はてなキーワード: 作詞とは
天空の城ラピュタエンディングテーマ「君をのせて」の歌詞の意味がわからない という声は、「君をのせて 意味」でぐぐっても見かけますね。
まぁ、歌の歌詞の意味は解釈すれば全部意味が分かるというものとは限らないのは前提でしょう。
とはいっても、作詞の宮崎駿その他関係者の発言を自分は手元に収集してるわけでもないので、調べたら参考資料はあるのかもしれません。
で、ぐぐって見つけたあるページ。
えーっと、小学生の合唱で意味をそれぞれにまかせて歌がまとまるんですかね、とか、映画は見てない子どもも多かったようで映画に引っ張られすぎてないなぁとか、それを置いてもこの解釈どうよとか気になる所がいっぱいありますが…。
あたりは、楽譜も一つの歌詞解釈の資料になりうるなぁとか思いましたけど(常に正しいと主張するつもりはありません)。同様の背景資料で「よく知られている物」の中には、井上あずみがどのように歌ったか、というのはあるかも知れないなぁなどと思ったりするわけですが。
まぁ、それでも敢えて真面目に授業の解釈に突っ込むと
『話者はだれですか。』
ぼく・ぼくらが出た。「ぼく」と書いてあるから、「ぼくら」と書いてあるからが理由であつだ。話し合ったが決着がつかなかったので次に進んだ。
については、後で映画の解釈等で絞られて「ぼく」になっているが、歌詞だけ普通に見れば「ぼくら」は「ぼく+君」と解釈するのが自然だろうから、直前に「君」も出ているし、まぁ話者は「ぼく」でいいんじゃないですかね。地球のどこかにいる<君>を探す旅に出る歌とは言っていいのかしらん。
追記)
映画ラピュタもそもそも構想から完成まででストーリーに変更もあろうからあれなんだけど、少なくとも「公開版の映画のストーリーそのままを歌った」歌ではないものの、公開時点で作詞の宮崎駿が映画の内容とシンクロして聞くことは当然想定していたと思われるわけで(歌の解釈の唯一の意味というわけじゃなくて)、そのシンクロ解釈では「ぼく」はパズーでいいだろうし、「君」が微妙だけどシータとラピュタとどっちもありなんじゃないかな(シータだと固定すると「パズーがシータの存在を知ってから近くにいない状態で追跡している時間は映画の中ではそう長くない」となって、ラピュタだと固定すると「灯がラピュタかー。空に浮いてるラピュタを乗せて地球が回るのかぁ」とかなる、日本語的には後者の方が矛盾が少ない気はするけどまぁあくまでそれはそれ)。歌の冒険が映画の中身を指すのかその前後も指すのかはまぁ自由に、かな。
追記の追記)
映画を前提にした解釈としては映画の前と考えればシータもラピュタも不可分な何かとかも言えますね。あと、最初の二行は地平線が輝くのは朝日とも見える、次の二行は灯は普通夜、という対比は何か意図してるやもしれないかなぁとか。
僕はこの曲を聴いて二回泣いて、一回吐いた。
まず、一度目の涙は短絡的である。
働こう 働こう
別にどうでもいい、これで泣くなら泣けばいい。
ただ、しっかりと歌詞を読みながら聞いたら、
ももクロはとんでもないことを歌っているのではという思いが強くなった。
それなら二回目の涙をなかった、
むしろ頑張って働こうとさえ思うかもしれない。
働いていれば、上司か取引先かわからないが、不条理を感じるときもあるだろう。
それでもなにクソと頑張ろう、働くことで生じる不条理さに立ち向かおう。
こういう曲であれば普通に受け止められただろう。
この曲の作詞の大槻ケンヂはエッセイで「ヨギナクサレ」の雰囲気を
求められたと書いている。
http://www.red-hot.ne.jp/o-ken_esy/111031.php
「ヨギナクサレ」は、労働者が
無理かもしれないけど不条理に立ち向かうことを余儀なくされせざるをえないという歌だ。
「なんで働くかなんてわからない」ということが前提として歌われている。
だけど何のために、人は働くの?人に使われたら 負けなんじゃないか?
難しいことは掘り下げないとさ、わっかんないんだけどね
(中略)
働くと 働くと 君に会う時うれしいし
働くと 働くと 君の笑顔が見れるし
やっぱ働く意味なんてないんだ。むせび泣いた。
労働の喜びを今こそ歌おうぜ!
全員で叫べば見えるかも知れないぜ!
