↓の人の様に、イマイチ分からん、と思ってる人に、多分これを意識すると「あっ、そう言う事か」と成るんじゃないかな、と言う補助線が有るので共有しておきます
https://anatadehanai.hatenablog.jp/entry/2021/03/07/110833
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
恐らくだけど、カズオ・イシグロ氏を含む欧米のリベラルにとっては「ブレグジットやトランプ政権の誕生を予想出来なかった事」がトラウマとして残ってるんだと思う
ブレグジットの時はどうだったか忘れたけど、トランプ政権誕生の時は選挙結果が出るまではヒラリーの勝利を予想していたリベラル知識人が多かったと思う
要するにあの時、メディアはヒラリー側の見解やヒラリー側に有利な情報を多く流していて勝利ムードだったけど、実は違った、という事が非常にショックだったんじゃないかな?
こういう危機感なら、日本のリベラルの人達も有る程度共有出来るのでは無いだろうか
単純に言うと「メディアで受ける印象と、実際の開票結果が違うのは困る!」って事だね
日本だと「ネットで見た印象より自民党の支持率が高い、なんで!?」みたいな事かな、この場合はネットをしない層の意見が隠れてるって事だね(後は勿論組織票等)
リベラル側からすると、ネットやメディアで非リベラルな主張が載せられる事は不愉快かもしれない、でもそういうのが無くなると、いざ選挙や支持率が出る時に結果に「なんで!?」って成る事が有ってそれは困るよね、と言う話
そういう事を防止するには普段から非リベラルの人達が何を考えているか知っておく必要があり、その為に非リベラルの人がネット上で記事を書いたり芸術として表現したり出来る土壌が有ると良いよね、と言う話じゃないかな?
「普段から非リベラルの人達が何を考えているか知っておく」為にもう一つ必要なのは、曲解しない事、だね
↑の感想の筆者の方がどうかは分からないけど、リベラルの一部の人を見てると、非リベラルな人の意見を物凄く曲解して批判してる事が有る
あれは止めた方が良いね、その時は気持ち良いかも知れないけど、「非リベラルの人達が何を考えているか」と言う知識を自分から歪めてしまう事に成る訳だから
厄介なのは、曲解してる本人は曲解している自覚が無いって事、今これを読んでるあなたも自分では「曲解なんかしていない」つもりでも、実はしてるかもよ?
非リベラルの人をモンスター化して考えるのは止した方が良い、彼らも俺達と同じ人間で、彼らには彼らなりの理屈が有る、そこに耳を傾けてみよう
「そんな事は無い!彼らは間違っているんだ」と思ったら赤信号、もうかなり危うい状態だ、話を聞く前にどうして正誤が分かるのだろう、まずはちゃんと話を聞いて悪意じゃなくて善意で判断してみよう
彼らは1つじゃなくて無数の主張をしている、その全部が間違ってるなんて、先ず確率的に考えても有り得ないよね?(勿論各意見の正誤は同様に確からしく無いし、厳密には確率的には考えられないが)間違っている物も有るだろうけど合ってる物もあるはずだ、それをちゃんと評価出来るように成ろう
一部の(もしかすると多くの?)リベラルの人達は非リベラルの意見を悪意的に解釈する癖が付いている様だから、
意識的に善い方に解釈するようにすると良いと思うよ、所謂「最善の相」って奴だね
多分その位しないと歪みは直らない
非リベラルの意見に直面した時、カッとなるのを抑えて「いや、待てよ、これはこういう解釈もあり得る」と好意的な解釈を考えたり、「間違ってると思ったが理屈は通っている」と思ったり、「成程自分にはこういう偏見が有ったかもしれない」と振り返って見る
そういう事を遣れるようになると、いざ選挙結果が出た時「なんで!?」って成る事が減るんじゃないかな?
あともう一つアドバイスすると、リベラルの人達は(排外主義的でない)愛国的なコンテンツに対してのアレルギーは直した方が良いと思うよ
ブコメでも書いたけど野田洋次郎のHINOMARUとか、ああいう物への反応が一番世間との乖離(→選挙での「なんで!?」)の原因だと思う
自分では「愛国的だから批判してるんじゃなくて、創作物として劣っているから批判した」つもりでも、愛国アレルギーに自分で気付いてないだけ、って場合も有るから気を付けた方が良い
ヤマザキとか烈豪とかだったわ
インターネット老人会ぶりが露わに。
俺の時期のコロコロと違う
白人が逮捕された実例をいくつ上げようが、「黒人の方が逮捕されやすい」という事実に対する反論にはならないのよ。
逆にオタクが叩かれた実例を上げたところで「オタクが叩かれやすい」ことの証明になるわけでもないけど、一つ象徴的な事実としては、たかが「献血ポスターにほんのちょっとえっちな絵が使われた」程度のことを批判するのに、「売血だ」とかいう”過激な”論理が用いられたことは記憶にも新しいよね。主観的なストーリーでしかないけど、そのようなストーリーは強者の側からは見えないのよ。
私のようなアセクシュアル(フィクトセクシュアル)の人間からすれば、フィクションの表現なんかよりも、人格のある生きた異性を性的対象として、あまつさえ性交渉にまで及ぶような人権侵害行為が許容されている社会にこそ恐怖を覚えるのだけれども。こうした対人性愛の特権性が批判されることは無いのだから、いくらなんでも「オタクばかり叩いてるわけじゃない」という言い訳はいつまでも通用しないよ。