それは貴殿の言う通り。
長続きしない可能性がある。
より正確に言うなら、「今」「他をアッと言わせるほどの」「何らかのスペック」をもっていて、かつ、それをできる限り長期間「維持継続させるための最大限の努力と投資ができること」が大切といえるかな。
そうやって維持継続された「結果」に俺は満足するだろうし、努力している姿を見せることこそが、相手から俺に対する気持ちの表れであると感じることだろう。
「今」それがなくても、「これから先」そうできるならば、実質問題はなさそう。
そしてそのためにはなにより最低限自分自身がそうでなければならないわけだが。
…とすると、相手がそんな人であるかどうか見極める方法か、俺が相手にそうさせられるようになるための方法を考えればいいのか。
同性婚に代表されるように、法的にマイノリティの権利を認めることが議論されるようになった。この権利を認めようというのは、多様性という価値観からだと私は理解している。
マイノリティに対する政策には、社会的弱者の保護という言葉が伴うように思う。だがこれはあくまで法や行政的な結果を語る言葉である。
残念なのは、この面から税を投入する意味を考えても、結果であるから保護に至る価値が見えないのである。
この根底にある価値は多様性である。マイノリティを含め、色んな人がいる社会に価値がある。それを肯定しよう、そういう価値観である。
昔、突発的に整体的なのを習いたいと思って開業できるぐらいの実力をつけた。
だけどやっぱ自分の道ではないと思ったので今は全く別な仕事をしている。
身近な人で、それこそ自分がそういうのを習ってたことを知っている人がたまに、
なんとかしてくれよ~と来るとか、紹介で来た人を施術するぐらいだ。
なので飲み会の場で
「こいつ腰痛とかなおせるのよ」
と聞いてくる。
当然、なんとかする。
・リンパの流れが
・みなさんやってますよ
・恥ずかしがってたら終わりませんよ
とかは言わないが、どんな症状であっても
身だしなみを整えてくるだろうから足が臭くなくても納得できる。
でも、完全に不意打ちで足を診ることになっても本当に臭くないのだ。
一体これはどういうことだ。
男はほぼ8割がた臭い。飲み会の場なら、飯食う気が失せるぐらいだ。
ソ連兵かと思うぐらいのブーツを履いている子でも臭くない。
本当に謎だ。
愛犬が死んだ。
もう5日前のことになる。貴重な体験だと思うので文字にしておきたいと思う。もう心の整理はついているので、慰めたりしてほしいわけではない。ペットを飼っている人の何かの参考になれば、同じ動物好きとして嬉しい。
親バカでしかないが愛犬は「いい子」だった。お手、お座り、待て、伏せなどの芸をすんなり覚えた。散歩の時は自然と人の歩に合わせることを覚えた。おかげで足の弱ったじいちゃんの散歩にも付き合うことができた。じいちゃんの散歩は1人と1匹になり時間も距離も伸びたようだ。散歩の時にはどんな犬と出会っても仲良くした。吠えられることはあっても、吠えるようなことはなかった。近所の飼い犬とはお友達になった。野良犬さえ、愛犬と何やらコミュニケーションをとっていた。当然、人当たりも良く、ご近所のみなさんに愛された。散歩中に、近所の小・中学生によく遊んでもらった。お前はいつも楽しそうだった。怖がる子も、お前がペロッと舐めると笑顔になった。番犬としてもしっかり働いた。家族やご近所さんの足音をしっかり覚え、聞きなれない足音にしっかり吠えた。本当にお前は理想的な飼い犬だった。
大きな病気もせず、スクスク育ち元気に生きた。年老いて体が弱ったが、それでも死の2日前まで日課の散歩を続けた。死の前日に、以前から弱っていた後脚が立たなくなって寝たきりになった。急激に食欲が落ち、水を飲むのもめんどくさがるようになった。それでも自由のきく上半身で、お前はいつもの愛嬌を振りまいていた。家族の一挙手一投足をお前は見ていた。半日だけ有給を使って、ぼくが実家へ帰ってこれたのはこのタイミングだった。
