか、と思っている。本音を言えば、働かなくて済むのなら1mmたりとも働きたくないぐらいなのだけど、とりあえず現実的な妥協案として、生活に困らないぐらいのお金自分で稼ごうかなと考えている。そんな僕にとって就活苦痛連続で、なにが辛いかと言えば、就活をしていると本当にひしひしと感じるんだけど、みんな驚くぐらい仕事が大好きなのだ。説明会では「やりがいがあるからこれぐらいの残業なんて気にならない」とかいう社員を500人は見てきたし(しかも「これぐらい」が100時間を平気で超えるんだよ)、「そういう経験自分の成長につながる」とかもよく聞く台詞だ。それが彼らの本心なのかどうかは僕には分からないけれど、少なくとも表面上は、みんな仕事が大好きで、しかも仕事を通してなにか人間的な高みに登っていくという事になっているようだ。まったく反吐が出る話だと思う。

そんな僕がスイーツな会話を聞きながら、彼女たちの事を「薄っぺらい」とか「くだらない」とか思ったのだ。言い換えれば、僕は女たちの価値観それ自体をくだらないものだと考えたんだと思う。僕がひどく傲慢な人間だと言うことはこの際認めるけれど、そのとき僕がむしろ驚いたのは、自分の中で重要ロジック破綻していることだった。だって、僕は仕事が大嫌いで余暇とか趣味とかを楽しむ人生を送りたいと考えていたはずなのに、実際に生活の端々で楽しみをみつけてシアワセを感じている彼女達の事を薄っぺらいと思ってしまったのだから。僕は彼女達のようになりたいと考えていたはずなのに、なんで彼女たちを見下しているんだろう。

この矛盾に気がついたとき、僕はなにか悟ったような気がした。どうやら僕も労道を信奉する人間の一人だったらしいと。つまり、僕の人生価値観、あるいは評価軸の中で「仕事で認められる」という項目は重要な役割を果たしていて、僕が彼女達をくだらないと考えたのは、彼女たちのシアワセの基準がそういった仕事に関係したものから著しく乖離していたからだったのだ。そして、これは本当に面白い話だと思うんだけれど、「仕事なんて糞だ」というのも偽らざる本音なのに、それと同時に「一人前の人間として認められるには仕事で成功を収める必要がある」とも考えているのだ。この2つの考えはどうやら両立するらしい。内心仕事なんて糞だと思いながら、仕事を二の次にしている(ように思われる)彼女たちを馬鹿にしたのは、そういう理由からなんだと思う。海外ニートの人の記事に隠れキリシタンの話があったけど、実は多いらしい反社畜の人が隠れたままなのも、もしかしたら同じ理由からなのかもしれない。みんな「仕事なんて出来ればしたくないけど、一人前として認めてもらうには仕事を頑張って成長しないと」って考えているのではないだろうか。ほんとに、修行みたいな話だ。スイーツには必ず(笑)が付くのも、説明会の社員はみんな仕事生き甲斐なのも、きっとそういう事なんだと思う。

ところで、ここで僕はもう1つ考えたのだけど、僕はいったい誰に一人前と認めてもらうのだろうか。家族? 友人? 社会? たぶん全部だろう。ただ、これってもしかすると世界的には珍しいのかもしれない。日本人にとっての評価というのはどこまで行っても人間にされるものだと思う。それに対して、もしかすると西洋では(西洋っていうのも曖昧な話だけど)、より重要な要素して神が入ってくるのではないだろうか。僕は宗教にも国外文化にも全然詳しくないので本当になんの根拠もなく適当なことを言っているのだけど、彼らは人生の意義を神に認定してもらっているように思える。それに対して僕たちは人生の意義を周りの人間にしか認定してもらえない。もちろん、「人生の意義を他人に委ねるな」という意見もあるかもしれないけど、そう簡単に割り切れるものでもないと思う。そして、自分人生の意義を高めること、つまりより多くの人間に認めてもらうという事を考えた場合、どしても社会に向かう必要が出てくる。家族を大事にしても、認めてくれるのはごく親しい周りの人だけだろう。僕たちは仕事にやり甲斐を見いだし、社会に対して何らかの影響を与えることによって、人生の意義を多くの人から認めてもらおうとしているのかもしれない。もしも僕たちにも強力な神がいて、家族を大切にさえすれば人生の意義を認めてくれるのであれば、ここまで労道に価値を見いださなかったのではないだろうか。とはいえ、他の無宗教国家比較したわけでもないので、本当に思いつきの仮説ではあるのだけれど。

