はてなキーワード: 火垂るの墓とは
新海誠はデビュー以来屈折したアニメを作り続けていて、それが『君の名は』で漂白されて大ヒットした。その成功を旧来からのファンは「新海誠もそっちに行ってしまうのか」と半分祝福、半分寂しい思いをして見届けた。
そして次作の『天気の子』。この映画で新海誠は旧来からの期待に答えて闇の部分を出そうとしていた。天気の子は『キミ』と『セカイ』を天秤に載せて葛藤するよくある話だが、昔からあるこの手の話は『セカイ』の描き方に重きが置かれておらず、葛藤が成立していなかった。そこで新海誠は自分の才能を活かし、皆が生活する『世界』を圧倒的に美しく描き、失うものの重量を重くして天秤のバランスを取ろうとした。
新海誠はインタビューでこの作品は賛否両論を巻き起こすだろうと語っていたが、しかしその試みはうまく行かなかった。なぜならこの映画が公開されていた2019年は個人の人権が最も重視されていた時代だったからだ。ブラック企業問題が社会問題になり、社会と個人どちらを取るか問われたら、みんな個人と答える、それが正しいとされた最後の時代だったからだ。だから天気の子は葛藤が成立せず、作中でくどいくらい穂高が犯罪を重ねても、それを責める観客はほとんどおらず、ただのラブストーリーとして消費された。
しかし今は違う。コロナ禍で世界は変わってしまった。恋人と会うために病院から抜け出すカップルがいたら、社会は容赦なく糾弾するだろう。『火垂るの墓』の高畑勲監督は80年代にインタビューで「いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と語っている。『天気の子』もまた『火垂るの墓』と同じく観る時代によって見方が180度変わってくる映画だった。
異様に温かい人々に飛び跳ねまわる元気すぎる子、憂鬱な感情を持っても周囲に発散しまくってお咎めなしな登場人物。
わけの分からぬ家族の談笑。だけのこの人のウソは美しい。夢を見たい人々には良い酩酊剤として働くのだろう。
実際の宮崎ワールドは風の谷のナウシカの原作に求められるように思う。権力と自分足りの理由に奔走して世界を悪くする人々。ただこの人には一つの抜けがあって、純粋に世界を壊すことを楽しんでいる下らない人間がいることを描いていない。人間は基本的に善性で動いており、成り立ちや理由によって悪になったり悪の如き正義を振るったりするのだ、という発想で描いている。まさかネットストーキングをするような糞がいるなんて想像だにしてない。もっとも人をおもちゃにするような人種を描くことに関して抵抗があるのかもしれないが。多分監督がリベラル左翼だからこその発想なんだろう。
この点高畑勲は妹への恋慕のあまり妹を餓死させてしまう火垂るの墓を淡々と作った。ここにある断絶はなにかといえば、人に対する信心があるか、あるいは人は単なる観察対象かだ。この意味で宮崎と知り合いの押井守はより人に寄り添っていない。彼にとって重要なのは人ではなく形式や構造のように思える。そもそも人間に対する信心という感性そのものが人間らしいという皮肉めいた構造があるように思える。翻って、リベラル左翼という思想は大変構造的だ。それは無機質にすべての人は許容され、すべての人や権力は批判されるべきだというフラットな発想に基づいている。むしろ思想であるからフラットでなくてはならない。実はこうした思想と宮崎駿の人間力は非常に相性が悪いのではないか。