夜には呼吸が苦しくなってきたようだった。自分で体勢を変えられないので、時々体を動かしてあげた。ただ、どうしても楽な姿勢は見つからなかった。それでも、一瞬は楽になるらしく、その間だけ眠っていた。最後の夜をゆっくり眠らせてやれなくて申し訳ない。でも、最後の夜を一緒に過ごしたことをぼくは忘れないだろう。ただただ生きようとするお前の姿があった。
最後の日の朝。とうとう上半身も動かせなくなった。僕が朝食を食べていると「自分にも分けろ」と甘えた鳴き声を出し始めた。でも、口元に食べ物を持っていってもお前は食べられなかった。精一杯の愛嬌だったのだろう。もう眼も鼻もきいていないようだった。ほどなくして意識も失われた。お前はお気に入りの、部屋の日当たりのいい場所で眠るようだった。
母が仕事のために出かけた。その音が耳に入ったのか、お前は意識を取り戻した。最後の力を振り絞ってか、動かない身体を動かして窓から外を見た。いつも誰かが出かけると、窓から家族を見ていた。自分も連れて行って欲しかったのだろう。その気持ちが最後の最後で身体を動かしたようだった。ほどなくして意識がなくなったようだった。最後の力を使い果たしたのだろう。ほんの少しの痙攣のあと、お前は旅立ってしまった。ぼくが仕事に出るわずか10分前のことであった。帰省できたのはわずか12時間程度だった。最期を見届けられるとは思っていなかった。最後に会えれば十分だった。おまえはいつも、本当にタイミングがいい。
僕たち家族は十分にお前の死を受け入れる準備はできていた。お前はそれだけの時間をしっかりつくってくれた。それでも涙が出てきた。どんな本を読んでも、泣ける映画をみても、泣いたことの無い僕が泣いた。たぶん、痛みや苦しみ以外の理由で僕が泣いたのはこれが初めてだろう。溢れ出る感情というものを初めて知った。
仕事のために家を出た。電車の中でも少し泣いた。職場で仕事をした。いつも通り仕事をしたつもりだけど、今思えばそんなことはなかったのだろう。一人暮らしをする家に帰り、夕食を食べた。徹夜ということもあって少し疲れたので、近所のスーパー銭湯に行った。不思議なことに、いつもは混み合う銭湯が空いていた。露天風呂にのんびりとつかった。突然、涙が溢れてきた。30分ほど泣いていただろうか。色々な思い出が頭を巡った。
最後に、愛犬に思うことは「感謝」である。本当に「いい子」だった。もともとは他の家の子になるはずだったのに、不思議な縁で我が家にやってきた。いつも家族のみんなを笑顔にした。イタズラをすることもあったけど。家族が成長し、それぞれの暮らしが始まっても、愛犬が家族をつなぎとめた。愛犬は家族の楔だった。
別に普段から食事に行ったりとかLINEでやりとしているとか、なにかしら交流があるなら全然いいんだけど、
いきなり「今度選挙あるよね!知り合いの○○さんが出るのでよろしくね!」的な誘いをいきなりやってくるって、
自分をその程度の扱いの人間にしか見ていないのに、どうして票譲ってもらえる〜〜〜って思ってるんだろ。
利用されているだけって思わせたらそれだけで付き合う気なくすってこと、宗教しているくせにわからんのかな。
それとも。。。。
ん?誰か来たみたい。
わかってもらおうとすること、構ってもらおうとすること自体は否定されるべきことではないと思う。
ただ、わかってもらい、構ってもらうための装飾した「かわいそうな自分」を作り上げるのは結果的に自己に不利益をもたらすんじゃないかと。
「二度と誘わないで」と言えばいいだけの話。
(うわぁ……)