2012-04-17

「なんの役に立つんですか?」の正当性~わかるけどわからんぼくが~

「なんの役に立つんですか?」の暴力

http://d.hatena.ne.jp/m0612/20100414/p1

を読んだ。2年前の記事なのね。

書きたいことがある。テキトーに。だけどぼくの生き方に関わる話だ。

ぼくはここに書かれている内容のことは読めるし、納得できているつもりだ。

小学6年生のときから毎日毎日、朝から晩までインターネットして、

ついでに人と話したりセックスしたり受験を受けてみたり心折れたりして、今年で26歳。そしてインターネット

もうなんとなくわかる。冒頭のブログの内容は簡単に言うと、「役に立つか立たないかで物事の価値判断をするな」っちゅうことですわな。簡単に言うとね。

たぶん読めているはずなのだ。文章を。  文責者が。  おおよそ。  意図するように。

その証拠として「なんの役に立つんですか?」という言葉をかなり注意深く意識的に使わないようにしている。その暴力性を思って。

そして実際(役に立たないからといって価値がないわけではない)とか(役に立たないかどうかをぼくが判断できるほどぼくは賢くない)とかそんなことを考えてる。

しかし、とても基本的な問題がある。

これはぼくがインターネットに触れるはるかから存在する原初の問題だ。

ぼくは「なんの役に立つんですか?」という言葉、思想の暴力性を知っているが、わかってない。

子どもの将来を親が決めてしまうだなんて、あまり歓迎すべきことではないのかもしれませんね。

「そのほうがより役に立つから」なんて言って、子どもの可能性を狭めているかもしれませんね。

それはわかりますよね。

自分の言動をふりかえってみる。

ぼくは最も親しい気のおけない友人や恋人にさえ「今日何を為したか」を若干の優越感をもって伝えられるけど、

今日何をしなかったのか」は暗い気持ちで黙っている。

ぼくは無職実家ぐらしで一人でいるほうが気が楽なので、基本的にほぼ毎日から晩までインターネットをしている。

たまには身の回りの整理など、と思い立って今日は部屋の掃除と洗車をしたのだ。

で、幸運にもぼくによくしてくれる人が「今日はなにしていたの?」とあらん限りの優しさで、ほんとに何気なくぼくに尋ねる。

今日掃除をしていたんだよ」少しはにかんでぼくは伝える。今日たまたまそういう日だった。

いつもは?

いつもは、同じように「今日はなにしていたの?」と訊かれても「なにもしていなかった」と答えるだけ。

ほんとはずっとこのイスの上に座ってキーボードマウス任意の動作をして不特定多数情報を閲覧していたのだ。

しかしぼくに言わせればそれは「なにもしていない」。

暗たんとした気持ちで、すいませんという気持ちで、しぼり出すように、言う。

なんでだろう?

誰もぼくの可能性を狭めたりはしないが、ぼくはぼくが役に立たない存在であることを許さないようだ。

誰かに向かって「なんの役に立つんですか?」とは言わないけども、

自分に対しては「なんのために生きているんだ?」とは何度も何度も

何度も何度も

何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども

                   どもなんども

             

なんどもなんどもななんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども

どもなんども

なんどもなんどもな

なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども問うた。

基本的な問題。

なぜぼくは自分に対して「なんの役に立つんですか?」という暴力を振るうのだろうか。


わかっているのだ。ブログの例に取り上げられていたような、「学問」とか「研究」とかいう箔がついていれば役に立つかわからなくてもまだ寛容でいられる。

ぼくみたいなぼんくらがただずっとネットをしているだけなのと、そのような勉学を同列に扱えるはずもないことは。だからこれはブログの内容に沿った話をしているようで、実はぜんぜん関係ない話をしているだろうことも。

魚にも利き手があるというのがわかったという話とぼくが毎日ネットをしているという話。

前者ならアカデミックでない庶民には役に立つか立たないかもわからない話だ。しかし、後者はどうだ?それを「役に立たない」と断ずるにいささかもやぶさかではないか

タバコはどうだ?役に立つか?ギャンブルはどうだ?役に立つか?

ぼくはタバコを吸う誰かだってギャンブルにハマる誰かだって役に立たないとは思わないし、消え去るべきだとも思えないし、役に立たないとしても別にいいんじゃないのって思うけど、

ぼくはぼくが何もしていないとか役に立たないということを申し訳なく思っていて、同時に「役に立つことという単一の価値観に縛られるべきではない」と頭で思考するぼくもいて、その二つの考えの間でうねうね漂っているんです。

そもそも、これは役に立つとか立たないとかい次元をまたいだ総合的な問題ですよね。

実際、子どもの将来を小さいうちから決めてしまう親だっているわけじゃないですか、世界のどこかには。

もし、親が石油王だったら子どもにも跡を継いでもらおうとするじゃないですか。

世襲制がまだ残っているお家柄ならわりとそうなるじゃないですか。

でもそれって、世襲することが役に立つとか立たないとかいう単純な問題じゃないですよね。

世間の目もある、経済状況も鑑みないとね、親のエゴって可能性もある。

女優だか歌手だかになれなかったお母さんが、叶えられなかった夢を娘に一方的に託す、みたいな事例もあった気がする。なかったっけ?

こんな話はいくらでもありふれていて、庶民のぼくらにもそう関係ない話ではないと思う。

親は実際、ぼくみたいな能無しを飼えるほど、世間の目を気にしないわけでもないし、経済的に恵まれているわけでもない。

はぁ…書いている内に「ほんとうに言いたかったこと」に説得力がなくなってきた。

ぼくは最初

「役に立たないことが悪いわけではないのに、自分は悪いことをしているような気になってしまっていて、いつから刻み込まれたかわからんその呪詛からどうやったら解き放たれるのか教えてほしい」。

ひいては

あなたも役に立たないからといってウジウジしないでいいんだよ。あなたは悪くないんだ」。


と書きたかったけど、もうただ自分クズなだけに思えてきた。あなたが悪くないとかわかったようなことを言ってしまうところやった。呪詛じゃなくて相応の罰。

こんなことを書いているのも、少しでも誰かの役に立とうと思った結果だった。そしてまたぼくはいものイスに座ってキーボードマウスを操って「何もしていない」。

冒頭のブログはぜんぜん関係なかった。ぼくはダメ人間だった。それだけ。

もう飽きたしこの辺で…。

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