そんな事を考えながらカレーを食べていたら、あっという間にナンが1枚無くなってしまったのでおかわりした。ナンおいしい。

2010-03-12

法律もウェッブルールも糞くらえ!俺が嫌だと言っている

現在ブリーチをヒットさせ、ツイッターもやっている久保帯人先生過去日記サルベージ

2000年08月08日

最近、このサイト画像プリントアウトしている 人がいる。というちょっと

イヤな噂を耳にした。 えーっと・・・・・・。 ここに来てくれる人の中にそんなのがい

るなんて 思いたくないけど、取り敢えず。止めて欲しい。 と言っておきます。 このこ

とについては、多分VEGATも書くと思うので そっちの方もチェックしといてほしい。

そして今回の日記を見て暗い気持ちになった、 無関係な大多数の人たちには、お詫びを。

ごめんね。 それから、明日と明後日日記、とぶかも。

2000年08月10日

8日付けの「プリントアウト云々」について書

いた日記 に対して 「プリントアウト自体は法に触れない」 「個人で楽しむのならいい

んじゃないか」 といったようなメールが幾つか来た。 俺がいつ法律の話をした?俺が

ダウンロードして欲し くない」と言ったのは、ギャラリーに飾ってあるものの 中には、

俺が家族や友人の為に描いて送ったものもある からだ。 勿論それらは本来こういう場所

に置くべきじゃない。っ てことは解ってる。でもきっとファンの人達は、できる だけ沢

山俺の絵を見たいだろう。そう思って、送った相 手と相談し、「他の人も見たいだろう

から(載せても) いいよ。」と理解を得て載せているものなんだ。 俺はファンの人達

信頼して絵を置いてるし、これから も信頼していたい。 法律もウェッブルールもクソ喰

らえだ。 俺が嫌だと言ってる。「プリントアウトしちゃいけない」 理由がそれだけじゃ

不充分なんだろうか?

2000年08月28日

ギャラリーを閉鎖しました。 理由は、あれだけ俺の考えを説明したにも関わらず 「絵を

ダウンロードさせて貰っていいですか?」と いうフザケたメールが来たから。以上。

そういえば、ここのところのレンタルビデオ攻勢で 漸く「ARMAGEDDON」と「MATRIX」を

観る機会を得た んですが、(遅すぎ)どっちもつまんなかったです。 「ARMAGEDDON」

の方は、同時期に公開された(と記 憶している)似たようなコンセプトの「DEEP IMPA

CT」よりずっとつまんなかったし、「MATRIX」のア クションのエキサイトメントは「B

LADE」や「LAST HERO IN CHINA」の足許にも及ばない。 まぁ、「ARMAGEDDON」は元々ス

ティーヴ・ブシェー ミ目当てに観たんだし(しかしジェリー・ブラッカ イマーと組むと

必ず磔にされるなぁ、彼)、OPに ジョン・ボン・ジョヴィの曲を持ってきて、その曲

と同時に登場する黒人の連れてる犬に「リトル・リ チャード」(ジョンの敬愛するミュー

ジシャン)と 名付けるという小ワザがあったので、良しとしよう。 (いいのかよ)

