はてなキーワード: バースデーケーキとは
良く晴れた、ある秋の日。
からころとカウベルのような音を立てて、喫茶店に一人の女性が入ってきた。
正確に言えば、扉に付いているのは高地で放牧されていた牛がつけていたものを喫茶店のマスターが旅先でもらってきたものであるので、事実、カウベルの音なのだが。
ふと、目をやると、カウンターの上に2つのりんごが置いてある。
「りんごだ」
秋恵はそうつぶやいてから、ひどく恥ずかしくなった。りんごを見て、りんごだ、とつぶやくのはなんというか、あまりにもそのままだったからだ。
他に誰も聞いている人が居ないかを確認してから、秋恵は買い出して来た材料を片付ける為に、店の奥に向かった。さほど大きくはない喫茶店なのだが、カウンターの他に何故か調理室がある。
「……よし」
今日は、キッシュを作ろうと心に決めていた。しかし、調理室に入っていざ準備をしてみると、なぜか少し不安がある。秋恵の中では、料理は特技の中には入っていない。どちらかと言うと、手芸であるとか、もっと具体的に言えば手袋を編むのは中々のものだと思っている。
しかし、まだ季節は秋である。手袋をプレゼントにするには少し早い。
サプライズパーティーをする予定で、他のメンバーがマスターを外に連れ出している。まずお茶の時間にケーキとちょっとしたものでサプライズをして、夜はしっかりごちそうを作る予定だ。
まだキッチンは秋恵だけである。というよりも、料理に自信がなかったので、少し早めに来て先に進めようと考えていたのだ。
秋恵の不安は大きくなる。挽き肉とほうれん草のカレーをマスターに美味しいと褒められたので、パーティーらしくキッシュにしようと挽き肉とほうれん草を買ってきたのだが、良く考えたらカレーだから美味しかったのであって、キッシュにしたらぱさぱさにならないか?チーズとかいるのだろうか?
冷凍パイ生地を使って作ったことがあるのはアップルパイだけだ。アレは自分で食べたのだが中々美味しかった。先ほど見たりんごが脳裏をかすめる。
マスターの趣味で、五香粉だのクミンシードだの、調理室には様々な香辛料が溜め込まれている。当然シナモンもある。
「……よし」
もし、誰かが使うつもりのものだったら謝ってあとでスーパーに買いに行けば良い。ちょうど2個あるし、使ってしまおう。
そう思って喫茶店内にとって返したところで、からころと音がなった。
秋恵がりんごに手を伸ばしたタイミングで、ちょうど目があった。
春香が大声を上げる。
「え?いや、ちょっと使わせてもらうかなーと思ったんだけど」
さすがの秋恵も、自分が買ってきたわけでない食材を勝手に使おうとしていたのでしどろもどろに返答していたのだが、途中でハタと気がついた。
「なによ!ちゃんとマスターにも聞いたんだからね、今欲しい物が何かって!」
それを直接聞くなよ、サプライズだぞ妹よ、と秋恵は思ったのだが口には出さない。どうせ面倒な事になるのが目に見えているからだ。この妹は基本的に善良で模範的な市民なのだが、内弁慶である。そして、すぐに懐いて身内扱いするので、知り合いに対して弁慶である。もう、ほぼ弁慶だ。
「ひどい!4つも食べたの?信じらんない!だから彼氏にも逃げられるのよ!」
「ひどいひどい!マスターがリンゴが6個食べたいって言ってたから、ちゃんと昨日のうちにスーパーで買って来て、これから磨こうと思ってたのに!」
「りんご6個?」
ものすごく嫌な予感がする。秋恵は妹をこれ以上刺激しないようにしたいと心の底から思ったのだが、好奇心が勝った。
「それって、もしかしてApple6って言ってなかった?」
まだ妹が何かを喚いているが、秋恵は聞いていない。そう、妹はこういう奴なのだ。春香ちゃんって天然だねと常連客に言われて、農薬なんか使ってませんと突然怒るような娘なのだ。
秋恵がほんのりと妹の天然さ加減に心温めていると、ついに弁慶が物理的に攻撃を仕掛けてきた。慌てて説明を再開する。
「いや、待てって。あたしはまだ使ってないって。これからちょっと借りてパイをつくろうと思ってただけで」
「借りるって使っちゃったら返せないじゃない!」
