「責任」が発生する根拠は、
(1)受益者であること
(2)決定権があること
の2つの視点で考えてみればよいと思う。
この視点で、「末端の従業員」について考えてみると、
(1)について
事業の一部とはいえ原発を運営して儲けた金の一部を確かに給料としてもらっているわけであるから。
ところが、金は天下のまわりものであるし、あれだけ大きな会社である。
東電とビジネスで取引関係にある企業は五万とあり、それらの企業もステークホルダーであることには変わりない。
そこでは社員の給料よりケタ違いの大きな金が動くこともある。数字の上で考えると、最大のステークホルダーは社員ではないのだ。
さまざまなステークホルダーを受益額順に並べてみて、その中での末端従業員が占めるポジションから評価するのが客観的評価というものではなかろうか。
(2)について
会社というのは株主に対しては民主主義であるが、従業員に対しては民主主義ではない。
しかも、原発事故が起きる前、原発推進は国策でもあったし、国民の大多数の認識も不十分であったことは間違いない。震災前に今回のような事故を防げたとしたら、とてつもない政治力が必要だったはずである。
末端従業員にも、責任はあるにはある。
ただしそれは一般の国民が自然界で生活する中でされされる責任の総量と比べやや高めというレベルでことさら言い立てるには値しない。
東電の労働組合は、原発推進の候補を組織内から出したり そういう意味で経営陣と従業員は違う、と必ずしも言い切れないのがなぁ。 少なくとも組合員は結構な責任がありそ。