でも「MATRIX」の方はホントにつまんないよ。アタ マの悪いオタクが「頭いいね」って

言って貰いたく て作ったような、妙に説明的でややこしい(つーか アタマ悪ィから単に説

明が下手なだけだ。)ストー リーのせいで物凄く眠いし。とってつけたようなラ ヴ話も

ウザいし。ホント劇場に観に行かなくて良か ったぁ・・・。

その後

日記での暴言について>

今まで、ネットのように「顔も声も伝わらない伝達手段」に一切興味を

持たず生きてきた俺にとって、「表情も身振りもイントネーションも伝わらない、

文字だけでの意思の伝達」がどのように受け容れられるか、というのは

全く未知のものでした。

その未知のものに対して、深く考えることなく足を踏み入れた結果、

池袋の駅前で友人に話すのと同じ感覚日記を書いてしまい、

一部のファンの方々を傷つけてしまいました。 ごめんなさい。

ただ、普段の俺はああいう言葉日常的に吐いている口の悪い人間なわけで、

ファンの人達の前でそういう部分を繕って

良い人間であるかのようなフリをするのは申し訳ない。という思いから

敢えてああいう言葉をそのまま載せていた。というのも事実です。

「その考え方は間違っている!」と言われてしまうかもしれません。それでも。

少なくとも俺は、俺の描くものを好きでいてくれる人達の前では

全てに於いて正直でいたかったのです。

オマケ

2000年07月05日

浅田さん(担当)が来た。 何を話したのかはナイショだけど、

とりあえず いいことが一つ。 編集部行方不明になってた、98年当時のファンレター

(BAD SHIELD~の後に届いたもの)の一部が 見つかった。 嬉しいやら懐かしいやらで

もう大変。 「ああ・・・この子、読みきりの頃は毎回手紙くれてた のに、今はもうくれ

なくなっちゃったなぁ・・・」とか 「あ、この子はこの頃から手紙くれてたのか。」と

か。 色々楽しみながら読みました。 それから、3巻の感想手紙や、俺のバースデイ

祝う手紙も来てた。 ビックリしたのは、誕生祝に「ZBPDにインスパイア されて作っ

た」と、自作の曲を送ってきてくれた子が いたこと。 これが予想外に(失礼)いいメロ

ディで驚いた。 その子、このページ見てないだろうなぁ・・・。 とりあえず、remix

方がメロディの良さが 際立ってて良かったです。 で、そのテープには俺宛のメッセージ

とかも 入ってたんだけど、やっぱりアレだね。手紙に 声入りのテープとか、そういう生っ

ぽいものが 入ってるとドキドキするね。もちろん良い意味で。 何て言うか・・・「ああ・・・

俺はマンガを 描くことで、こんなに遠くの人たちとこんなに深く 関ってるんだなぁ・・・」っ

て。 幸せな気分になる。

漫画家としての喜びを実感する久保先生

2000年07月12日

自分にとって、嫌いなマンガ(家)とソレ以外とを 線引きする基準って

何だろう?って考えてみた。 取り敢えず、俺はマンガに関しては常に 「自分画力が、

マンガ家として絵を描いても良い  最低限のレベル」だと思ってるので、 自分より少し

でも絵の下手なマンガ家は 好き嫌い以前にまずマンガ家として認識できない。 だからきっ

と俺の基準は絵だろうと思ってて。 でも最近、よく考えるとそうでもないってとに 気付

いてきて。 で、色々考えた末に辿り着いた結論。 出てくる連中が息してないマンガが嫌

いだ。 ほら、俺らマンガ家仕事って、頭の上らへんに 出てきちゃー、ハシからどんど

脳みそン中に沈んでく 連中を溺れないように傷つけないように引っ張りあげて 紙の上

に乗っけてやるモンでしょ? でもそれってすげー難しいことなんだ。 当然それに失敗す

るって事は、赤ん坊を取り上げるのに 失敗するのと同じで。失敗された子は息しない。

でもそれより難しくてそれより重要なのは、 「周りの空気」をちゃんと描いてやること。

それができないと、そいつがどんな言葉喋ってても 空気の無い所でもがいてる様にしか

見えなくて 読んでるこっちが息苦しくなる。イライラする。 だから嫌い。 よく考えた

ら俺の「絵が下手」ってのを判断する基準も デッサン云々より(つーかデッサンなんて

絵描いてりゃ 嫌でもジワジワ上達する)出てくる連中それぞれの描写 によるところが大

きいです。だから・・・ ・・・あーダメだ。ねむい。 やっぱ自分の頭の中のことを理論

立てて話すのって 難しいや。俺にはムリ!(笑) あー・・・何でこんな面倒なこと描こう

と思ったんだろ。 やめやめ。 中途半端でゴメン! 読まなくてもいいですよ! つーかこ

んな長いのメンドくて誰も読まんだろ。(笑)