「だから、まだ使ってないって。あんたのりんごには手を出してないから」
「今触ってたじゃない!」
「いやだから」
結局、春香が納得して残ったりんごを磨き始めるのに、45分かかった。大幅なタイムロスである。
「もう!誰が4つ食べちゃったのよ」
「そりゃわかんないけど、意外とマスターあたりじゃないの?」
秋恵もなんとなくりんご磨きに付き合わされている。こんなことをしている場合ではないのだが、もはやキッシュを作るのと春香を同時に相手にするのは無理だと心の何処かで諦めている。
りんごを磨きながら扉を見やると、無理やり渋い顔を作っているマスターと、夏代が入ってくるのが見える。
「わたし食べた」
先ほどまでの騒動を三割増しで春香がマスターに報告していると、夏代が唐突に告白した。
春香が目を大きく見開いたのをみて、慌ててマスターが補足を入れる。
「僕が先に食べようって言ったんだよ。ね、夏代ちゃん?」
「先に見つけたのはわたし」
「どういうことよ!ナッちゃんマスターといつのまにそんな関係になったのよ!」
秋恵が黙ってりんごを磨きながら噛み合わない会話を聞いていると、なんとなく全貌が掴めてきた。
つまり、こういうことだ。
昨晩、春香がりんごを6個買ってきて、カウンターの上において帰った。どうやらビニール袋に入れたままだったようだ。プレゼントの扱いが雑だぞ妹よ、と秋恵は思ったが当然口には出さない。
閉店清掃をしていた夏代がカウンターのビニール袋に目を留め、閉店前精算をしていたマスターが、りんごを剥いて夏代と一緒に食べたということのようだ。
「おいしかった」
もうぐだぐだである。マスターも一応気がつかないふりで渋い顔をしていたはずだが、すっかり嬉しそうな様子を隠そうともしない。
「まあまあ、結局は僕へのプレゼントを僕が食べたんだし、良いじゃない」
春香は、マスターに頭をなでてもらってすっかりご満悦である。秋恵は、磨いているりんごを夏代がじっと見つめてくるのが少し気になるが、取り敢えずは無視して気になっていることを聞くことにする。
「ナッちゃんさ、ふゆねぇは?」
「ケーキを取りに行った」
もうサプライズでもなんでも無いなと秋恵は思ったが、主に春香のせいなので気にしないことにする。
「や、なんか変だなーとは思ったんだよね。冬美さんがお散歩しませんか、とか言うから。まあ今日は暇だし、ちょっと休憩がてらと思って、冬美さんと夏代ちゃんと一緒にお散歩に出たら」
冬美は散歩の途中で唐突に、厠に、と言ったらしい。マスターはそこがツボだったらしく、いやあ女性が言うと雅だねとか何とか言っているが、それにしてももう少しマシな言い訳は作れなかったのかと秋恵は思う。
「待ってるつもりだったんだけど、冬美さんも時間が掛かるから先に帰っててって言ってたし、先に帰ってきたんだよね」
そのお茶はサプライズのパーティーという打ち合わせを昨晩きちんとしたはずだし、トイレに時間がかかると女性が言うのはどうだろうと秋恵は思ったが、もはや何を言っても無駄な気がしてきている。
からんころんという音とともに、冬美が大きな箱を持って店内に入ってきた。
「あら、みんなでお茶の準備かしら?」
本人は自然なつもりなのだろうが、どうみてもケーキが入っている箱を持っているし、不自然極まりない入り方に秋恵は少し目眩がする。
「わたしミルクティー」
「じゃあ、わたしはマスター特製のブレンドにしようかしら」
「……あたしもブレンドで」
それでもお湯を沸かしカップを揃え、豆を挽いてミルクを温めてと、マスターを中心に淀みなく準備が進むのは、流石に喫茶店での作業に手慣れた姉妹ならではのものだ。
4人がカウンターに並んで座り、マスターはカウンターの作業側に立っている。いつもの光景だ。
普段と違うのは、明らかにケーキが入っている箱が不自然に中央に置かれていることだ。
冬美がたっぷりと溜めてから箱を開き、驚いたでしょう?という顔でマスターを見上げ、マスターはとても嬉しそうだ。まあ、嬉しそうだからもう何も言うまいと秋恵は諦めてりんごを磨いている。
「あたしも!りんご!ほら、お姉ちゃんも渡して!それあたしのプレゼント!」
