はてなキーワード: デビルマンとは
ってツイッターに流れてきて、成程ツイッターもたまにいい言葉ながれるやんってなった。
多様性は自分の心の中にもって許す事で成立して、他人に押し付けた時点で、それは結局多様性の否定になってしまう。
素晴らしいと思うなら、自分で布教して、自分で作って、自分の背中で語れって事なのかな。
よく多様性として紹介される映画は、ズートピアとか、キャプテンマーベルとか、マーベル・ディズニー作品があるけど、結局活躍してるの黒人じゃん!女性やん!それの暗喩やん!ってなる事が多い。
実写版「キャッツ」とか、「異世界スマホ」とか、実写版「デビルマン」とか、pornhubで低評価が60%くらいになってる「一部の人」が好きな作品を見て「まぁ俺は無理だけど、好きな人もいるんじゃない?」
って思えることこそが多様性なのかもしんない。
でも結局この言葉を他人に押し付けた時点で、それは「自分にとって都合の良い多様性」の押し付けになってしまう事に留意したいよね。
息子の話によると最近の仮面ライダーの最終フォームは刃牙のオーガぐらいなら瞬殺出来るぐらい強いらしい。
私が知ってる限り(V3まで)だとそもそもライダーに最終フォームという言葉が必要なほどのパワーアップなんてなかった。
そしてその戦闘能力はサイボーグ化された月光仮面程度のもので、戦車数台と喧嘩する程度でも負ける可能性がある程度だったはずだ。
だが今のライダーは時間求められるし因果律も変えられるし生き返ったり隕石を落としたりとかそういうレベルの戦いができるらしい。
その昔マジンガーZ対デビルマンという映画があったが、あれに参戦しても余裕で生き残れそうなスペックになっている。
いつからこうなったんだろう。
私も詳しく知るわけではないがスーパー1やライダーマンの戦闘力はV3とさほど差はなかったはずだ。
なんなんだあいつら。
とにかくパワーアップを繰り返し続けるだけで精神性は置き去りになっていないのか。
強さとは物理的な強さではなくココロの強さも含まれるものではないのか。
いつからこうなったんだろう。
助けてくれ仮面ライダー。
新海誠が押井守にクラスチェンジして、ワーナーブラザースが期待した攻殻機動隊の続編や似たような売れ線の物ではなく、誰も買わない売れない劇場にも足を運ばない、スカイクロラだとか天使の卵みたいなアングラでドロッドロのゴミばかり量産して、見切られたら弟子がre:サイボーグとかサイボーグ009対デビルマンみたいな、もっとすさまじいゴミを量産し始める。
新海監督はNTR属性と願望が強過ぎるので、幼馴染が東京に行っても大好きで、高校大学就職後も別の男と恋愛体験や性体験をタップリ済ませて、自分以外の男と何度も結ばれて別れて、都会の無縁社会とかパワハラセクハラレイプ被害にもあって、何なら男の幼馴染と幼馴染が結ばれていたり、離婚したり結婚前に家族計画に失敗して水子の霊がついたマジキズモノになった後で、「どれだけ汚れようとも、最後にワシの横におればよい」と言う、拳王様ぐらいの男前な恋愛観と価値観で、幼馴染の最期の男になろうとする話を作って、秒速とか約束の場所みたいに視聴者からドン引きされて最高に気持ち悪いNTRを劇場公開してしまい、以前の作品のようにキモすぎて見向きもされなくなる。
デビルマンとは…何か(ネットリ)