独自の漫画論を展開する久保先生

2000年07月21日

シックス・センス」のビデオCMが面白

い! しかしシックス・センスかぁ・・・懐かしい。 今の彼女との最初のデートの時に観

映画です。 ・・・?まてよ?映画より動物園の方が先だったっけか? ・・・まぁいい

や。取り敢えずシックス・センス。 まだ観たことなくて、これからレンタルで観ようと

思ってる人達忠告。 この映画劇場公開前から「最後に大ドンデン返しが ある!」と

散々騒がれてたけど、その大ドンデン返し、 絶対に予想しないで下さい。 下手に予想な

んかすると俺みたいに 観るまえに立てた予想が的中するなどという 困った事態に陥る可

能性があるので。 つーか俺的にはラストなんかより途中の 病気女の子のシーンの方が

よっぽど ショッキングでした。

鑑賞前にドンデン返しを当てた頭脳明晰な久保先生

2000年07月31日

パラパラって何が楽しいんだろ? 振り

付け丸暗記してみんなで同時に踊って。 ガッコで阿呆教員のやる暗記授業と何が違う

んだ? 脳味噌無駄使い。 みんな揃って同じ踊りを踊る画ヅラなんて、幼稚園の お遊

戯会か、イタい新興宗教みたいだ。ヘドが出る。 ダンスの楽しさってそういうもんなの

か?

若者流行に苦言を呈す久保先生

2000年08月03日

近所のイトヨに行くと、やたらおばさんの視線を感じる。 そんなに俺は

イトヨから浮いてるか? オレンジ色のサングラスがそんなに珍しいか? それとも銀色

スニーカーが悪いのか? といった感じでおばさんに不評なマイフェバレット サングラス

をかけた俺の写真ものってたりする ZOMBIEPOWDER.第4巻は明日発売です (うまい話の

つなげかたです、帯人さん。) 俺宛のメールフォームもトップに置いてくれた ようなの

で、感想とかはこちらへどうぞ♪

どんな場所でもロックスタイルを貫き通す久保先生

2000年08月04日

「大人なんて大嫌いだ」と思い始めたら大人。

自分は大人になった」と思ってるうちは子供

口に出す言葉がそのまま名言となる久保先生

2000年08月24日

今日(昨日?)は立川のシネマシティに映画を見に 行きました。ポケモンの。ポケモン

彼女のシュミ ですよ?俺じゃなくて。 それにしても綺麗だなあ!シネマシティ!え?映

画 の感想?楽しかったですよ?帰り道で「肌に合わな い」とか言って、彼女をヘコませ

たのはナイショで す。で、その後TSUTAYAビデオをいっぱい借りて、 今、ビデオ大会

最中です。例によって「オールで」とか言いながら既に寝る気まんまんです。

デートといえども、同じ創作者として作品には厳しい意見を口にする久保先生

2010-02-21

関東圏の「ありがとう」イントネーションが耐えられない

なにあれ

感謝の気持ちが伝わってこない

2009-11-29

かな書きの文章はなぜ「読みにくい」と言われるのか?

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1

ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。

●時間厳守は遅刻する人に迷惑がかかるのでやめてください

この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。

前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

●記事のブックマーク・ページ(1)

●記事のブックマーク・ページ(2)

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページ

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ

以上の4つのリンク先からブックマークコメント引用させてもらいます。

id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。

私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。

1. 漢字について

2. 「学校という空間」をこそ問題にしよう

3. 表記が生成される場に立ち返ってみる

4. 国語廃止論序説

5. 「国語廃止論序説」への補足

5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。

ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。

上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。

それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。

また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。

とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。

そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。

もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマークコメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。

id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。

日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字学習に費やされていることも。

日本学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。

いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。

あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。

●漢字が排除するもの - hituziのブログじゃがー

 漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。

 もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。

 私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者日本語学習者です。

 そうした人たちが文字情報アクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。

こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。

こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。

「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」

これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータスロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。

同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。

だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。

さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。

「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマークコメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?