春香に続き、秋恵も大人しくマスターにりんごを渡す。ほんの少しだけ渡すのが寂しいと秋恵が思ったのは、丁寧に磨いたからだろうか。
「いや、嬉しいな。ありがとう。僕、結構りんご好きなんだよね」
秋恵がApple6がりんご2個になったと知ったらマスターがどんな顔をするだろうかとぼんやり想像していたが、隣からそわそわとした雰囲気が伝わってきたので、怪訝に思って見てみると、冬美が明らかに何かを企んでいる顔をしている。
これは何かまだプレゼントがあるな、サプライズの意味が解っている流石は最年長者だと素直に秋恵は感心した。
「実はですね~、もう一つ」
「え?りんごがまだあるのかな?良かった、生のりんごは好物でね」
「ナマの?」
秋恵は反射的に聞いてしまってから、後悔した。隣の冬美が笑顔のまま突然硬直したからだ。嫌な予感がする。
「そう、僕は焼きリンゴとかはギリギリ大丈夫なんだけど、アップルパイみたいに煮てあるやつがダメでね。くにゅっとした食感がどうにも苦手で」
マスターは基本的には喫茶店のマスターらしく空気を読むし、苦手な食べ物でも相手から出されたものは断らない。ましてや冬美がプレゼントするものを拒否することはありえない。例え砂まみれでも笑顔で食べるだろう。
「も、もう一つは……あ、あたしからの歌です!」
冬美の無理矢理のリカバリーを夏代が台無しにするが、まだマスターは笑顔のままだ。
「な、ナッちゃんもほら、一緒に!ハッピバースデートゥーユー!」
ハッピバースデーディアと一緒に歌いながら、秋恵は思い出す。そういえば調理室でキッシュを作ろうとして不安になったのは、甘い匂いが残っていたからではなかったか。シナモンが目立つ位置に出ていたのは何故だったか。りんごは元々6個あり、マスターと夏代が食べて、今マスターが2個持っているということは、残りの2個はどこに行ったのか。そして、キッシュを作っていないことに気が付き溜息をつきそうになるが、嬉しそうに蝋燭の炎を消すマスターをみて、まあ、幸せそうならば良いかと秋恵は思い直す。
喫茶店の外は、秋らしく良く晴れている。
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【第0回】短編小説の集い
http://novelcluster.hatenablog.jp/entry/2014/09/18/121657
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27歳になって十数時間。俺はつかの間、そのことを忘れて浮かれていた。
夜を徹しての作業中、半ば惰性になったとはいえ物陰から出てくるバースデーケーキと人々の祝福の言葉は満更でもない以上の気分にさせた。動く絵文字いりのファンシーなメールだってそこそこ届いた。眠いけど返事は書かなきゃね。贅沢な疲労を感じながら惰眠をむさぼり、忘れもしない15時38分。枕の下敷きになっていたあわれなスマートフォンにそのメールは届いた。
なんだよ。
楽しそうにしやがって。おめでとうじゃねぇよ。あんた今どこに居んのよ。誰と居るの。知りたくもないけど。
ヒトの中のヒトならぬものを。
あの人そのものがもはやヒトじゃないのだと俺はずっと言い続けてる。
あれはそう、鏡だ。真っ正面から見た者の貌を真っ正面から映す。優しくすれば同じだけ優しく。憎しみを向ければ同じだけの刃で。与えれば与えただけ返ってくる。それに気づいてしまったら僕らようなのはおしまいだ。
寂しがりの意地っ張りは。
溺れるように愛して浴びるように愛されて、めくるめく脳内麻薬浸けの日々、一秒でも離れていたくないなんて、ああ恋をするってこういうことなんだ、なんて思って。
だけどそんなの長く続かない。
鏡が写すのは誰か一人、なんてことはない。
他の誰かが前に立てば、鏡のあなたは無情にもそれをただ俺にしたのと同じように写すだけ。
本当にね、もう殺してやりたかったよ。胃酸出っぱなしで胸から下は寝ても覚めても灼けつくよう。誰にも会わせたくないと思えどんなこと可能なわけもなく。あんたを含め想像の中で何人殺したか知れない。
僕を気持ちよくしたようにそいつのこともしてやんだ?
