眠れないのはそのせいかもしれない。
男「ほんと?でも、どういうシステムになってるかよくわからなくて。初めて行くお店って戸惑わない?スターバックスとかw」
私「ド、ドトールしか行ったことないですが学食は食券買うだけです」
男「一緒に行こうよ。一人とか嫌だしw」
「それ、美味しそうだね」って言われたときは
ああ、すごくよく分かるよ。
小さいころから無敵だった。勉強もよくできたし、いじめっ子だった。
コミュ力の低い奴なんて、何人いじめ倒してひきこもりにしたか覚えてない。
初体験は14歳。それから大学に入るまでに10人くらいの処女をいただいた。
でもね、そういうあれでも、挫折ってあるんです。
遊びすぎてサラ金で金を借りて、どう見てもクズのような取立人に土下座したり。
ホストのバイトで稼いで返したけど、一番稼がせてくれた客が3人ともソープに行って自殺したり。
そんな一人から就職活動中に「あたし、死んじゃうから」と電話が来たときは日比谷公園のベンチで泣きました。
そんな大学在学中に母親が死んだ。その知らせをラブホで聞いて父親から
「お前何度も連絡取れなかったけどどこに行ってたんだ!」と怒鳴られた。
結婚しようかと思っていた彼女はなぜか若年性の癌で死んじゃうし。
自分のあのときの苦しみなんてどうでもいいくらいの不幸が書いてあって、想像できちゃうんです。
10代の頃は薄っぺらいな、と思って読んでいた小説が、なぜか20代になって読んだら滂沱の涙。
人の痛みが分かるって、こういうことなんだな、と思います。
さて、世間でエリートって言われるためには、そういう人の痛みを分かった上で踏みにじることが必要なんだけどな。
理解者に恵まれない事がどれ程つらいか。
日常的なハラスメントが妄想を助長し、いつも同じ後悔の念ばかり考えている。
そのせいで学業でいい成績になれる訳もないし、這い上がれる術は奪われたも同然。
周囲のはけ口にされるのはもうごめんだ。
無職のまま実家に引きこもって、最後は家庭で親類を殺害してしまう人がたまにニュースになるが、心底同情する。
彼らには見方がいなかったのだろう。悲しみしか抱けない。
で、貴方のもっとも大切なものは何ですか?
http://www.youtube.com/watch?v=qAcm0hyY2LA
雪子さんと直斗くんの啖呵でもききましょう。
「責任」が発生する根拠は、
(1)受益者であること
(2)決定権があること
の2つの視点で考えてみればよいと思う。
この視点で、「末端の従業員」について考えてみると、
(1)について
事業の一部とはいえ原発を運営して儲けた金の一部を確かに給料としてもらっているわけであるから。
ところが、金は天下のまわりものであるし、あれだけ大きな会社である。
東電とビジネスで取引関係にある企業は五万とあり、それらの企業もステークホルダーであることには変わりない。
そこでは社員の給料よりケタ違いの大きな金が動くこともある。数字の上で考えると、最大のステークホルダーは社員ではないのだ。
さまざまなステークホルダーを受益額順に並べてみて、その中での末端従業員が占めるポジションから評価するのが客観的評価というものではなかろうか。
(2)について
会社というのは株主に対しては民主主義であるが、従業員に対しては民主主義ではない。
しかも、原発事故が起きる前、原発推進は国策でもあったし、国民の大多数の認識も不十分であったことは間違いない。震災前に今回のような事故を防げたとしたら、とてつもない政治力が必要だったはずである。
末端従業員にも、責任はあるにはある。
ただしそれは一般の国民が自然界で生活する中でされされる責任の総量と比べやや高めというレベルでことさら言い立てるには値しない。
男は涙を見せない。男だから泣いちゃいけない。
よく言われることだ。
その婚約者とは、学生の時から付き合っていた、同い年の彼女だ。大学を卒業してお互い就職した。就職して2年が経ったとき、プロポーズした。
「結婚しよう。」
「はい。」
4年も付き合って、お互いそれ相応の歳なので、こういう流れになるのは当たり前といえば当たり前だ。
ありきたりではあるが、ごく普通の幸せに向けて歩き始めていた。
プロポーズから数ヵ月後、ご両親にご挨拶するため、彼女の実家へ伺った。
ものすごく緊張したが、地元の手土産を渡した後、仕事の話や自分の親の話など、こういう場において適当と思われる話題でごく無難に会話をすすめていった。
「結婚には反対しないが、まだ少し早いと思っている。」
その後、彼女のご両親との会食の機会を何度か設けて頂いた。自分という人間を知ってもらうために、そして、結婚を認めてもらうために、一生懸命いろんな話をした。
そんな状況が1年間続いたが、状況はよくなっていくどころか悪化していく。
「結婚はまだ早い」だったのが、いつのまにか「結婚には反対だ」に変わっていた。
自分で言うのもなんだが、一流大学を出て、誰もが名前を知ってるような大企業にも就職した。とりたてて容姿が悪いわけでもない。高学歴だとか大企業で勤めてるのが偉いなんて全く思わないが、一般的にみて親が結婚を反対するようなスペックではないことは確かだと思う。
結局、彼女とは別れた。
もう疲れた、というのが正直な気持ちだった。
それに、もしこの先なんとか結婚にこぎつけたとしても、その後の生活で彼女のご両親とうまくやっていけるとは思えない。うまくやっていく自信がない。