である。完全に見えないといっているように聞こえる。
「ヨギナクサレ」では鬱屈や閉塞だったのに、
これはもはや絶望を歌っているように聞こえる。
泣きながら吐いた。
働くこと、頑張ることの意味が一般的に言われていることと
別にいい、働く人にはわかっていることだ。
ただそれを大好きなアイドルが歌うなんて惨すぎるだろ。
八千八川を集め来て
日本海に注ぐなる
流れも清き信濃川
果てしも見えず末長し
三々五々の村里は
空のいずこに続くらん
左右の岡のたたずまい
絵にも写して見まほしや
春は霞に山桜
秋は錦に竜田姫
もみずる中のこの里は
誰が織りなせるあやならん
げにも瑞穂の名にはじず
岡に続ける桑畑は
幾重のきぬに変わるらむ
家毎に響く筬の音
軒端にめぐる水車
織りなす糸の細くとも
如何にみ国を富ますらむ
原泉混々怠らず
科にみち進むは水の性
洋々滔々果てしなく
行くこそ人の鑑なれ
あわれ瑞穂のうまし国
中魚沼のその中の
ながめも広きこの里に
我等は生まれあいにけり
いざやもろ共いそしみて
八千八川の水のごと
治まるみ代の末長く
み国のために尽くさなん
http://www.tokamachishikankou.jp/modules/content02/index.php?content_id=12
終わりがいつかわからない時点で、いつが折り返しなのか不明なんだけど、何度か火葬場で骨を拾ってみた経験から思ったことを書いてみます。
朱印帳とか愛用のカバンとか棺にいれてあげたけども、最後は手ぶら。
車があろうと、本が山のようにあろうと、ゲームが積んであろうと、服がたくさんあろうとも、持っていけないよ。
お金があったら安心かもしれないけど、死んだ人のお金を残った人で分けているってことは、今持っているお金はこの世のものなんだろう。
これまではいろいろと買ったり貯めたりする人生だったけど、これからはいつか死ぬ日に向かってものを手放していく人生だ。
大好きな服は、体型がスマートなときに着たいし、素敵なガジェットも旬のうちに使い切りたい。
読みたい本は、読みたいときに読む。
一番大好きなものに気持ちを注いで、だんだんと身軽になっていければ、いいんだろうな。
自分がこの世に生まれてきたのは何のためか。
星新一的なストーリーだとこの世界を生きることは全然別の世界からのバーチャル観光旅行だったりするのかもしれない。
そんなぶっ飛んだことを考えても空想しても仕方がないので、やなせたかしさんが作詞したアンパンマンのマーチの歌詞を噛み締めながら、「自分がこの世に生まれてきたのは何のためか。」を考えていこうと思う。
聴く音楽を選ぶときに重要視していることがある。それは曲のストーリー。
歌詞のある曲ならその歌詞がストーリーを形作るし、サントラなら映画なりゲームなりのストーリーがある。
ストーリーの善し悪しがその曲をリピートする回数に繋がることに最近気付き、自分の好きな曲について書かずにはいられなくなったので、増田でオナニーすることにした。結論もなければ考察もない、ただただ好きな曲の好きなストーリーを書き綴るだけの自己満足。これが書けて、しかも不特定多数の人に見てもらえるのが増田のいいところですね。
公園のベンチでうとうとしていたら 母ちゃんに首を絞められる夢を見た 母ちゃんはいつも「いい加減大人になりなさい」と僕に言うけど 安心して下さい 僕はもう彼らの輝きを直視できない ださい大人になれましたよ
今はもう解散してしまった野弧禅という二人組の「少年花火」という曲。野弧禅の曲(のストーリー)の基本プロットは「ろくでもねえ俺だけど頑張ろうと思う、でも頑張れなかったりする。でも頑張るから、、、頑張るから、、、」という感じ。決意表明して、終わり。みたいなダメな野郎の話。「彼ら」とは少年時代の自分たちであったり、暴走族だったりする。「彼ら」のまぶしさを語り、「彼ら」のまぶしさを直視できない自分を語り、
何よりも激しい光で 何よりも激しい爆発音で 何よりも激しいスピードで 何よりも激しく刻み込まれるその一瞬に 少年花火 夏の夜に咲く 少年花火 夏の夜に散る
と続き、曲は終わる。
松本人志が「認められていない才能」として自身の映画に抜擢したのは野弧禅のボーカル。こんな歌詞をかける人間が認められていないのが不思議でもあり、こんな歌詞を書いてしまう人間が認められないのも当たり前か、とも思う。
ここはきっとゴミ箱かな
素人の、あるいは、素人みたいなプロの作った歌詞は一様に陳腐で、よく使われる言葉を並べ替えているものばかりのように思う。母親に感謝しまくりのジャパニーズラップや何かを探しすぎなジャパニーズポップス(洋楽は知らないのでジャパニーズと限定しておく)などが素人みたいなプロの歌詞の代表例。ニコ動であげられている楽曲のほとんどはこれと似た水準で、はいはいよかったね、としか思えないことが多い。よく「歌詞に号泣した」とかの評判のボカロ曲を聴くが、泣いたことはなかった。この泣き虫な俺でも、一度も泣いたことはなかった。
初音ミクの消失も同様で、相当ハードルがあがった状態で聞くことになった。そしていつもの通り陳腐な歌詞が続く。早口で歌わせるのは結構面白いなと思いつつ、まぁいつもの誰でも書ける歌詞だな、と思っていた。
謝らなければなりません。ここはきっとゴミ箱かなという歌詞が、この曲を陳腐でありふれた曲とは明らかに別次元に連れて行っている。不幸にも(?)人格を持ったデータが捨てられていく悲哀をこれほどうまく表現できるのは、作詞者に無二の才能がある証拠だと思う。
僕は夢を描いて 破り捨てては描いて
スガシカオが好きなんだ、というと「歌詞がいいよね」と言われる。もうこれはテンプレみたいにそう言われる。多くの人は「夜空の向こう」を頭に浮かべて、そう言うのだと思う。確かに夜空の向こうは素晴らしい歌詞(ストーリー)を持った名曲だと思う。ただ、スガシカオの紡ぐ優れたストーリーはそれだけではない。彼の楽曲の多くにおいて、優れたストーリーが存在している。
聞いていい? 僕は今 うまくやれていますか?
スガシカオの曲は野弧禅の曲と似たストーリーではあるが、もう少し前向き。後悔もなければ、決意表明もない、ただただ自分が頑張る理由を見つけた、と。夢を描き、それに向かって走っている最中は常に不安と共にある。夢破れても、それでも頑張る理由がある。だから頑張る。そんな曲。
古くからの彼女のファンには残念な現状はさておき、鬼束ちひろも心に残る歌詞を書くことで(僕の中では)定評がある。中でも、わたしとワルツを、は絶対に彼女以外にでは紡げないストーリーではないかと思うくらい、暗く、悲しく、優しい歌だ。
誰にも傷がつかないようにと 一人でなんて踊らないで どうか私とワルツを・・・
この(おそらく)男性は優しいのではないのは明らかだ。少なくとも僕の中で映像化されている「あなた」は優しくない。人に迷惑をかけてしまうかもしれない、という思考から抜け出せない、自信がなく、臆病なだけの男。「わたし」は「あなた」の臆病なところをわかっていて、その弱さに気を遣いつつ、二人でワルツを踊ろうと提案する女性。「わたし」が「あなた」のことを異性として好きなのかどうかはわからないが、好意の有無にかかわらず、「あなた」の弱さに気を遣いつつ、「あなた」の希望を叶えてあげようとする「わたし」の優しさに感動する曲が、「わたしとワルツを」なんだと思う。
書けないよね、この歌詞。
スピッツの歌詞と言えば抽象的なモノが多く、聞き手が勝手なストーリーをこさえる余地を残してくれている。それは嬉しいことでもあり、悲しいことでもある。
この「夏の魔物」が何なのかは諸説あるが、「子供を養うことができない未成年の男女が子供を作ってしまい、中絶しようかとも思ったが、結局生むことにした。でも、流産してしまった」というストーリーにおける「流産してしまった子供」説が最有力。僕もこの説を支持していて、そんなストーリーを想いながら聞くと、泣けてしまう。
会いたかった、が3連呼されている曲は他にもあるが、その奥にある感情の起伏や辛すぎる現実を想起させるこの歌詞は、間違いなく心に残る。
他にも優れた歌詞(ストーリー)をもつ曲はたくさんある。だが今まで聞いてきた曲の数を考えると、やはり希少であることは間違いない。とりあえず、満足したので投稿する。こんな糞文章を読んでくれてありがとうございました。
安定して幸せなときには、筋金入りの音楽好きでない限り、音楽を熱烈に必要としない。
普通の人は、片思いが辛いときに片思いソングを欲し、失恋が辛いときに失恋ソングを欲する。
作詞者としても感情が大きく動く、片思いや失恋についてのほうが創作しやすいんだろう。
恋愛以外でエネルギーを持つといったら、社会批判や憎悪の要素を持つ歌詞になると思う。
曲や編曲がすごく好きでも、「無政府万歳」とか「女を解体、内臓を引きずり出す」みたいな歌詞だと、
聴きながら引いてしまうし、ipodを見た人に反社会的で攻撃的な人間だと思われても困る。
そういう、あんまり反社会的な歌詞は困るなあ、曲や編曲は好きだけど、という需要から、
曲はロックやパンクだけど歌詞はただのラブソングという、思想的に骨抜きのものが生まれてくる。
無難に普遍的に需要を持つのがラブソングなのだということだと思う。
だからいろんなタイプの音楽がラブソング化してしまい、ラブソングばかり溢れるようになる。
「僕の名前は妖精mixi 今から馴れ合いの世界に貴方を誘うよ・・・」
ソーシャルネットワーキング マイミクシィは3人だ
「・・・大丈夫だよ」
友人からの紹介文 あることないこと書かれちゃう
「うわぁ、友達が増えていくよ ともだち、ともだち、みんな友達だぁ」
「やった、僕が一番だ!僕がいちばんともだちが多いぞ!ははは…!ざまあみろ」
まだまだ増やすぜマイミクシィ
素敵な素敵なマイミクシィ
素敵な素敵なマイミクシィ
「ダメだ、ネタがない!もっとセンスのいいことを書かないと…ともだちが、トモダチが!」
コメント書かなきゃ焦っちゃう お返ししなきゃ焦っちゃう
モニターの前で悩んじゃう
素敵な素敵なマイミクシィ
さあ、もっと馴れ合うんだ・・・!HAHAHAHA! 」
井戸の中からじゃなくて 井戸自体が俺さ
井戸の中からとかじゃなくて 井戸自体が
ここまでは出れるけど これ以上は出ないシステム
ここまでは出れるけど これ以上は出ない 俺さ
そんな時は羽を伸ばしてこのへんまで来てしまおう 調子がいい日はここまで
10秒以内に戻らないと 体調悪くなる 嘘
嘘だから平気なんだよ元気だよね
どちらかといえばこっちの状態でいる時の方が多い 衝撃
ここから何が出るのかな 何が出るかな 井戸
ちっちゃい井戸が出てきたんだよ生まれたんだよね
生まれたと いうことは 当然こういうこと ついてきて
これからここの持ち場はこの子に任せる
俺は他の現場へ行って 又誰かを驚かす ここは任せたぞ
終わりそうな気配見せて もうちょい続けるシステム
終わりそうな気配見せて もうちょい続くのが 俺さ
でも実際戻って来た所で やることないよね
だからさっきの所で帰っておけばと 90%後悔
井戸の中からじゃなくて 井戸自体が俺さ
アコースティックVer:
Togetter - 「ニコニコの歌ってみたは『ハイエナに近い』とボカロPが発言。その発言への反応から見えてくる歌ってみた界隈の問題点」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/82444
Ohnuma Sound Lab. blog 年の瀬・歌い手・ボカロ界隈・これからの活動
http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html
Ohnuma Sound Lab. blog 【追記1】前回の日記についての補足・お詫び・コメント返信など
http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-17.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-17.html
発言者である大福Pは著作権等法律の問題を主張しているわけではないので、今回の増田では法律面に関する発言は一切しない。
彼の主張は
ボーカロイドを用いて作曲したものをニコニコ動画に投稿している人の総称。立場上は作曲者
ニコニコ動画の一ジャンルを形成する、言ってしまえばカラオケを投稿したようなもの。立場上は演奏者。JASRACとの包括契約により、二次創作は認可されているため、歌ってみた界隈は著作権問題をある程度回避している。
投稿者が作品の中身を1ミリも知らない作品に初見で声をアフレコするというもの。立場上は演奏者であり、ミリしらをする人をミリしらーと呼ぶ。アニメや音楽などのアフレコに使われていたが、今ではもっぱら「歌ってみた(特にボカロ曲)」ジャンルで使われる。
分かる人は分かると思うが、「ミリしら」とは方便である。最低でも一度以上、作品を鑑賞することは間違いない。初見で声を音楽に合わせて入れるというのは並大抵の人間ができることではなく、事前に何度も聞き、メロディーラインの重なりを避け、コード進行に合わせた新しいメロディーラインを構築し、リズムにある程度合わせた歌詞の選出、推敲をしているのは疑いない。
元の曲の歌詞を変えたアレンジで、ミリしらよりは原曲に近い。(私の観測範囲内の話)主に「あにま」という歌い手がしているようである。
Togetterまとめからいくつか抜粋する。(大福P=dfk_ohnuma)