もう男でも女でも関係なかった。その前に立つ人間は残らず憎かった。
それは俺んだ。
俺んだ。
返せよ。
プライドの堆い俺は人前でこそ涼しい顔をしていたが、その実何度も見たくないものを見ては吐いた。もともと痩せ型なのに急に8kg痩せて周囲に驚かれた。(さすがにまずいと思って気合いで戻したが)
皮肉にも筆は進むようになり世間の評価は上がった。うなぎ昇りってやつだ。本当に皮肉にも。
その頃には俺は気づいていた。俺があの人に相対して苦しめば苦しむだけ相手も苦しむのだ。
苦しめてやろうと思った。憎いというより悲しかった。そして思った通り自分が悲しめば悲しむほど彼女の顔もどんどん悲しそうなものになっていった。どうしてわかってくれないんだ、と思えば思うほど、わからないとあの人は泣いた。
胸が痛かった。
でも溜飲が下がった。
そのままだいぶ経った。僕らは時折共同でモノを作ることがあったから、その時も同じ部屋の中でいわゆる“素材”ってやつを見ていた。
最近にしちゃ珍しく小さい頃の古傷を掘り返すようなモノを俺が書いた。あの人はそれを見ながら黙って少し泣いた。
色が染みたような静かな泣き顔だった。
肺を掌で握り潰されるみたいに苦しくなった。
俺の悲しみが君に感染った。そう思った。全力で一発殴られたようなショックで目が覚めた。血の気が引いたら涙が出た。プライドも何もなく泣きながら詫びた。返事はなかった。
馬鹿か俺は。
何をしていたんだろう。
もう嫌だって何度も思ったんだろうな。でもつい幸せ願ったりしちまうんだろな。何のことはない。本当の気持ちは鏡の中にずっと写ってた。
あれから2年が過ぎました。今は鏡を叩き割ってやろうとは思わない。姿が見えないでいると胃が痛む瞬間はあるけれどね。
今日も作業終わりは完全に朝。朝だ。眩しいな。
よく眠ろう。もうすぐまたあの人に会える。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
どこかの島?中洲(パリのシテのような)?仕事か、プライベートかわからない。いつか知りあいが日帰りでつれていってくれたAveiroからの帰り道に見た見知らぬ田舎?道沿いにある個人商店をのぞくと店員がスペイン語で喋っていて、ああ移民が多いから田舎か、と思う。
川の方にいくとぬかるみになっている。対岸はかなり近くて、むこうの声もきこえる。ぬかるみにはまりそうになって、パッとよけると、白鳥がそこで休んでいるのを見る。すぐそこに道があって車がぐんぐん通っていて、「この島は抜け道で、皆よくつかうのだな」と思う。
先の個人商店のわきはデパートになっている。入ると、なぜかバースデーケーキがショーウィンドウにならんでいる。母親と幼女がおめかしをしてその前を歩いている。へんなエレベーターがあって、それにのって上にいく。
上につくと、なぜか高所恐怖症になっていて、扉があいて人が入ってきても、外に出れない。よろめいて、エレベーターの籠にはなぜか柵がなく、ああ落ちる!と恐怖にかられるが、入ってきた人に助けられて外に出る。彼らは父母子の家族で、ふざけているその男の子の背中をポンッとたたく。
降りたフロアにはプロレス?かなんかの興行をやっているよう。トイレにはいると、イタズラされて分かりづらくなった男子用、女子用マークが入り口に。一人男性が間違えたのか、キャーっという声がきこえる。自分は慎重にはいるが、不安で周りの人が男かよくたしかめる。
トイレは、まるで駅のトイレかのように男子便器がずらっと並んでいて、やや不衛生。なぜかほとんどの便器が故障中で、テープがはられていて使えない。立って小便をする。
ここでトンデて、なぜか地下道のようなところを彼女と一緒に歩いている。彼女は「三月から中国に行くことになったんだよ、話してなかった?」という。全く知らなかったので動揺しつつ「一年間?」と聞くと「うん、一年間」と答えるので「僕もついてっちゃおかなっ」というと露骨に嫌な顔。ここで覚醒。
久々に長く、具体的な夢だった。