はてなキーワード: 賛美歌とは
多分見つけた、I Wrestled A Bear Onceだ。メガネもかけてた気がする。賛美歌ってほどではなかったけどいろいろ濃い。
よし、みんなこれだと悪いところしか出てこないので、俺がエホバ擁護するぞ。
エホバの証人は新興宗教の中でトップクラスのIT化が進んでる団体。
jw.org というドメインで公式サイトがあるが、とてもしっかりした作りなのが見て取れるはず。
多言語対応だけでなく、手話にも対応しているし、ブロードキャストとして動画配信もしている。そしてデザイン面においても、ブランディングが各地で揃っている。
昔の印象で「雑誌や本を配る」団体のような印象を持ちがちだけど、実は聖書や書籍などは全て電子化されてる。
信者の集まりなども基本的にはみんなタブレットを持ち寄ってそれを参照してやってる。信者向けにバルクでiPadを売るプログラムなんかもある。
また、例えば App Store で jw.org で検索するとわかるが、たくさんアプリが出てくる。
書籍などはもちろん、賛美歌なども全てアプリになってる。子供向けの教育アプリもある。
そもそも、基本的に信者からの任意の寄付だけで回している団体なので、物理的な書籍をなくすことで大幅にコストカットができるため、世界的に見てもだいぶ早い時期からIT化に踏み切った唯一といっていい団体なのだ。
公開初日の今日、確か府内の上映館はここ一館な筈なのに予想よりも観客は少なかった。
主な感想としては、セリフとモノローグが多すぎる気がするということが一つだ。
大抵のとき、誰かが喋っている。
最後は、水色っぽい死んだ筈のやつが主人公に撃たれて、環境映像みたいなものが賛美歌と一緒に流されて終わるという原作を中途半端にしたみたいなものだが、水色っぽいやつが出てくるシーンがウザくて仕方がない。
くるっくる動いたり、ピアノ弾いてたり、プールに飛び込んだり、主人公と接吻したり、胸を揉んだり。
水色っぽいやつの神秘性みたいなものを出したかったはずなのだろうけど、単にイタい人間にしかみえない。
そして、えらい老人たちの会議がエヴァンゲリオンのゼーレみたいだった。SFアニメ映画なら珍しくない。
あと、原作でも思ったことだがやっぱりネーヨと思うことがある。
水色っぽいやつが、
とか言っていることだ。
言葉で殺せるなら、自分の前の席に座っていたカップルなんてとっくのとうに死んでいる。
男はイケメンだった。顔も肌も髪も綺麗で、目は大きくて、鼻が通っていて、顔が小さかった。
女の顔も良かった。
美醜というのは遺伝する。恋愛結婚が重んじられるようになったので、顔がいい人間がこれから増えていくのだろう。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
黒歴史である傭兵時代を思い出すから、私もそのテの話をあまり嬉々として語ることはないのだが、それでも返すならこうだ。
「あなたは食事をするとき、その料理がどれだけの犠牲のもとで成り立っているかを、いつも思い浮かべながら食べていますか」
例えば豚肉なら、その材料に使われた豚がどのように殺され、いまこうして皿の上に乗っているかを想像しながら食べる。
大抵の人間は「いちいちそんなこと考えていない」と答えるだろう。
それと同じで、皆がみんな「どうだったか」なんて普段は気にしないんだ。
君たちはどうも、介入する余地があればそこに善悪を求めたがる傾向があるね。
責めているわけじゃない。そもそも「善い悪いで決めていい話か」ということだ。
戦争を知らない人たちが、戦争の作品を作って、戦争を知らない人たちがそれを遊ぶ。
こめかみに撃たれ、出来た穴から噴水のように血があふれ出る人の姿。
そんなこと、知らないで済むならそのままでいい。
せめて出来ることは、過去を顧みてそれを慰めとするくらいだ。
天皇制とか王制というのは、政府が外交の一部を天皇家や王家に外注してるようなもんだと思う。
あるいは、こうもいえるかも。
ニッポン放送とフジテレビの関係みたいに、子会社(政府)のほうが大きくなっちゃって親会社はお飾りになってしまったと。
外交システムの一部としてみるなら、まあまあ効率がいいシステムであるわけだし。
上場会社だったらニッポン放送の株を買われたらフジテレビも傘下になってしまうとかそういうのがあるんだろうけど、天皇家が惨殺されてしまったら日本という国がなくなるというわけでもなさそうだし。
別に神様を信じてなくたって神社で手を合わせたりするのと一緒で、なんとなく尊敬してるふりして、なんとなく日の丸や君が代に敬意を払ってもいいんじゃね?
