群馬って国があるって聞いたけど
ちっちゃいことは気にするな、というか他人のことに気にかかる必要はあるのか。
お人好しなのかもしれないけど、どうしても納得いかないことがありまして……
身近なことなんですけど、いじられキャラといじる側ってよく見る光景だと思うんですね。
私としては、悪いいじる側だと思っている人達がいまして。
その人達のいじりって自分は損をしないんですよ。というか本当にいじって終わり。いじられた側はいじられたことで存在感は増しますが、本当にそれだけ。愛情が感じられないんですよね。
テレビでさえ松本人志を例に挙げれば、仮に若手芸人をいじったとしても、番組内では自分のプライベートなどを暴露して自分自身にとっては損することを打ち明けたりすることがあります。それが笑いに繋がるからお笑い芸人は凄いと思うんですよね。松本人志は特にその塩梅を理解しているからいいなあ、って思うんですよね。
いじる、いじられるも『≒』の関係性が必要だと思うんですよね。
休日のショッピングモールとかにいるお洒落した小学生が凄い可愛くて驚く
少し前までの小学生ってミニモニ参考にしたみたいなちょっとケバいというか無理してる感じなコーデが多かったけど最近やたらとこなれた連中がいて何こいつら最強すぎってなる
自然体かつめちゃお洒落でコクがあるのにキレがあってさっぱりこってり加点たっぷり減点なしって状態
肌キレイで体つきも人形みたいなのにそこまでやられたらもうどの年代も勝てないじゃん
せいぜいおっぱいの大きさでエロアピールぐらいしか勝負できない
いつの間にこんなことになったんだろう
成長速度の成長速度が成長しすぎているA(超スゴイ)にも程がある
強すぎる
怖い
人口の数パーセントぐらいにふるいが掛けられてるみたいに思えるけど
建前上は四民平等で職業選択の自由があり義務教育も普及した現代では
大幅にスタート条件も対等になってるんじゃないんですか
先のエントリですでに
「そら、ある程度は血統や生育環境とか影響しますよ、でも全部じゃないでしょ」
と書いてるやん
思うに、先天的な要因や環境を突破できるかの大きな要因(全部とはいわんよ)は
いかに親がド貧乏で無学歴のDQNでも「あ、俺も大学行ったら金持ちになれるかも知れない」と
そら当然、そのような空想の余地と想像力の材料さえない閉鎖的でどん底環境
てのもあるだろうけどさ
空想する能力の有無なんて育ちに関係ない個々人の性格と資質の最たる物だと思うのだが
ないんだなーこれが
暗い海で溺れてる俺を、誰かが船に引き上げてくれるって思ってた。
俺以外の全員が、俺を置いて船に救助されたとしても。
俺はどうして救助されなかったのか、考えなければならない。
あいつは顔が良かっただけなのに助けて貰えた。
あいつは俺に嫌がらせをしてきたのに。暴力を振るう奴なのに。差別主義者なのに。
どうして俺は助けてもらえないんだ・・・?
もう、そんな意味のない考えは捨てなければならない。
不公平じゃない。
不平等でも不運でもない。
本当は気付いているんだ。
俺自身が救助を拒んでいることを。
全てを捨てて船に乗ろう。
ありったけ勇気をかき集めて船に乗ろう。
リアルな愛はご都合主義や主人公補正がないからどっちかまたは両方が薄暗いものやらツライ義務やらを背負う(長期的にはだ。短期的には義務や辛さなどない組み合わせに見えることもある)
フィクションの愛はどちらも背負わなくてすむよう世界のほうに補正がかかる
商業化された愛は「どっちも背負ってないですよ」という顔をするために片方がものすごい努力をし、しかもその努力を隠す
(無償か有償かは長期的にみないとわからないが長期的にみて有償でやってることが多い)
フィクションが理想、リアルもフィクションなみをめざさなければならない
と勘違いする読者が増えると
「そのフィクションは商業化推進してませんか」とフィクションに詳しい界隈から指摘や補正が入る
それに対する反論は「フィクションとリアルを混同するバカなんかいません。フィクションはフィクションとして楽しませろよ」しかない。
ここ増田にもなんか個人のヘイト感情と平等を勘違いしてるアホとかしょっちゅういる
まあでも結局のところ好みなんだよな
フィクションのせいじゃない「困り」の発生は必ずある。
すべてをフィクションのせいにするのはさすがにお門違いだが
かといってやめるときもすこやかなるときもと誓ったり「フィクションはフィクションとわきまえた」程度で
困りがなくなるわけでもないんだよな