ピアプロで改変不可って書いてあった曲でミリしらやった馬鹿がいたのか。正直ミリしらなんて作詞・作曲者への冒涜だから無くなるべき風潮なんだよね。「おまえの歌詞・メロディなんてイラネ 曲の知名度だけもらってくわ」って事なんだから。ゴミ屑の発想。dfk_ohnuma
曲データでモラル低下というと、ミリしらとか新しい歌ってみたを新曲と言ってしまう等のマナーがなっていないという話のことですか?znc
来年はボカロと歌ってみたがきっちり区別されるようになるといいな。あと、界隈の人数が減ってもいいからもうちょっとまともな人の割合が増えるといいな。「ボカロが盛り上がるのは歌い手のおかげ!」とか言ってるような奴が全員死んだらいいな。dfk_ohnuma
これ以降ブログに主張が移る。
「改変不可」の曲でミリしらを行った人がいたという事実は問題外だが、ここでは割愛する。
要は「マナーがなってない」ということである。それを人数が多いことと結びつけ、質の向上を図るために界隈の人数が減ればいいのに、というなんとも大学生はバカが増えすぎたからFラン潰せよというどっかで聞いたことのあるような主張である。ただし、今回は「マナーが悪いやつ」という偏差値以上に曖昧な基準ではあるが。
話がそれるが、当然「マナー(が悪い|がなってない|を違反している)」というのは誤用である。マナーというのは言い換えれば主体的な配慮であり、それを他者に「守れよ」と押し付けるのは間違いである。この場合はルール(相互が有利になるような取り決め)が望ましい。
話を戻して、歌ってみた界隈の聞き手は、彼のブログから引用すれば
「ボカロが栄えているのは歌ってみたのおかげ!もっと歌い手に感謝するべき!」
「ボカロ曲は人が歌って初めて完成すると思っている」
などという主張をしているようである。こういう盲目な信徒というのはクローズドなコミュニティであればどこにでも沸いてくるウジのようなもので、潰しても潰してもキリがない。
彼らは「歌い手に感謝するべき」というように作曲者に敬意を求めていることがわかる。一方大福Pもマナーを求めていることからわかるように、これは「敬意が足りないvs敬意が足りない」という、宗教戦争である。
大福Pにとって、「敬意ある行動」とは、「歌ってみたりする場合、本当にいい歌詞、いいメロディだと思うなら、それを尊重するはず」というスタンスで、芸術的に見れば保守的な位置にあり、ミリしら、アナザーは作曲者を冒涜したもので「ハイエナシリーズ」にすればいいんじゃないの、というこのようだ。
先の都条例でも同様だが、創作者は「自由」の名のもとで表現をする。ここに留意する必要がある。
たとえ「そんな懐で大丈夫か」と金を積まれようと、「一番いい○○みたいな作品を頼む」と制限をつけられようと、すべての表現は常に解放されているのが原則。
「こんなの○○じゃない」とか「金積んだんだから俺の望むモノ作れよ」とかいう主張も、自由が担保されていなければできない旨の発言である。
一次創作物から二次創作物へは、原材料を加工し、加工物を作る工程に似ている。その二次創作から三次、n次と派生するケースもある。これらは基本的にもとの創作物のカタチを「ある一定」は保持しており、影響がないということはまずない。それは音楽、思想、文章、すべてにおいてで。
ニコニコ動画は視聴者、コメント、マイリストの数がつくため、価値が付加される。歌ってみたという二次創作から歌われた一次創作の動画が評価されるケースもままある(今回の火種の原因の一つ)
また、作曲者と演奏者、聞き手は持ちつ持たれつの間柄であり、どれが一番偉いというものではない。「作ってやってる」「見てやってる」「演奏してやってる」「ホールを貸してやってる」というのは他者を従属的に捉えた主体的な意見であり、それは表現、立場の優劣に寄与することもない。芸術とはそこに参加するすべての構成員に平等な立場を与え、すべてをフラットにする。指揮者は演奏団体を纏めるから、演奏家より偉いというわけではない。誤解されがちだが、経営者と労働者の関係がイーブンであるように、指揮者と演奏家もまた、イーブンな関係にある。そこに作曲者が加わっても、聴衆が加わっても、地主が加わっても、その関係は崩れない。
そして表現されたすべての芸術品も平等である。真贋を、洋の東西を、場を問わず。優劣を感じるのは、表現の埒外である。評論家が何かの作品を優劣付けて評定しようともだ。そしてすべての芸術家もまた、その優劣をつける本能に苦しめられるのである。大概、中身が薄い、質が低下したなどと主張する。
とにかく、一次創作と二次創作の間に、表現上の優劣はないということである。創作者の間でも、もちろんのこと。
ここで、敬意を払うということは、その作品を大事に扱う、ということとする。「大事に」とは、もとの表現者の意向に従う、ということにしよう。極めて主観的だが、敬意とはそういうものだ。
敬意を払うということは、それに肯定的な評価をくだす、正の価値があるということでもある。ありがたやありがたや、ということで、「有難み」というように、めったにないこと、価値の高い、ということである。
正の価値がある、大事に扱うということは、人間の所産であるが、芸術以前の行動である。価値、敬意というのは芸術に含まれない。それらはたとえ定量的に計られようと芸術に寄与することはない。「リスペクト」して創られようとその作品に敬意があるというのは「思い込み」である。
創作以前に、二次創作者は一次創作者の創作物を引用する。引用することに優劣はない。しかし、ここに敬意が入ると話が違ってくる。
敬意が入る場合、往々にして一次創作者>二次創作者という大小関係が生まれる。芸術では対等関係にあろうと、人間の間に序列が生まれる。創作物との間柄にもそれは用いられ、もっぱら二次創作者は立場が下になる。だから、芸術内でも引用したものは上になり、引用して創られたものは下と「見做される」
「配慮」は、自分の立場があなたより下だという意思表示である。あなたに敬意があります、という意思表示である。有難い機会ですということだ。
だから、「マナーを守れ」「配慮しろ」というのは「大事に扱え」というのと同義であり、大事に扱ったとしても、そう見えなければ「大事に扱ってない」と思われる。
そしてそれはけして守る必要がないものの、ときに強制されるものだ。
だからこそ、撤回こそしたものの、大福Pはいっとき「音痴」にまで言及し、「大事に扱ってない」という判断を下したのである。
だからこそ、今も「メロディーラインや歌詞を変えること」は「作品を大事にしていない=敬意を払ってない」という解釈をしているのだ。
推敲後、追加予定。
しかし、大福Pは表現の枠内に押しこみ、自分基準のマナーを創作物の中身まで相手に強いている。
品位ある行動は各人努めたいものだ。
なんだよ、そこには敢えて触れてなかったのに。
菅野ようこ歌の歌詞は最近のJ-POPとみなすには少々ピーキー過ぎだよ。マクロス歌の中でもおそらく一番緩いであろう星間飛行でさえ「悲劇だって構わないあなたと生きたい…」やら「消し粒の命でも私たち瞬いてる」とか、無駄にミクロ→マクロの原理原則を徹底してて少々怖いくらいなんだぜ。
同じく「ライオン」も最初っから「星を廻せ! 世界の真ん中で~」とか無駄にスケールがでかい。
(繰り返すが、マクロスという作品の中のテーマにはミクロな恋愛と、マクロな戦争というテーゼが確実に織り込まれている。)
比較すべきは、非難すべきは菅野ようこを挙げたことだろ、むしろ。最近のJ-POPでdisりたいのなら、大人しく秋元康作詞の作品でも挙げてればいいじゃんと。
上のリンク、「The Smithsを聞いて自殺した人」の話を読んだ。
The Smithsの作詞者兼ボーカリスト、モリッシーが当時こう語ったのは有名な話。
(ザ・スミスの曲が余りに内省的で陰鬱であり、そのために自殺者が出た、という話を記者から聞いて)
モリッシー「責任なんて感じない、本当に。彼らの人生の最後にThe Smithsがあっただけでも幸せだったと思うよ」
…なるほど。
以来、四半世紀が過ぎた。
今私たちの眼の前にある大量の無名の生と無名の死……
あらためて思う。The Smithsを聞き「自分の生」に殉じた彼らは、確かにある「幸せ」の中に居ると。
たとえそれが私たちの思う「幸せ」とは違っているとしても。
90年以前は、インターネットが普及しておらず個人の触れうる情報の絶対量が少なかった。そこに来て、TV、CD、レコードなど庶民が手に届く情報源へメッセージをこめた歌詞を送ることは強い意味があった。その発行元も限定されており、「自分のこの思いを歌詞にこめて伝える」ことも世間から見れば新しいものだし、珍しいものだった。
いまではむしろ情報過多な世間であり、歌詞における目新しいメッセージなんて皆無といっても過言ではない。良く言われる「既存パターンの新たな組み合わせ」を模索するしかできなくなっている。
