はてなキーワード: 象形文字とは
主要なプログラミング言語でブロックを表現するのに使う { }の呼び名は波括弧でいいのか。
これを紙にペンで書こうとすると、いつもいびつな何かになるのだ。
デフォルメしたクリームパンの上半分を切り取って90度回転させたような、山という漢字の元になった象形文字を90度回転させたような、およそうねうねしただけの何かに。
{ }を書くときの目的は何だ。いうまでもなく、ひとかたまりのブロックを囲うことだ。
囲うという役目を表現するためには、記号の中央部が外側に膨らんでいることが不可欠である。
それゆえ、{ を書いている過程における意識は、前半は頂にむけて膨らませることであり、後半は頂から収束することに向いているべきである。
手頃な試験問題がないだろうかと講義名をネットで検索すると、ときどき同じ学科の学生のブログに行き当たることがある。ブログの文章だけで判断してはいけない、そのような判断は間違った思い上がりなのだと自分を制しつつも、こみ上げる嫌悪感を俺はどうしてもとどめることができない。ああ彼は本当に内面の生活というものをもたない人間で、うんざりするほど取るに足りない存在なのだな、と。内省とまるで縁のない、産業社会の権化のような人間に混じって勉強することが耐えがたい屈辱に思えてきて、俺はあらゆるしがらみを振り払って山のなかに逃げ込みたくなる。
『人の顔というのは一種の象形文字であり、はっきりそれと定まった聖なる符号なのだ』とホフマンスタールは言う。それをもじるならば、精神の仕種もまた聖なる符号なのだ。「産業社会の権化」といった。それは確かにロボットではないだろう。『魂がないというふうではけっしてない。また魂の光がきらめくことがじつに稀、というわけでもない』。だがどうだろう。『この人たちは別のことをも口にしうるのではないか、ああ言おうとこう言おうとどうでもいいのではないか』。彼は確かにロボットではない。ところが、精神の仕種が思想に欠けていれば、そこにはもう象形文字の神聖さが失われている。『あのけっして言い表しえない一箇の大いなる背後の思想、人の口から出てくるもののすべてに核を与え、響きを与えるもの、ちょうどつぐみにはつぐみの、豹には豹の声があり、かつその声のうちに言葉はとらええないその存在の本質がすべてあらわれているように、およそ語りなるものを人間の語りへと変える背後の思想は・・・・・・』。精神の仕種を俺は求める。『むしろ、言葉に出すことなくそれを語ってほしいのだ。声の調子が、立っているさまが、顔が、振る舞いや行ないがそれを語るべきなのだ』。ああ、俺はそれを精神の仕種と呼ぶ。
『上下があり、優劣、精粗、左右、賛否があり、市民階級、貴族階級があり、同窓仲間があれば貸借関係がある。だがこれらのいずれにも、真の関係の緊密さが欠けているのだ。』相互の関係でなく、個人内部の関係もまた空転している。ロボットならまだしも歯車があったろう。彼らには歯車がない。『互いを噛み合わせるものがない。何かが欠けているのだ。それを表すべき術語は見つからない』。それが大学という場所なのだ。
単なる思いつきである(と、最初に逃げておく)。
よくある言説だ。「日本の街並みは汚い、欧米の街並みは美しい」という言説。
2chのネトウヨもそれは認めざるを得ないようだ。いくら「電柱の趣が……」と言ったところで、日本の街並みが雑多であることは否定できない。
さらに言えば、東アジアの街並みは日本に似ているという話は良く聞く。
平たく言えば、何か安心する雑多な街並み。
単なる印象論だが、それは、ウェブデザインにも通じるところはないだろうか。
例えば、楽天に出店している店舗のページを見ると、雑多な印象を受ける。
あざといとも言える広告のようなページだ。
印象論ということを前提に呼んでいただきたいのだが、その点、欧米のオンラインストアのページは洗練されたスマートなデザインの様な印象を受ける。もちろん、欧米でもアダルトサイトは、例のごとく、迷宮のように雑多なデザインの所が多いけれども。
それで、街並みとウェブサイトが類似している点がないかな、というのが私の思いつきだ。さらに思いつきを続けると、日本の街並みとウェブサイトが「雑多」にならざるを得ないのは、「漢字」の存在が大きいような気もする。漢字は象形文字的側面が大きいので、(アルファベットに比べて)表現としてダイレクトなのだ。例えば、日本語に「ひらがな」しかなかったのならば、日本でも欧米のようにスマートなデザインが嗜好されていた可能性もあると思う(もっとも、基本、ハングルだけの韓国の街並みは雑多なようだが)
「雑多」なページというのは、ある意味で下品なんだろうけれど、逆に安心できたり、(ドンキホーテの商品の並びように)ワクワク出来たりするデザインである。名前の通り、「雑多」だということは、様々な価値観が入り交じっているということでもあり、許容できる価値観の幅が広いということだ。多分、そこ人に安心感を見出すのだろうし、頭の悪さという意味での敷居の低さを感じるのだろうと思う。
反対に、スマートな美しいデザインのサイトで要求されるのは、「何をどう割り切るか」というセンスであり、その結果としてのシンプルとユーモアであろうと思う。グーグルやアップルはこちら側の代表例だ。こちらも主に人類の普遍性という意味で敷居が低い。
私は個人的には「万人に共通する絶対的価値観」という物はないと思っている。
ある個人として信奉する「絶対的価値観」が真実に近かったとするならば、必ず、それと反対側の価値観も真実に近いと思っている。
だから、両方の価値観を知らないと、世界全体を俯瞰することは出来ないのではないかと思う。
(もちろん、これも一つの価値観なのだが)
もし私の考えが合っているならば、日本がインターネットでグーグルに代表される米国IT業界に対抗するには、「雑多性」を追求するべきなのかも知れない。
実際、グーグルは「インターネットの情報を整理して見通しを良くしよう」としているように見えるが、最近、元気なGREEなりmixiなりモバゲーなりは、「(いろいろなサービスがごちゃ混ぜになっている、デザインが野暮ったい等の)雑多性」もそうだが、「(グーグルの検索に引っかからない)SNSという仕組みでネットの見通しを悪くし、多様な価値観を許容出来るような方向性」を目指しているように見える(大体、検索の性能が良すぎるから、自分と意見の違う人間を見つけやすいのであって、争いが起きやすいのであって、殺伐としやすいのである)。
すでにウェブ上に落ちているアイディアかも知れないし、そんなに大した話でもないのだが、何か日本におけるウェブサービスの収益化のヒントになると嬉しい。まあ、増田に書いたところでどれだけの業界人が見てくれるかは分からないけど(自分のブログに書いても誰も見ないだろうしなあw)。