会社でハテブしなきゃいいのに
最近、時間や世界線の乗り換えをネタにしたアニメが多いのはなんで?
http://blog.livedoor.jp/robosoku/archives/5628491.html
時間遡行モノが増えた理由。ずばり、ロマンスと相性がいいからだ。
その土壌として、美少女というキャラクターを主軸においたロマンスものがアニメ業界で確固たる地位を築いたからというのはもう疑いようもない。
ところで、「真実は時の娘」というメアリー1世の時代のコイン(4ペンス銀貨)、レオナルド・ダ・ヴィンチの残したメモなど、様々な所に見受けられるフレ-ズがある。
ロマンスにおいて恋人(へ)の心理こそが真実なのだから、真実が従うのは時間だけだ。
時間遡行モノだけは唯一、時間に抗ってある心理を確かめ、意思を貫いて事実に変えることができる可能性を持っている。
かつ、その可能性に向かって何度も挑戦する場合、ループという狂気以上に事実に変えるという目的がそのロマンスに真剣味を与え、感情移入の余地を持たせることもしやすい。
最後に、ジュリアン・ジェインズによる人間の心の仮説である二分心が提唱された著作『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』の巻末に近い部分では
「真実という概念そのものが、・・大昔の確実性に対して誰もが抱く根深いノスタルジアの一部」なのではないかとも示唆している。
「近くまでくることがあったら連絡してな〜☆遊ぼう!」
はイラっ☆とする。
てめぇがこっち来いやぁ!会いたかったら言われんでもこっちからいくし。
もちろん、わざわざこっちまでくるほど私に会いたいわけではないというのは承知してる。
http://d.hatena.ne.jp/m0612/20100414/p1
を読んだ。2年前の記事なのね。
書きたいことがある。テキトーに。だけどぼくの生き方に関わる話だ。
ぼくはここに書かれている内容のことは読めるし、納得できているつもりだ。
小学6年生のときから毎日毎日、朝から晩までインターネットして、
ついでに人と話したりセックスしたり受験を受けてみたり心折れたりして、今年で26歳。そしてインターネット。
もうなんとなくわかる。冒頭のブログの内容は簡単に言うと、「役に立つか立たないかで物事の価値判断をするな」っちゅうことですわな。簡単に言うとね。
たぶん読めているはずなのだ。文章を。 文責者が。 おおよそ。 意図するように。
その証拠として「なんの役に立つんですか?」という言葉をかなり注意深く意識的に使わないようにしている。その暴力性を思って。
そして実際(役に立たないからといって価値がないわけではない)とか(役に立たないかどうかをぼくが判断できるほどぼくは賢くない)とかそんなことを考えてる。
しかし、とても基本的な問題がある。
これはぼくがインターネットに触れるはるか前から存在する原初の問題だ。
ぼくは「なんの役に立つんですか?」という言葉、思想の暴力性を知っているが、わかってない。
子どもの将来を親が決めてしまうだなんて、あまり歓迎すべきことではないのかもしれませんね。
「そのほうがより役に立つから」なんて言って、子どもの可能性を狭めているかもしれませんね。
それはわかりますよね。
自分の言動をふりかえってみる。
ぼくは最も親しい気のおけない友人や恋人にさえ「今日何を為したか」を若干の優越感をもって伝えられるけど、
「今日何をしなかったのか」は暗い気持ちで黙っている。
ぼくは無職で実家ぐらしで一人でいるほうが気が楽なので、基本的にほぼ毎日朝から晩までインターネットをしている。
たまには身の回りの整理など、と思い立って今日は部屋の掃除と洗車をしたのだ。
で、幸運にもぼくによくしてくれる人が「今日はなにしていたの?」とあらん限りの優しさで、ほんとに何気なくぼくに尋ねる。
「今日は掃除をしていたんだよ」少しはにかんでぼくは伝える。今日はたまたまそういう日だった。
いつもは?
いつもは、同じように「今日はなにしていたの?」と訊かれても「なにもしていなかった」と答えるだけ。
ほんとはずっとこのイスの上に座ってキーボードとマウスで任意の動作をして不特定多数の情報を閲覧していたのだ。
しかしぼくに言わせればそれは「なにもしていない」。
暗たんとした気持ちで、すいませんという気持ちで、しぼり出すように、言う。
なんでだろう?