自分で作り出さねば存在し得なかったメッセージが、今では探せばどこかに落ちている。ミュージシャンの立場としても抜きん出にくい世の中になったといえる。そして、2番煎じはどうしてもオリジナルに見劣りしてしまうのである。最近のカヴァーブームも、そういった音楽業界の喘ぎの1つのように感じる。
愛に縛られてうごけなくなる
あれが愛の日々ならもういらない
またしても、小田和正の歌に救われてしまった。
自分がなぜ苦しんでいたのか、この歌を偶然聴いてわかったんだ。
私はこの数ヶ月間、相手にふさわしい人間になりたくって、
背伸びして、時間と労力を捧げて、我慢してきた。
もちろん強要されたわけじゃない。
私は自ら進んで、ものわかりの良い人を演じてきたんだ。
(愛していたから……と言えるのかな。
その言葉にふさわしいかどうかは、ちょっとわからないけど、)
私は「愛」に縛られて、身動き取れなくなっていた。
「私は、この数ヶ月間、幸せだったのかな」って。
そしたら、幸福感や楽しさより、我慢やツライことの方が多かったことに気づいた。
私の努力や犠牲を感謝してくれないと、裏切られた気持ちになった。
そして、その気持ちが憎しみに似た感情に、ゆっくり変化し始めているんだ。
ーあれが愛の日々ならもういらないー
私の気持ちを代弁してくれてありがとう……。
この数ヶ月間が「愛の日々」だと言うなら、もういらない。
私が望んでいる幸福ではない。
「愛」ってむずかしい。
若いころは、お互いに誠実で一途なら、問題なんて起こらないって思ってたのに。
今日、相手に、私が今まで無理してきたことと、正直な気持ち、
そして、すこし時間と距離をおきたいってことを伝えた。
今は、時間と距離をおくことが、あなたへの一番の誠実なんだって言ったら
私が今まで言ったどの言葉より「私」の気持ちがわかったって言ってくれた。
自分の気持ちと、相手にきちんと向き合うんだって決めた。
今ならまだ間に合いそうだから。
| 作者 | 同人サークル「てつくずおきば」のせらみかるちたん(通称:せら)が作詞・作曲 |
| 公開年 | 2007年 |
| タイプ | 同人音楽 |
| 元ネタ | カプコン・ロックマン(ゲーム) |
| 影響 | 特にニコニコ動画では本曲のアレンジや替え歌などの派生動画が多数投稿された |
エアーマンが倒せない(エアーマンがたおせない)は、2007年に同人サークル「てつくずおきば」のせらみかるちたん(通称:せら)が作詞・作曲し、インターネット上で公開した同人音楽である。
本楽曲は同じくせらが作成した動画(曲に合わせてアニメーションが流れる)と共に公開されたが、それが動画共有サイトにも投稿されたことで注目を集め、投稿先のサイトで高い再生数を叩き出すだけでなく、特にニコニコ動画では本曲のアレンジや替え歌などの派生動画が多数投稿されるなどの反響を生む(#波及・影響の項を参照)。
| 作者 | イオシス |
| 公開年 | 2007年 |
| 公開形態 | 東方ProjectアレンジCD『東方乙女囃子』の二曲目に収録 |
| タイプ | 同人音楽 |
| 元ネタ | 東方Project |
| 影響 | Flashを元にした様々なMADムービーが(主にニコニコ動画で)広く出回っている。 |
イオシス制作の同人音楽(東方ProjectアレンジCD『東方乙女囃子』の二曲目に収録)。Flashを元にした様々なMADムービーが(主にニコニコ動画で)広く出回っている。
「矢部野彦麿&琴姫 With 坊主ダンサーズ」が歌う電波ソング。元はアトラスのアーケードゲーム「新豪血寺一族-煩悩解放-」内の3DアニメーションPVソングであり、ニコニコ動画などでカルト的人気を博した結果、現在ではサウンドトラックCD、着うた配信されている。
| 作者 | |
| 公開年 | |
| 公開形態 | ニコニコ動画 |
| タイプ | 商業コンテンツの無許可転載(のちに許諾) |
| 元ネタ | アトラス・アーケードゲーム「新豪血寺一族-煩悩解放-」内の3DアニメーションPVソング |
| 影響 | ニコニコ動画などでカルト的人気を博した結果、現在ではサウンドトラックCD、着うた配信されている。 |
| 作者 | |
| 公開年 | |
| 公開形態 | ニコニコ動画 |
| タイプ | 商業コンテンツの無許可転載 |
| 元ネタ | ナムコバンダイXbox360版『アイドルマスター』 |
| 影響 | この歌の動画がニコニコ動画に公開されたことで一気に広まった。 |
