はてなキーワード: 弱虫とは
近頃、「フェミニスト」と「女性」は全く別個の存在であるという考えが一部の界隈で目につくようになった。
曰く「フェミニストと女性は全く別の存在」「まともな『女性』はフェミニストみたいな事は言わない」との事らしい。
けれどそれをまるで事実であるかのように吹聴され「女の敵は女」などと女性同士の分断を謀られるのにはこれ以上耐えられない。
「女の敵は男」だよ、少なくともインターネット上で女性という性別であるだけでそれを攻撃の対象にして良い理由としてきたのはいつも「男」だったよ。
今現在「フェミニスト」と呼ばれている何かにつけては問題視した相手を吊し上げるような人達に思う所がある女性は多少は居ると思う。
しかし、その事と「まともな女性はフェミニズム的な思考を持たない」という妄言がイコールであることなどあり得ない。
それは、「全ての女性はうっすらとフェミニズム的志向を持つフェミニストである」という物だ。
まず、今「フェミニスト」とネット上で呼ばれている存在はフェミニストではない。
彼女、或いは彼達は「ツイフェミ」とも呼ばれ男性嫌悪(ミサンドリー)の感情があまりにも強く、男性を攻撃するための「手段」にフェミニズムを使っている。
多くのフェミニズム的志向を持つ女性達からも彼女達「ツイフェミ」は浮いてしまっているのだ。
自分もフェミニンだからこそ過激すぎて理念を忘れてしまった過激なフェミニストや男性嫌悪者が受け付けない人は多いと思う。
フェミニズムは、元々自分も含めた他人を思いやるための慈悲の思想である筈だった。
過去に辛い事があった事には同情する、同情するけれど…憎しみが強すぎる人は他人を思いやれなくなるんだな…と悲しくて仕方がなくなる。
男女平等という理念を忘れ、ただ嫌いな相手を攻撃するために「フェミニズム」の看板を用いる存在はフェミニストではない。
女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である。
要するに、「男女の格差を明白にし性別に関係なくありとあらゆる人が平等に生きられる社会を作ろうという思想」とその思想のために運動する人の事である。
また、
という言葉もある。
日記のタイトルにこそ「全ての女性はうっすらとフェミニストである」と書いたが、本来は「性差別的な思想を持つ人以外の全ての人はフェミニスト」と言っても過言ではない。
では何故「全ての女性はうっすらとフェミニストである」のか。答えは当然、全ての女性は性差別に苦しんだ事のある被害者であり、性差別の根絶を願う者であるからだ。
全ての女性は皆がうっすらと性差別なんて無くなれば良い、女性が怯えずに暮らせる社会になってほしい、全ての人が平等に生きられる社会になってほしいと思っている。
もしフェミニズムがアンチフェミの言うように「まともな女性」から受け入れられない物であれば、とうの昔に女性自身の手によって解体されているだろう。
フェミニズムは女性を救う。そして、この世に救われない女性が居る限りフェミニズムがこの世から消える事も無いだろう。
【追記】
自らをフェミニストだと自認していない女性もうっすらとフェミニストである、と思う理由は色々ある。
幼い頃、或いは若い頃に親や兄弟、教師や上司、そしてパートナーに強烈な女性差別を受けた人は、「女性は男性に劣った存在ではない、女性差別を許さない」という考えを自然と持つようになると思う。
例えば
が居たとする。彼女にフェミニズムやフェミニストに対する知識は皆無である。
しかし、その「フェミニズムもフェミニストも一切理解していない女性」が、とてもフェミニズム的な志向を持ちそれを我が身や言動で体現しているというケースは決して稀な事ではない。
等々、一昔前なら「女が偉そうな事を抜かすな」「女のくせに」などと言われそうな言説である。しかし、こういう考え方はとてもフェミニズムに通じる物がある…と思う。
何故ならフェミニズムは「性差別を無くそうとする思想であり努力」だからだ。「女だって男に負けないくらい強い」「女だからと言って舐めるな」という負けん気とガッツは、正に「フェミニズム」の根底にある活力ではないだろうか。
自分達は決して劣っている性ではない、性別を理由に馬鹿にされても決して負けない、性差別を絶対に許さない。そう思っている女性は、例えフェミニズムを知らなくても立派な「フェミニスト」なのだ。
【追記2】
追記の意味がよくわからない。「女の方が強い・肝が据わってる・大変」といった主張が"フェミニズムに通じる物"で、“何故ならフェミニズムは「性差別を無くそうとする思想であり努力」だから”...?
これらの言説はまず前提条件として
という反論や負けん気は性差別に負けないという強い意志でありフェミニズム=性差別の根絶を目指す思想に通じる物があると解釈している。
例えると
ちょっと分かるわw
最近流行のV豚と腐女子のビーフも、ビーフとは呼べないほどショボいし
そのショボい争いを見て楽しんでるとかイキってる奴も居るけど(こいつとか→https://anond.hatelabo.jp/20210401211109)
所詮弱虫と弱虫の争いじゃん、アリンコとアリンコが戦ってるの見て何が楽しいの?もっと面白いビーフは幾らでも有るのに
結局弱いオタクくんたちの娯楽でしかないんだよね、本物には怖くて手を出せない
なんつーか、喧嘩慣れしてない坊ちゃんがいきなり喧嘩にナイフ持ち出す(んで自分でケガするw)みたいな危なっかしさがあって「無理すんなよw」って感じなんだよなぁ
ガチで切れても感情的にならないのが全体としての男なんだと思う。
個人としての男性は感情的にもなるけど、男が群れになった場合は、感情という物が抑制される。
そして現実問題としてどう可もなく不可もない状況に落ち着くべきか?という行動を取る。
これは男性の方が理性的とかそういう事ではなく、男の方が気弱という意味で、それが日本社会における群れとしての男性な気がする。
国会でガチギレしてる政治家も、アレは個人としてガチギレしてるんであって、それが理由で国が動く事は少ない。
まぁ国会で「バカヤロー」なんつって解散する事になった先生もおりますが。
子どもの言っていることだから、といって気にしない根性がない。
子どもといっても、未就学児から高校生までさまざまに分類されると思う。だから現場はそれぞれある。
様々な発言を投げかけてくる。投げかけてくる時はまだいい、遠くから廊下から聞こえてくるのだ。
「ムカつく」「つまらない」「うざい」「無理」「きもい」「消えろ」「頼りない」「あいつ嫌だ」「なんか苦手」
声が聞こえてくる。自分のことを言っているというのは分かる。
自分の名前がその言葉と繋がって発言される時、勝手に地獄耳になってしまうのが辛かった。
子どもたちは何かメッセージを持っています。向き合っていれば分かる時が来ます。
もちろん優しい声を持っている子どもいる。救われる時もある。
万人から好かれるなんてことはまずない。自分だって、苦手な人間がいるだろう。
でもね、そういう声を続けて聞いていくと、だんだん本当に自分がひどい人間に思えてくる。
愚かな話だが、子どもたちの何気ない評価が恐ろしく感じてくるのだ。
思春期時代、教室内で、自分がどのように評価されてるのか気になった時のような、狭苦しさと陰湿さが体に張り付いてくる。
まさか、自分が大人になって働く時にこんな感情になるとは思わなかった。
子どもといえ、もうほぼ大人な子たちの独特な眼差しはきつかった。
忙しすぎるとか、そういう要因も色々あるなとは思うが、こういった事がガンッと頭を打ったように出てくることがある。
こんな文章を匿名ダイアリーに書き込む時点でダメ人間だとわかるけど
自分の話はすごい小さい話で、どうしようもない弱虫なんだけどさ。
幼稚園児のひとり娘が、園での「鬼滅の刃ごっこ」に参加するため情報が欲しいらしく、母子で鬼滅の刃について学ぶことになった。
「首を撥ねるシーンが多い」という園ママさんからの事前情報があったので、アニメを全部見ることは避けて、キャラクター名で検索し、見た目や性格、ねづこが鬼になった経緯、「〇〇の呼吸」などを調べて二人で学んだ。
娘は善逸という人がギャグっぽく優しそうでいいと思ったらしい。私もいいと思った。「雷の呼吸強すぎでは……? あの目をつぶってるのは寝てたの?!」といろいろ驚いた。自信がなく弱虫だけど本気出すと強いという、この人にも主人公性があるなと思った。
主題歌と何話かは(怖いシーンは飛ばして)見たけど、黒髪の冨岡という人が見逃してくれたので主人公兄妹が命拾いしたことがわかった。冨岡さんいい人やね。
端本 悟(はしもと さとる、1967年3月23日 - 2018年7月26日)は、オウム真理教の元信徒、元死刑囚。
東京都出身。ホーリーネームはガフヴァ・ラティーリヤ。教団が省庁制を採用した後は自治省のメンバーとなった。
坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件などの実行犯として有罪判決を受け、2007年10月に死刑が確定し、2018年7月26日に執行された。
1988年春、オウム真理教に入信した高校時代の友人を脱会させるために、説得したり話し合ったり、友人の様子を見るためオウムのセミナーに参加し始めた。
当初は「オウムは弱虫の集まりみたいな集団だ」と両親へ話していたが、あっという間に麻原彰晃の説く四無量心・救済などの教えに感化され、同年7月に入信。
入信した直接の契機となったのは新実智光の存在が大きく、彼に高飛車な態度で疑問をぶつけたら、あっけらかんと「入信しましょう」と返され、「すごい悟りの人なのでは」と思ったことだったという。
死刑確定後は再審請求をすることもなく、拘置所では文学・哲学書を読んで過ごしていた。平田信が出頭した際は、彼のことを気にかけていたという。
獄中で「無思考、考えないようにしていた。考えると崩れるのが、わかっていた気がします。」と語ったと伝えられる。
2018年7月6日の麻原の死刑執行後、「わたしは命乞いのようなことはしたくない」「いろんな人に迷惑をかけてしまって申し訳ない」などと話し、接見した弁護士が再審請求を提案しても首を縦に振らなかった。