ていうか、日本という国の歴史を教えようと思ったら絶対に宗教への言及って必要なんだよね
昔の偉い人が仏像や寺院を作ったっていうどうでもいい話から、出家して名前が変わるとか、寺を焼き討ちした結果とか、
キリスト教を弾圧して鎖国したとか、天皇を神格化して戦争したとか
世界史でも、文明の成立から始まって、ヨーロッパの中世から、イスラム教の成立まで言及が及ぶ
これがアメリカの歴史の授業だったら、宗教の話出てくると思う? イギリスの歴史でキリスト教以外の話出てきそう?
日本人は教育課程で、宗教はひとつだけじゃないってこと、絶対的なものじゃないってこと、客観的な見方を教えられる
『気付き』とか自己啓発とか、感謝とかツイてるツイてるとかそういうことばかり言ってる会社に5年ほど勤めてた。
社長は常に自分たちは『気付く』ことのできる人間だ、と言っていて、自分でもそう思い込んで、自分は優れた人間だとか思い込んでた。
友だちと会っても、「この人たちは視野の狭い人間だ。他人に対して感謝することができていない」とか思ってね。
会社を辞めたら、自分の思い上がりと勘違いだったんじゃないかあれ、って思うようになってきた。
無理して「ありがとう」とか「ツイてる」とか言わない今のほうが、単純に楽しい、うれしいと思える時間が増えている現状。
周りを見下していたのが恥ずかしい。
人間の歴史の中で絶対に無視できないものだけど、水や空気や食べ物のように生存にそれが必須なものではない
でもそれが普通のことで、外国のように、国が宗教を決めたり、国民の宗教が統一されていることの方が不可思議に思われる
元来人間の精神というのは自由で、宗教を信じる自由、信じない自由もあるはずである
何を信じるかは個々人が決めればよいのだ
今の時代は、昔よりも幸せに生きられる人が多い時代なのだから、
たとえば、私の伯母はガンに侵されてから、夫の信仰するキリスト教に入信し、洗礼を受けた
そして死を受け入れて亡くなったと思う
でも祖母は、実家が神道の家だったので、祖父を葬儀を神道で行うといって、父と喧嘩した
今の私は祖母の気持ちがわからないでもない
いくら祖父の望んだことでも、自分の信じてきたことから外れたことをするのは受け入れがたかったのだろう
どうしようもなく辛い時期があって、辛さを忘れる方法を模索した時に、仏教の無常という考えに救われたことがあった
人間が生きるうえで、自分ではどうしようもなくなった時に必要なものがあって、それが宗教という形になっていると思う
今の時代は豊かなので、特に日本では、自分ではどうしようもないということが少ないのかもしれない
でも、宗教ってなんなんだということは考えてみてほしい
無人野菜販売所から金払わずに野菜だけ持ち去って、「あれは大体の客が真面目に払うであろうシステムなのである」などと嘯いたあげくそれを「裏ワザ」とか言っちゃう感じの人ですか。
100円のスポンジを半年くらい使っている。
落ちない。
キュキュットってこんな落ちなかったっけ?
と思ったくらい落ちない。
洗剤余計に使っちゃう分で200円より差額は小さいに違いないんだ。
そういう気の小さいのがほんとにいやだ。
頭悪い。
タイトルの通り、12/23に喧嘩し、12/25に別れたので(私が振った)、彼という一人の人間のことを振り返ろうと思う。若干フェイクはいってます。
本当にきっかけは恐ろしくくだらないことだったんだけど、上記の欠点のこともあり、年齢のこともあり、これは改善しないだろうな、
と思ってお別れを切り出しました。案の定25日に電話したときも「仕事で精神的に限界きてるから手短に」って言われたので、
「別れてください」と言って、「わかった」という答え。その割に23日も仕事でトラブってて精神的にヤバかった、と言い訳する。
何なの。別れたいの別れたくないの?と思いつつ、そういうところ全部ひっくるめて嫌になってしまった。
私的には「ごめん」の一言が聞ければ別れを切り出すつもりはなかったんだけど、2日経っても言い訳しか出てこなくて、謝罪の言葉は
一切なかったからもうダメだな、と。結局相手がどういう気持ちなのか、まったくわからないまま別れることになっちゃった。いいんだけど、モヤモヤする。
彼の荷物がかなり我が家(ひとり暮らし)にあるので、近々とりにくるみたいだけど、会いたいような会いたくないような複雑な気持ち。