(敬虔なクリスチャンは神社で手を合わせたりしないそうだ。神前式の結婚式に参列したときとかどうするんだろう?なんか大変だなぁ。)
たぶん、中高の教育のせいだと思うのだけど
でも、君主制か民主制かなんて政治システム上たいした違いじゃないような気がする。
たとえばギリシャ連合vsアケメネス朝だって、どっちのほうが国家としてのシステムが優れてたかっていったらアケメネス朝のほうが近代国家に近い政治システムを持ってたと思う。
都市、あるいは村みたいな小さな単位で話し合いで政治をしてたところと、官僚制が整備されて腐敗防止に中央直属の監察官がいて、軍制が敷かれ、統一通貨制度がある国の戦争をとりあげて、「民主主義対専制君主制の戦い」と言うのはどうしたものだろう?
僕は事なかれ主義なんで、流される。
躊躇なく流される。
神社で拍手を打つし、卒業式では君が代を歌うし、キリスト教式の結婚式では賛美歌を歌うし、宴会ではゴム手袋を頭からかぶって鼻息で割る。
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1026333920
イギリスは17世紀中葉、つまりバロック音楽華やかなりし頃に、清教徒革命が起き、オリヴァー・クロムウェルは教会の賛美歌だけでなく、音楽自体を人間を堕落させる物として禁止してしまいました。偶像を破壊したり聖書の文言を一言一句そのまま解釈する原理主義で、いわば中国の「文化大革命」や1979年のイラン革命の時と同じ様な現象が起き、その後数十年にわたって音楽家は人前で演奏する事も歌うこともできなくなり、もちろん音楽を教えたり、習ったりすることもできなくなって、音楽家は旅芸人に至るまでほとんどいなくなってしまったのです。一世代以上にわたって、一つの文化、教養の受け継がれなくなってしまった国で、再び音楽が興隆するまでには長い時間が必要で、18世紀はじめにはドイツから作曲家のヘンデルを呼び寄せたりして音楽の復興を計りましたが、イギリスがドイツ、フランス、イタリアの音楽に追いつく事はついにできませんでした。
今朝、都内に向かう電車の中で、茶パツを小汚く伸ばした小デブなおっさんが
一心不乱に携帯を見ていた。
たまににやついたり吹き出したり、突然左手で「よしっ」と拳を握りしめたり
株価でも見ていたのだろうか。
とにかく挙動が忙しい。
それだけなら、まだいいのだけど。
このおっさんは入り口のそばに立っている。
そして電車は混み合っている。
電車が揺れるたびに人と人がぶつかる。
入り口の近くにもたれているおっさんにも誰かがぶつかる。
そのたびに、おっさんはぶつかってきた人を睨むのだ。
これがヤンキーならわかるのだが、一応、スーツを着てるおっさんである。
紫のマフラーにチェックのバッグとか持って、
ちょっと「イケてるおっさん」を狙ってる感じが見え見えなおっさんである。
顔も体も、グレート義太夫と古田新太を足したような感じだったけど。
少し老眼なのか、携帯を少し離さなければ見ることができないのか
手を伸ばして携帯を見ている分だけ、他の人よりスペースを保っている。
そして小デブ。
つり革につかまっていようとも、誰にもぶつからずに電車に立つことは困難な時間。
そこでおっさんはぶつかってきた人を睨みつける。
持っていたカバンをそのおっさんにぶつけてしまった、私のことを睨みつける。
思わず睨み返した。
おっさんはさらに睨んできた。
「醜いなぁ」と思った。
電車でドアの前に座り込み、駅で停車してもどけようともしないバカ高校の高校生の頭を
降りるときにドジを装って持っていたスチールケース(重量10kg)の角にぶつけたことを。
近くに立っていたきれいな女の人にひたすら話しかけ、無視されても話しかけ続ける酔っぱらいの足を
これまた降りるときに気づかないふりをしてピンヒールで踏みつけたことを。
18きっぷで旅をしているとき、隣に座って「一緒に賛美歌を歌いませんか!」と話しかけてきた
「私もキリスト教(の大学を卒業した)だが電車という密室で勧誘という行為をして良いと
主が述べたという話は聞いたことが無い」という、支離滅裂な理屈で追い払ったことを。
あの頃の私は若かった。
だがもう私は若くない。
あの頃の私ならどうしただろうか。
いや、今の私ならどうすべきだろうか。
降りるときにおっさんが着ているコートのフードにゴミを入れて行くか。
降りるときにおっさんの背中にぶつかるふりをして「私は心が狭いデブです」という張り紙をはるか。
やはり王道、降りるときにわざとらしく足を踏みつけるべきか。
おっさんがつけているイヤホンを外して一言「死ねば良いのに」と言うべきか。
「ぶつかりたくないならグリーン券買えばぁ?」と水銀燈の口調で言うべきか。
考えているうちに、おっさんは渋谷で足早に降りていった。
まるで逃げるような速さだと思った。
明日もあの電車におっさんはいるのだろうか。
乗り換えのためには、あの車両が都合がいいのだけど、