前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。

id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい

id:baumkuchen555 みんなよく読めるな

id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること

id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな

id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw

id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる

id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり

id:makiyamakoji とても よみに くいね

id:feita さすがによむきがおきないね。

id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。

id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない

id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?

id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…

id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない

id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。

id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ

id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化

id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。

お疲れ様でございます。

みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。

「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。

「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。

上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。

id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。

この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。

なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。

ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。

そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。

つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。

こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。

id:Yagokoro [これはひどい] 日本語すぎて読めない。

日本語すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。

書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?

なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。

すでに述べたように、私は自分言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。

たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?

その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。

しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。

繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。

次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。

 このごろ建物階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。

 たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。

 もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。

 つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞ニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。

 何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……

(訳者注:原文ではかな書きで引用されている)

見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄り自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。

文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。

だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。

同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。

そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。

石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。

 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。

 たとえば、駅の階段エレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーター車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。

あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。

要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。

その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。

私は前の記事で次のように書きました。

 さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。

これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。

漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。

そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。

id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記

id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。

id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった

id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認

ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。

たとえば、「日本語同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。

しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。

実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。

他によくある誤解はは、漢字表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。

id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど

ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。

英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。

つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。

要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。

(続き)

2009-10-31

……にしている理由

http://anond.hatelabo.jp/20091031002846

「‥‥」と「……」ってあるけど、「……」の方が一般的だからこっちにしてる。

「‥」と「…」でもいいけど、二つないと中黒「・」と見分けがつかなくなるんだ。

「‥」だと中黒の半角変換みたいって言うのかな。デリートキーで中黒になっちゃうんだよ。

「・・・」と「・・」はダメ。なんか、中黒に見えちゃって。中黒のミスで二つになったり三つになったりする。

「。。。」や「、、、」だと、文を置き忘れたみたいなのかな。空白の文章が気になってミスに見える。

「...」と「..」でもいい気はしてるけど、英文が中に混ざったらもうわけが分からない。

だから「……」にしてる。

形式って言うより、自分の文章のミスが多いのが原因。ミスミスじゃないかの区別がつかなくなるんだ。

例文

今日朝起きて、ご飯を食べました。。そこで卵焼きが出てきておいしかったです。

これは、

今日朝起きて、ご飯を食べました。そこで卵焼きが出てきておいしかったです。

これで分かるかも知れない。下が俺が打ちたい文章なんだけど、上の文章になっちゃうときがありまくりだから。

二つおいているのもわざと。ミス多いから、わざとミスが見えるようにしてある。「……」もその一つだよ。

って違うか。「……」を「。」で良いかって話だったか。そっちは拍。すまん、素で勘違いした。

イントネーション含ませたりフォント遊び好きだからかも。本当は「。。。」って打ちたかったんだ。

でも、うっちゃうとなあ。うっちゃうと、どれがミスか分からなくて書いた俺でも直せないんだよ。

2009-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20091025221649

同僚がミスったときの言い方がきついらしい・・・

「お前なにやってんねん」とか、「ちゃんとせーよ」とか

そういうのは言うんですけど・・・

それって普通じゃね?と思うわけで・・・

NOT関西人です。仕事であちこち行きます。

個人的な感想ですが、あまり嫌じゃありませんね。

イントネーションが軽いというか明るい感じがするんですよ。

同じ事を言われると、東京人間物言いが鼻につく事がよくあります。

「なにやってるんですか?」とか「やる気あるんですか?」とかですかね。

目をつりあげてドヤす、という感じならダメだと思いますが、

「なにやってんねん!」って感じなら本当に何やってんだよ!って状況でも

「うわースンマセン!」って返せそうな。

どっちにしろ、言い方使い方だと思うんですよ。

何弁だろうが、相手が100パーセント悪い!って険悪な言い方をすればアウト。

大手のメーカーとの付き合いもありますが、

協調性や雰囲気って、東京と比べて断然関西の方が柔かくて、明るい。

東京は険悪にさせる天才じゃないかと思う事がしばしばあります。

(といっても、東京人間は少ないんでしょうけど)

けして、「関西弁の罪」ではないと思いますよ。

多分、同じ事を標準語で言ったら、確実にもっと嫌な奴です。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん