2010-03-29

スイーツ社畜無宗教

今日の話。新宿就活面接を終えた僕は、お昼ご飯を食べるためにセンタービルにあるカレー屋に入った。そのお店にはたまに行くのだけど、ランチタイムナンを何枚食べても許されるというシステムになっていて、手頃な値段で満足できる良いお店なのだ。入り口にあるレジで890円のセットを注文して席に案内されると、特にやる事もないので面接の出来についてボーッと考えることになった。後ろ方の席からいわゆるスイーツな会話が聞こえてきたのは、ちょうどカレーセットが運ばれてきた時だ。内容についての細かいことはあんまり覚えていないしここでは書かないけれど、「シアワセ」について20代か30代ぐらいの女性2人が語り合っていた。僕は、その種の女性特有のイントネーションで行われる何とも言えない会話を聞きながら、「薄っぺらい幸せだよなぁ」と無意識に考えたと思う。「スイーツ」という言葉には(笑)が必ず付いてくるものだけど、それはきっとそういった薄っぺらさに由来するもので、多くの人がなんとなく共感しているのだと思う。まったく傲慢な話ではあるのだけれど、僕は半ば無意識に、彼女たちをそんな薄っぺらい人間だと思ってしまったわけだ。

ところで、僕は海外ニートの人の話にとても共感を覚えるタイプ人間だ。つまり、仕事なんて生きるために適当にやればいいんじゃないか、と思っている。本音を言えば、働かなくて済むのなら1mmたりとも働きたくないぐらいなのだけど、とりあえず現実的な妥協案として、生活に困らないぐらいのお金自分で稼ごうかなと考えている。そんな僕にとって就活苦痛連続で、なにが辛いかと言えば、就活をしていると本当にひしひしと感じるんだけど、みんな驚くぐらい仕事が大好きなのだ。説明会では「やりがいがあるからこれぐらいの残業なんて気にならない」とかいう社員を500人は見てきたし(しかも「これぐらい」が100時間を平気で超えるんだよ)、「そういう経験自分の成長につながる」とかもよく聞く台詞だ。それが彼らの本心なのかどうかは僕には分からないけれど、少なくとも表面上は、みんな仕事が大好きで、しかも仕事を通してなにか人間的な高みに登っていくという事になっているようだ。まったく反吐が出る話だと思う。

そんな僕がスイーツな会話を聞きながら、彼女たちの事を「薄っぺらい」とか「くだらない」とか思ったのだ。言い換えれば、僕は女たちの価値観それ自体をくだらないものだと考えたんだと思う。僕がひどく傲慢な人間だと言うことはこの際認めるけれど、そのとき僕がむしろ驚いたのは、自分の中で重要ロジック破綻していることだった。だって、僕は仕事が大嫌いで余暇とか趣味とかを楽しむ人生を送りたいと考えていたはずなのに、実際に生活の端々で楽しみをみつけてシアワセを感じている彼女達の事を薄っぺらいと思ってしまったのだから。僕は彼女達のようになりたいと考えていたはずなのに、なんで彼女たちを見下しているんだろう。

この矛盾に気がついたとき、僕はなにか悟ったような気がした。どうやら僕も労道を信奉する人間の一人だったらしいと。つまり、僕の人生価値観、あるいは評価軸の中で「仕事で認められる」という項目は重要な役割を果たしていて、僕が彼女達をくだらないと考えたのは、彼女たちのシアワセの基準がそういった仕事に関係したものから著しく乖離していたからだったのだ。そして、これは本当に面白い話だと思うんだけれど、「仕事なんて糞だ」というのも偽らざる本音なのに、それと同時に「一人前の人間として認められるには仕事で成功を収める必要がある」とも考えているのだ。この2つの考えはどうやら両立するらしい。内心仕事なんて糞だと思いながら、仕事を二の次にしている(ように思われる)彼女たちを馬鹿にしたのは、そういう理由からなんだと思う。海外ニートの人の記事に隠れキリシタンの話があったけど、実は多いらしい反社畜の人が隠れたままなのも、もしかしたら同じ理由からなのかもしれない。みんな「仕事なんて出来ればしたくないけど、一人前として認めてもらうには仕事を頑張って成長しないと」って考えているのではないだろうか。ほんとに、修行みたいな話だ。スイーツには必ず(笑)が付くのも、説明会の社員はみんな仕事生き甲斐なのも、きっとそういう事なんだと思う。

ところで、ここで僕はもう1つ考えたのだけど、僕はいったい誰に一人前と認めてもらうのだろうか。家族? 友人? 社会? たぶん全部だろう。ただ、これってもしかすると世界的には珍しいのかもしれない。日本人にとっての評価というのはどこまで行っても人間にされるものだと思う。それに対して、もしかすると西洋では(西洋っていうのも曖昧な話だけど)、より重要な要素して神が入ってくるのではないだろうか。僕は宗教にも国外文化にも全然詳しくないので本当になんの根拠もなく適当なことを言っているのだけど、彼らは人生の意義を神に認定してもらっているように思える。それに対して僕たちは人生の意義を周りの人間にしか認定してもらえない。もちろん、「人生の意義を他人に委ねるな」という意見もあるかもしれないけど、そう簡単に割り切れるものでもないと思う。そして、自分人生の意義を高めること、つまりより多くの人間に認めてもらうという事を考えた場合、どしても社会に向かう必要が出てくる。家族を大事にしても、認めてくれるのはごく親しい周りの人だけだろう。僕たちは仕事にやり甲斐を見いだし、社会に対して何らかの影響を与えることによって、人生の意義を多くの人から認めてもらおうとしているのかもしれない。もしも僕たちにも強力な神がいて、家族を大切にさえすれば人生の意義を認めてくれるのであれば、ここまで労道に価値を見いださなかったのではないだろうか。とはいえ、他の無宗教国家比較したわけでもないので、本当に思いつきの仮説ではあるのだけれど。

そんな事を考えながらカレーを食べていたら、あっという間にナンが1枚無くなってしまったのでおかわりした。ナンおいしい。

  • 残業時間や休出を当然のように語ったり自慢の種にするような人間のことはオレも「はいはい社畜乙」と思ってるけど、オレは仕事それ自体は別に嫌いじゃない。 増田だって「自分の...

  • 「苦労する人間ほど偉い」という価値観を持ってるから 趣味を楽しむスイーツを見下す気持ちと仕事はやりたくない気持ちが両立してるんじゃないかと。 「仕事なんて出来ればしたくな...

    • つか、自尊心の差じゃね? スイーツとか言われてるような連中は、身の程をわきまえているから、凡人としての人生を素直に楽しんでる。 それを見下す連中は、身の程を知らないから...

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