またあのジトッとした目で見られるのは嫌だな。
多くの場合、結婚するのは一生に一度だし、複数回してもせいぜい2,3回ぐらいだから、結婚式する人は、そういうときぐらいパーッとバカ騒ぎしてみたいという気持ちがあるんじゃないの?私は、中学生のときに両親が離婚していく過程を目の当たりにしたから、結婚に対してそれほど期待感持ってないんだけど、それでももし結婚するとしたら、バージンロードやら誓いのキスやら賛美歌やら両親への感謝の手紙やら、そういった儀式めいたことは一切抜きにして(いくら教会で誓っても、離婚するときは離婚するしね)、親戚や友達呼んでバカ騒ぎだけをしてみたいと思ってるよ。
まあ大丈夫だよ。結婚式でうきうきするのはバカだと思っているのは、おそらくあなたの周りではあなただけだから。自分が、結婚式で浮かれている友達を見て「ばか女だ」と思っているから、自分も他人からそう思われるのかもと思ってるのかもしれないけど、あなたがそれをしたところで、周りからは何とも思われないから。むしろ、天然に賢い人って、時々バカみたいなことをやってみたりするもんだよ。脅迫的に賢くなりたいという思いに囚われている人が、バカだと思われることを極端に避けようとするんだよ。
それに、煽ってくるのは何もウエディング業界だけじゃないよ。ファション業界、保険業界、健康食品業界、健康器具業界、ゲーム業界、オタク業界、グルメ業界、みんな煽りまくってる。でも、その中で何の煽りに乗るかは、自分の意思で決められるんだよ。乗りたい煽りと乗りたくない煽りは、自分で選別できる。
重要なのは、他人からどう思われるかじゃなくて、自分がどうしたいかだよ。結婚式したいならすればいい。したくないならしなければいい。それだけ。むしろ、「バカだと思われたくないからやる・やらない」っていう理由で物事を決めるほうが、私はバカバカしいと思う。
たとえば12月の夜に
賛美歌流れ出す街に出たんだ
君のいない隙間うめるような
何か探してたかもしれない
やっぱそうだと どんな騒がしくても
なんとなく誰かとすごすのは やりきれない
懐かしいものばかり輝いてみえる時は
新しい何処かへゆく はじまりと
君はまだあの頃のまま 無防備に歩いてますか
たとえば12月の夜に
絡まってはもつれてゆく人の
思いとかすのも人だけれど
12月は取り繕った感じが ちょっと否めなく
なんだか好きになれない
過ごしたあの日々なら もう遠い
それでも振り返っては行く先さがそうとする
たとえば12月の夜に
なくしたモノばかりが輝いてみえるのなら
新しい何処かへゆく 時がきた
なぜかな その強さが少し悲しくみえたんだ
たとえば12月の夜に
がんばれ。
初めて彼女を知ったのは雨の日だった。
酷く朽ちた椅子が雨に打たれ夜の街頭の切れ端の中、刻まれた皺の数を数える老樹の様に、
そっとそこに存在していた。体は今にもコケを生やしそうな程に腐っていて、座ろうなんて少しも思わないけれど、
もし誰かが座ろうものなら翌朝には、土に帰っているんじゃないのかなっていう程に脆そうで。
毎日毎日変わることなく、何気なしにその道を通り彼女を感じていた。
経緯なんてチープなもので理由もあって無いようなもの。
けれど私の時間の共有できる部分を霞めたものを感じていたかったのは本当だったと思う。
擬人化という言葉が適切かどうか私には分らないけれど、いつしか彼女という固有名詞が自分の中で確立していった。
誰が捨てたのかも分らない。
見れば雨風に当てられるようになったのがここ最近の話ではないように感じた。
ある夜は空へ解かれた星空を眺め、ある夜は野良猫や野良犬の雨宿りスポットになっていたのかもしれない。
そしてある夜は私の様な人間の相手をして。
けれど何処かの物語の様に「おはよう」「こんばんは」なんて言葉は彼女に対して私の中に産まれてくることは無かった。
誰かが何処かへ運ぶ訳でもなく、ただソコに存在したという記憶。
彼女のことをここを通るどれだけの人が知っているだろうなんて考えるのは馬鹿馬鹿しいのかもしれないけれど。
「変わらないものなんて何も無いんだよ」
そう彼女は終わり際に私へと歌っているように感じた。
賛美歌のように雨が彼女の体を撫でる中、指先で彼女の足へと触れてみた。
冷たくて何所か暖かい感触が体へと伝う。その途端に崩れ落ちるように目の前に彼女の体が横たわり雨粒を舞い上げた。
始めてあった時と同じように澄んだ空気と傘を撫でる優しい雨音の中に生を終えたんだと知った。
心の温もりで癒すように眠りについた彼女の体を抱き上げ、彼女の欠片をハンカチへと包み込んだ。
目蓋を閉じる。
黒髪を肩まで流し、黒いドレスを着た女性が一人、胸元に鮮やかな赤い花を抱え、
場違いな程に異質な空間のなか傘も差さず、穏やかに微笑んでいた。
壊れたオルゴールから流れる途切れ途切れな音階の様に雨音が、白い息と共に声を拾い上げる。
「はじめから理解ってたよ...
でも......もうさようなら......」