何もかもを思うままに手に入れたいわけでも豪遊したいわけでもなく
一億総中流の時代、おじさんが子供だった頃はきっとそれが当たり前だった。
その上で親や教師が私に求めたものは高学歴とそれによって得られるはずの、上流での安定だった。
生育環境にいた大人たちの甘い幻想はぶっ壊れて、彼らの幻想に翻弄された少年は偏屈なおじさんになってしまった。
食うに困るほどではないが缶コーヒーをひとつ買うのに若干躊躇する。
エナジードリンクと酒に依存しながら、100g98円の鶏モモに躊躇する。調理する時間などないからだ。
彼女はいたりいなかったりするが、結婚したいとは思わなかったし思わない。
さっさと安楽死したい。
わかりみ深い そう思ってる人は案外多いよ
私は大学に通っている。
授業は休まず毎日通っているが友達はいない。そしてサークルも馴染めなかったので辞めてしまった。
大学は勉強の為の場であるという事は承知しているがそれでも一人ぼっちは辛い。
何よりも辛いのは楽しそうな他人を見ると負の感情が湧いてくることだ。
中高同じだった友人の楽しそうなSNS投稿とか、兄弟の充実した大学生活とか、キャンパス内で楽しそうに話している人達を見ると羨ましさや自分への惨めさで気持ちが苦しくなる。
そしてこういう汚い気持ちが渦巻いてくるのが本当に怖い。
考えが飛躍しすぎているかもしれないが、身近なことへの負の感情が社会への負の感情へ変わっていき、将来取り返しのつかないことを起こしてしまったらどうしようと恐ろしくなってくる。
ここ数ヶ月の様々なニュースを見て、友達がおらず社会との繋がりが人よりも希薄な私は危険な存在なのではないかと思えてきた。
もちろんそんな事を起こそうとは思っていない。絶対ありえない。
でもいつか頭がおかしくなって正常な判断ができなくなって、そのようになってしまったらどうしよう、という考えが浮かんでくる。
私は既におかしいのだろうか。生きない方が良いのだろうか。
https://ameblo.jp/kanku0901/entry-12497416248.html
この記事に対して、中国嫁日記の希有馬屋さんがテロ肯定だと猛烈批判するツイートをした。このツイートに、「誤読してる」というコメントがいくつかついてたので熟読してみた。
(アニメに限らず)表現に対して「狂気」を持つ人間がどうしてもファンに紛れ込む時代になった。
表現者は、ファンの中の狂気から自らを防衛しないといけないのに京アニはそれをしなかった。むしろ迎合した。
何も具体例がないから何指してるかわからんが、多分、作画をこうしろとか誰々に何を描かせろ、みたいに言ってくるクレーマーとか、オリジナルストーリーを考えてこれ採用しろ、という狂人とか、聖地巡礼しながらここの景色が違うとかここの景色を使えとか言って脅迫してくる狂人、がヤマカン在籍時にもいたんだろう。
そして、そうしたアイデアを京アニが採用したことがあった…というのを、「結託」なる言葉で表しているのではないか。
あるいは、ファンの中に狂人がいることを知りながら、現実の表現者の身の回りの風景(宇治市近辺)を写実的に表現して、表現者の身の回りに聖地巡礼ファンが押し寄せる状況を歓迎していたこと自体を「結託」なる言葉で問題視しているのではないか。知らんけど。
では、どのようにすれば「結託ではない」のか?多分、ファンの意見をガン無視することが「結託」ではないという主張なのだろう。
表現者はファンに迎合してはいけない、ファンの言う事を聞くから、ファンの中に過剰な要求をする者が現れる。表現者はファンなどの外的な影響から超越した存在であるべきで、ファンなどの影響を一切受けずに表現するべきだ、迎合するから、表現者に過剰な要求をすれば聞いてくれると思わせてしまうのだ、だから超然としてファンガン無視しろ…と、そういう意見だと思う。
日本国民として恥ずかしい。悲しい
時給900円台で過酷な労働、しかも利用者さんからボコられたり噛み付かれても泣き寝入りするって聞くと、それほどの苦役は確かに反省の色を見せることになるんだろうなと思った。
MATLAB買えるかーと思って見に行くと個人だと年1万5000円+アドイン代となってさ、
使いたいんだけど毎日使うわけじゃないしなーとなって購入ためらう。
Adobeも全部入りとなると、毎日全部のソフト使うわけじゃないしなーとなる。