誰もぼくの可能性を狭めたりはしないが、ぼくはぼくが役に立たない存在であることを許さないようだ。
誰かに向かって「なんの役に立つんですか?」とは言わないけども、
自分に対しては「なんのために生きているんだ?」とは何度も何度も
何度も何度も
何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども
どもなんども
なんどもなんどもななんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども
どもなんども
なんどもなんどもな
なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども問うた。
基本的な問題。
なぜぼくは自分に対して「なんの役に立つんですか?」という暴力を振るうのだろうか。
わかっているのだ。ブログの例に取り上げられていたような、「学問」とか「研究」とかいう箔がついていれば役に立つかわからなくてもまだ寛容でいられる。
ぼくみたいなぼんくらがただずっとネットをしているだけなのと、そのような勉学を同列に扱えるはずもないことは。だからこれはブログの内容に沿った話をしているようで、実はぜんぜん関係ない話をしているだろうことも。
魚にも利き手があるというのがわかったという話とぼくが毎日ネットをしているという話。
前者ならアカデミックでない庶民には役に立つか立たないかもわからない話だ。しかし、後者はどうだ?それを「役に立たない」と断ずるにいささかもやぶさかではないか?
タバコはどうだ?役に立つか?ギャンブルはどうだ?役に立つか?
ぼくはタバコを吸う誰かだってギャンブルにハマる誰かだって役に立たないとは思わないし、消え去るべきだとも思えないし、役に立たないとしても別にいいんじゃないのって思うけど、
ぼくはぼくが何もしていないとか役に立たないということを申し訳なく思っていて、同時に「役に立つことという単一の価値観に縛られるべきではない」と頭で思考するぼくもいて、その二つの考えの間でうねうね漂っているんです。
そもそも、これは役に立つとか立たないとかいう次元をまたいだ総合的な問題ですよね。
実際、子どもの将来を小さいうちから決めてしまう親だっているわけじゃないですか、世界のどこかには。
もし、親が石油王だったら子どもにも跡を継いでもらおうとするじゃないですか。
世襲制がまだ残っているお家柄ならわりとそうなるじゃないですか。
でもそれって、世襲することが役に立つとか立たないとかいう単純な問題じゃないですよね。
世間の目もある、経済状況も鑑みないとね、親のエゴって可能性もある。
女優だか歌手だかになれなかったお母さんが、叶えられなかった夢を娘に一方的に託す、みたいな事例もあった気がする。なかったっけ?
こんな話はいくらでもありふれていて、庶民のぼくらにもそう関係ない話ではないと思う。
親は実際、ぼくみたいな能無しを飼えるほど、世間の目を気にしないわけでもないし、経済的に恵まれているわけでもない。
はぁ…書いている内に「ほんとうに言いたかったこと」に説得力がなくなってきた。
ぼくは最初
「役に立たないことが悪いわけではないのに、自分は悪いことをしているような気になってしまっていて、いつから刻み込まれたかわからんその呪詛からどうやったら解き放たれるのか教えてほしい」。
ひいては
「あなたも役に立たないからといってウジウジしないでいいんだよ。あなたは悪くないんだ」。
と書きたかったけど、もうただ自分がクズなだけに思えてきた。あなたが悪くないとかわかったようなことを言ってしまうところやった。呪詛じゃなくて相応の罰。
こんなことを書いているのも、少しでも誰かの役に立とうと思った結果だった。そしてまたぼくはいつものイスに座ってキーボードとマウスを操って「何もしていない」。
冒頭のブログはぜんぜん関係なかった。ぼくはダメ人間だった。それだけ。
もう飽きたしこの辺で…。
夜中寝ずに増田してるような人なのに、なんで土日の朝の5時代のラジオ聞かないの? 時たま貼られるニコ動の有識者の問題提起な動画みたいな、加齢臭漂う番組ただで聞けるよ?
別の病気かもしれませんが、インフルの検査は確か急な発熱してから12時間経過しないとNGだったような。
つらいと思いますが、どうか頑張ってください。ヤバイと思ったら夜間でも救急患者を受け付けてくれるところがあるので、頑張ってタクシーかなんかでたどり着いてください。
(確か、救急車は駄目っぽいので)
君のような人間こそが、君の地元から選出された国会議員の事務所でちょっと茶飲み話をしに行ったほうがいい。
(まあ、お茶飲みに行く政党は慎重に選んだほうがいいとは思うけど)
若者の声を上げなよ。
普通の人は行きたくても、会社のしがらみとか、時間的なものとかいろいろあってなかなかチャンスが無いんだ。
社会への意見を言いたい、というなら、きちんと議員に話をもっていったらいい。
議員事務所も、お茶くらいは出してくれるらしいよ。政治と市民生活が隔離されてる今の状況は全然いいと思えないから、ひとつ頼むよ!