別れてよかったとは頭ではわかってる。でも、頭でわかってるからといってすんなり受け入れられるほど人の心は強くない。
嫌いになったわけでもない彼女と、理由もよくわからない理不尽な親の都合で別れるのは辛かった。
別れた日、一日中泣いた。次の日も、その次の日も泣き続けた。
涙が枯れるほど、という表現がまさにぴったりだ。実際、泣いているのに涙が枯れて出なくなっていた。
涙は枯れるものなのか、とはじめて知った。
1週間くらいたつと一日中泣き続けるということはなくなったが、だんだんと心が病んできた。心療内科にも通った。もともとポジティブな性格で、うつ病になんてかかるわけないと思っていたが、「うつ病は誰でもかかる」というのを、自らの身を持って実感した。1年ぐらい経つ頃には精神的にもだいぶ安定してきた。もともとポジティブな性格が幸いしているのかもしれない。
同じような経験をしている人、もっと辛い経験をしている人がいっぱいいるというのもわかっている。ただ、間違いなく自分のこれまでの人生の中ではダントツで最も辛い経験だった。この先、こんな辛い経験はしないだろうししたくない、と思っているが、人生なんてどうなるかわからない、というのも分かっている。
そんな経験を経た後、映画をみても、小説を読んでも、ちょっとしたことで泣くようになった。
ロッテ(当時)の清水直行投手の奥さんが若くして亡くなったというニュースを聞いたときは、涙こそ流さなかったが悲しい気持ちで胸がいっぱいになった。
自分の辛い経験を通して、それがどのくらい辛いことなのか、どのくらい悲しいことなのか、想像できるようになった。
人は、心の許容量を超えたときに涙を流す。嬉しい時に。そして、悲しい時に。
涙を流すことは、悪いことではない。涙を流さなければ、いつか心の許容量を超え、破裂してしまう。
男だから泣いちゃいけないなんて、誰が決めた。
どんなときでも涙を流さない人というのは、今までに涙を流すほど辛い経験をしてこなかったんじゃないだろうか。人の心の痛みがわからないんじゃないだろうか。
「年をとると涙もろくなる」というのは、年を重ねる中でいろいろと辛い経験をし、人の心の痛みがわかるようになるということなのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20110417194312
ただ、個人的には代替エネルギーと原子力が相互排他的であると考えるのはおかしいと思います。早い話、太陽光発電は昼間にしか発電できない以上、出力調整ができない原子力よりも、ピーク時に稼働される火力・水力を代替する方がよほど技術的にも本筋です。
代替エネルギー=太陽光ではないし、風力・地熱・高温岩帯・潮汐など夜間も発電可能な代替エネルギーのほうが多いです。また、エンド寄りで充放電してピークシフトする技術も研究されています。
原発に対するリスク評価・費用便益比評価は、3.11以前と現在ではまるで変わってしまいました。そのことは原子力研究者たち自身も反省の弁を述べ、他国の原子力施策が相次いで大きな転換を迎えつつあることにも表れています。そうした現状を無視して「原子力は出力調整ができないから現状維持、火力・水力は代替エネルギーに置換」と主張するのは、技術的にもSTS的にも的外れなソリューションです。
また、 id:koseki は、代替エネルギーと原子力が技術的あるいは運用的に「相互排他」だと指摘しているわけではありません。原子力発電は、エマージェンシーの際には被災地での直接人命救助に割けるリソースを廻してでも最優先で事態悪化を食い止めなければならないほどのリスクがあること、そのリスクのモジュール化による低減が困難なほど大規模な系にならざるを得ず、現に全体の統御をしあぐねていること、(そして私から見れば、現時点での想定賠償金だけで日本最大級の「優良企業」が消し飛びかねないほどの潜在的コストを孕んでいたこと)…などの現実を前に、「長期的観点での原子力からの脱却・転換が必要」だと認識したうえで、それを置き換える存在として代替エネルギーの話をしているだけです。
地元の同意がなければ立地できないというのがまず一点。あとそういうことを言い出せば病院や工場を街中に建てるのも許されないということになってしまいます。何事も程度問題でしょう。
今となっては、原子力発電には「想定外の事態が起きたときには、周辺地域の住民がその土地での生活を永遠に放棄しなければならないほどの危険性もある」というリスクが内在したことがわかっているわけですが、当時の福島原発周囲の地域住民は、そうしたリスクを含めた適正なアセスメント情報を開示されたうえで受け入れに同意してはいないでしょう。不完全な情報提供に基づく判断について自己責任を負えというのは、特にこうしたビッグサイエンスが絡む(≒専門家集団と一般市民のあいだにおける情報やリテラシーの非対称性が著しい)問題においては、あまりに一方的な話です。
また、地元での調整の結果、病院や工場の街中への建設が許されないというケースは当然ありましょう。ただし病院や工場の費用と便益は(法令による環境アセスメントがなされている限り)基本的にローカルスケールに収まるものです。しかし、原発はそうではない。現状でも国家〜超国家規模のコストを生み出している。4号機の使用済燃料プールが水素爆発により「注水」されるという偶然がなければ、さらに大きな被害を生んでいたことでしょう。
程度問題の「程度」がまさに問題なのです。