ダイソーは行けるけどstandard productsには行けない
ワイも子供が明らかに発達遅滞で動揺しとるけども、動揺してるだけにとにかく専門家の冷えた判断が肝心やと思って、臨床心理士の当面様子見という見解を受け入れつつもソワソワしてる。
もう眠いからこのまま寝ちまえばいいんだけど、なんか楽しいことないかなあ。
YouTubeも読書もおれの心を満たしてはくれない。映画はワンちゃんある。バウバウ。
中高生の頃はよかったね。週に3つも4つも楽しみにしてるドラマがあってさ。
好きなバンドの新譜をわくわくしながら待ったり、テレビゲームに没頭したりさ。
これが年取る、というか色んなこと経験するとこうなっちまうんかね。
そりゃね。賢くもなるしね。
この手の描いた人の念がこもってそうなアイテム欲しい
ダンジョン飯だけは、
SNSの雑な好き語りに踊らされたり不快にならずに見て、しっかり考察してほしい
ファンタジーという枠組みの共通認識をちゃんと誤魔化さず言語化してて、かつ人物の内面的特徴はすごく丁寧で、解像度高いと思う
アニメになる=流行る前兆なので、なんとなくバズる二次創作やりたいにわかか、流されてなんとなく見てなんとなく良いってほざく稟議書見ずに判子押す無能役員みたいなのが涌き出てくる現象、自分も大嫌いだが…
案1'とも言うべきか、セカンドオピニオンするっつって紹介状書いてもらう
候補の医院に本文にある説明をして、幼児の1ヶ月はでかいんや!と緊急性訴えて、書類だけくれればオッケーやから!って割り込みさせてもらえんかの相談ローラー作戦
「ここ空きましたよ」って言いながら席を立つとほぼ100%座ってもらえる
ああ、、、空いたなら座るか、って感じでスッと座る
ただしそんな感じだからお礼は言われないことが多い
軽く会釈されればいいほう
小さい子を抱えたお父さん・お母さん、
座ってほしいよ
立ち客がいない車内では優先席に一目散に座る
そしてこの席に座るべき人を見つけて、例の「ここ空きましたよ」で場を明け渡す
空いた席を知らせてるだけだし
その人は気兼ねなく座る
「(本当は私が座り続ける権利を所有しているものの、可哀そうな貴方様に心優しいわたくしが譲って差し上げましょう、)どうぞ」とか
言ってるうちは上から目線
そんなこと思ってもない、本心の親切心だ、と主張したところでこの荒んだ現代社会、
あなたの申し出をわざわざそんなふうに解釈する人はいくらでもいる
偽善でもやらないほうよりやったほうがいいとはよく言うけど、
どうせなら受け取ってもらいたい
この質問は
「誰にとって」とか
「具体的になんという指標が高ければ意味があるのか、指標はいったい何個あるのか、複数同時に評価するのか、あるいは、それらに正しい重み付けをして単一の数値にして評価できるのか」とか
「社会的意義は?」と言ったほうが正しく、また、社会的意義なんて各々が自分が有利なように捻じ曲げて遊ぶものなので、クソ白々しいアホ質問である。
「意味」が明確な文脈では使えなくもない。例えばこのペンをなるべく高いところに美しく置きたいとする(それに「意味」があるかは置いておいて)。
「誰にとって」は我々になるし、指標は「標高、美しさ」で、判定が曖昧だがとりあえず高いところに置くという点で話が進むだろう。
そこで「穴を掘りましょう!」とか言われたら「それって意味あるの」と言える。穴を掘ると地面が下がって我々の指標である「標高」に負の影響を与えるので質問するのは自然だ。
オタク「ネタバレします。勝手にカップリングします。BL書きます。ベタ褒めします。あー好き好き最高たまんない。え、私のこと嫌ならブロックすれば?二次創作は自由だよね?君がおかしいよ、SNSやめれば?あ、次の流行り見つかったからもう行くね」
僕「ご、ごめんね…あ、作者が新作出してるにょ…これも面白いにょ…」
オタク「誰それ?知らないし、面白くなさそう。そんなことより、今は◯◯!君、遅れてるよ?ネタバレカップリングBLベタ褒め好き好き好き」
僕「( ; ; )」
そうなんよ、正直医者より自分の方が正しいかについては全然自信は無くて。
もしかしたら先生が話してくれなかっただけで似たような状況の子が過去に言語聴覚士のリハビリを受けたら、むしろ発話するけど意味をなさないとかみたいな事例があったりするのでは…とかは不安なところではある。ただ、話せた分については先生の懸念はクリアしているはずなのに最後「病院の方針」という言葉でシャットアウトされてしまい、医学的裏付けや理由がなく断られた感じで納得感が皆無なんだよね…。
一方で区の児童発達支援センターの方と今回お試しで来てくれた言語聴覚士さんは共に「受けたほうがいいです」と言ってくれてて、特に区の方は利益関係もないし、支援したいが人手の問題でできないという状況なので一定信頼できるんじゃないかと思っている。
化粧品をどれを買うか延々と悩んでいる
AがいいかなBがいいかなAにしようやっぱりBにしよういやでもAもいいしやっぱりAはここがダメでBがいいと言ってる人もいるし
みたいな延々と同じところで行ったり来たりしてることにイライラしている。
端的に言うと悩み方を間違えている。
調べても仕方ないこととは試してみないとわからないことだし、試してみてわかることであれば試す前にあれこれ悩んでも仕方ない。
悩んでも調べてもそれ以上進展しないことならそれ以上うじうじしても仕方ない、「悩む価値」がない。
人の生死がかかってるわけでもないのに
こうして1つの才能が親によって潰されたのであった