宮崎駿的人間力は非常に理想的で恣意的で、思想的ではない。彼が言う老後の入院生活を描いた絵にはたくさんの欠点が存在する。理想を維持するのに多大なコストがかかる。しかも彼は革命家であったので、スタジオジブリを給料制にして一度は倒産寸前にまで追い込んでいる。宮崎駿が全てを仕組みと制度で考える人間なら人間の不条理もそのまま無感情に描いていたように思う。ナウシカ原作ですら全ては情熱によって動かされれており、無感情なのは墓所の先人たちだけだ(もっともこの墓所の住人は旧癖の形象化だとは思うが)。つまり彼はリベラル左翼的でありながら、リベラル左翼すら鼻白む感性で批判しているのだ。この点でむしろ非常に左翼的なのはアンビバレントな監督らしい。概ねあたっているとする予測でしかないが、インテリ左翼はムスカのように道化として描き、権力も嫌い、同じように抑圧的な共産主義も嫌い、それでいて人間には希望があるべきだという大矛盾の分断された心象を監督は内包していることになる。だからこそ宮崎駿のウソは今でも世界で輝いている。
ハードルだいぶ高かったけど、よくできてたわ
結構ライトなタッチと言うか、笑いのシーンが多かったのが印象的
全体の2/3はそういう軽いシーン
別に今更そういう雰囲気のアニメが登場してもウケないと思うんだけど、それを戦時下でやると意味合いがかなり変わるよね
構成としてはパニック映画で、しかもパニック映画の中でも冷笑的
今更第二次世界大戦をネタにするには丁度いい感じがする、「風立ちぬ」の後だから丁度いい感じ(風立ちぬ見てないけど)
あれは焦点が悲運な兄妹だったからな
セカイ系に近かったよね
普通のパニック映画だと、ミクロ(家族話)とマクロ(戦況)の話を交互にやるのが一般的だと思うけど
第二次世界大戦は日本人にとって今更すぎるからマクロ、つまり戦況の説明がバッサリカットされている
これによってだいぶミクロに焦点を当てられたと思う、パニック映画のミクロの話を2時間やった感じ
でも日本人は何日に何が起こるか分かってるから、平和な日常をやればやるほど落差に恐怖する
エンターテイメントとして非常に巧妙
戦争映画は散々作られただろうけど、ついにここまで来てしまったかという感じもする
これ以上擦られたら、もう辿り着く先はヒトラーいじり映画みたいなのしか残らないし、日本における第二次世界大戦ネタはもう終わりなんだなーと思わせる内容だった
それでいいのかもね
別物になるよ
http://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2020/03/21/072217
作者の意に反して商業展開したなら俺も怒るが、なんで読者の思い入れのために作者がボランティアせなあかんのよ。
なろうが書籍化マンガ化した時に「イラストがイメージと違う!」と思う事はあっても、
そこはイラストレーターの「分かってなさ」をぶっ叩く事はあっても作者を責める事はできまい。
それは読者として一線を越えている。
「現実とお話を等価・あるいは近いレベルで考えて生活している」
に至っては、だから何やねんであって、マジなら自らの異常性を告白してるだけだし、そもそもマジじゃないだろう。
現実とお話が等価だったら火垂るの墓鑑賞後は世を儚んで出家してもおかしくはない。
賭けてもいいが、あなたは映画館から涙ぐんで出て来てインタビュー受けてる女性と同レベルであり、ワニの死より安倍総理の一挙一動の方が気になっているであろう。
そもそもグッズのために本編の展開を変えたというのならいざ知らず、
本編終了後に出たグッズなんて作品本体と関係ない存在であって、それこそ嫌なら無視すりゃいいだけのオプションに過ぎないだろう。
綾波の邪神像がどこぞで発売されたとして、それに対して「俺の綾波に何をする」的な反応する人を見たら貴方はどう思う?
今の貴方の姿がそれだ。
だいたいアブドゥルだって、皇帝と吊られた男戦で死んだものが、読者人気に押されて死んでなかった事にされたキャラであって、
それこそ「死を不誠実に扱う」の最たるものではないのか。
彼より不誠実に扱うとなったら、死亡シーンを忘れたかのように続編で登場するヤマトの乗組員くらいしか例があるまい。
はっきり言うが、貴方はワニの死を悲しんでいるのではない。
ワニの死で悲しみたいだけだ。
要するに盛り上がりたいのだ。
良い気分で盛り上がりたがってた所に、水を差されて怒っているのだ。