ゲーム『アイドルマスター』における俗語の一つ。双海亜美/真美バージョンの「エージェント夜を往く」を指すと共に、双海亜美/真美自身を指すこともある。「エージェント夜を往く」を双海亜美(CV:下田麻美)が歌う時、「溶かし尽くして」という所が舌足らずで「とかちつくちて」になってしまうことから誕生した。Xbox360版『アイドルマスター』のこの歌の動画がニコニコ動画に公開されたことで一気に広まった。さらに、2008年1月6日早朝放送の「桃井はるこの超!モモーイ!」においてこの曲が話題となり、同時に同曲の地上波ラジオ番組初オンエアを果たしている。
| 作者 | |
| 公開年 | |
| 公開形態 | ニコニコ動画? |
| タイプ | 商業コンテンツのRemix |
| 元ネタ | スウェーデンのアーティストcaramellの曲「caramelldansen」、PCゲーム「ぽぽたん」のOP |
| 影響 | PCゲーム「ぽぽたん」のOPと組み合わせて作られた動画が人気を博し、それがきっかけで様々なバージョンが作られるようになり、ネット上で盛り上がりを見せている。 |
スウェーデンのアーティストcaramellの曲「caramelldansen」の事。もしくは再生速度が原曲の120%になっているRemixを使った動画全般の事を指す。PCゲーム「ぽぽたん」のOPと組み合わせて作られた動画が人気を博し、それがきっかけで様々なバージョンが作られるようになり、ネット上で盛り上がりを見せている。
| 作者 | 不明 |
| 公開年 | 2007年2月ごろ |
| 公開形態 | ニコニコ動画? |
| タイプ | 商業コンテンツの替え歌 |
| 元ネタ | カプコン・ロックマン2の名曲「ワイリーステージ前半戦」 |
| 影響 | 2007年2月ごろからニコニコ動画、字幕.inなどでの歌詞付き動画にあわせて実際に歌い、Youtubeなどの動画投稿サイトへのアップロードが流行。 |
ファミコンゲームの名曲に歌詞を付けて生演奏しているサイト「Fuckin' Go my way!!」(蒼い牙)が、ロックマン2の名曲「ワイリーステージ前半戦」に歌詞を付け公表した作品が話題を呼んだ。キャッチーなメロディと大人になる過程で失くした記憶をウルトラセブンによって懐古するという切なくも温もりある歌詞が人気を加速させ大ブレイク。2007年2月ごろからニコニコ動画、字幕.inなどでの歌詞付き動画にあわせて実際に歌い、Youtubeなどの動画投稿サイトへのアップロードが流行。現在も新作が次々に登場している。なお、作詞者は不明*1。
みんなのうた「コンピューターおばあちゃん」について(平成22年4月2日)
ttp://www.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/100402.html
(報道資料)
平成22年4月2日
みんなのうた「コンピューターおばあちゃん」について
1981年に制作した、みんなのうた「コンピューターおば あちゃん」の映像の一部を手直しすることになりました。経緯と対応についてお知らせします。
○番組
アニメーション:とこいったさん
○放送
1981年(昭和56年)12月が初回放送
その後たびたび再放送をしており、最近の放送は2009年(平成21年)6月・7月です。
○内容
アニメーション画面の一部に使われている風景・人物 などの連続映像(全体で15秒程度)の中に、女性のおしり・胸・下着姿の写真がそれぞれ約0.1秒ずつ3カット含まれていました。
制作以来30年を経た現在の視聴環境や視聴態様を考慮に入れると、ファミリー向けの番組としてはよりふさわしい表現をとるべきだと考えました。
○わかった経緯
この作品は2004年にNHKエンタープライズから発行したDVD全12巻セットの第7集に収録され ており、DVDを見た方から指摘があり現在の番組担当者が確認しました。
○対応
今後の放送予定はありませんが、当該部分を手直し し、放送する場合には手直ししたものを使用します。
DVDはすでに販売が終了していますが、当該曲の収録されている第7集については販売会社に依頼して手直ししたものをお送りし、古いものは返送をお願い する予定です。
以上
つ オリビアを聴きながら(1978年 作詞・作曲 尾崎亜美)http://www.youtube.com/watch?v=jq6cWEqcyTQ
「オリビアを聴きながら」は、尾崎亜美が作詞・作曲をして杏里に提供された楽曲。
オリコンの記録上では目立ったヒットに至ってはいないが、時を経て多くの歌手にカヴァーされ、スタンダード・ナンバーへと成長した。