綺麗な月光を見ながら早く帰り、ウィスキーとグレープの炭酸ジュースをグラスに注ぐ
心地よい疲れは ジャズのリズムが癒してくれ 宵に酔い思考は取り留めも無く紡ぎだされる
親になると女って人生のほとんどを子供に捧げるようになるからなぁ
生物学的な面でみても、男女の子育てに対する認識の差ってそんなもんかと
え
え
こういう話聞くと結婚したくなくなるし、子供いらんておもう。いや、そもそも家庭とかいらない派なんだけど。
増田は他に趣味とかそういうつくれないのだろうか、恋人をつくる(不倫)とか。自分が満足できる幸せだと感じられるように生きるのが一番じゃないのかなあ。
生きることは流れていくようだとおもう。流されていくようだとおもう。ずっとそのかんじが嫌いだった。流されてはいけないっておもっていた、なにかしなくてはいけない、怠惰に過してはいけないってずっとおもっていた。まあ、いいんじゃないかなあと最近はおもう。
けれどもやはり、生きることは流されることだとおもう。ああ、なんというか、べつにいいんだ、有意義であったり、向上心があったり、学習したりとか、そんなことはどうでもよくって、そんなことなくて、ただ生きているだけでいいんだとおもう。しかし生きていると様々な苦しみがあって、そう、苦しみがある。人の自慢話がきもちわるいとか、太っているのが嫌だとか、オンナにモテないとか、この世界にはそもそも苦しみなんて存在しないのに、ぼくらの心は苦しみを感じとる、感じる、存在しないものを感じて勝手に苦しむ。だから何も感じなければそれは救いだとおもう。
ぼくはそういった様々な苦しみから目をそむけて生きている。なるべく感じすぎないように生きている。目をそむけて生きている。何も感じなければ幸せなのだ。だから死にたいっておもうことはとても自然だ。
一方で、死にたいと言うことはちょっとやばいかんじがする。生き物としてそれってどうなのっておもう。生存こそが本能なのに、なぜ死をのぞむのか、それはなにかが狂っている気がする。
苦しみを回避しようと、努めてなにも感じないようにすることはなんとも思わない、それはとても自然であたりまえなことだ、いつも寝惚けたように生きている、いつも少しだけ麻痺して生きている。そうしたほうが楽だからだ。
何も感じないように生きるのは結局、死のうとしているのと同じではないか。
ぼくは生きることが好きなのだ、生きてるって感じが好きなのだ。生きてる感じにずっと包まれていたい。それは静寂と孤独だ。あと挑戦。心を開いて、肩の力をぬいて、勇気をもって飛びこむ。そんな日常。散歩の途中でみつけた怪しい店にふらりと入れるとか、そんな程度でいい、挑戦することがあたりまえの生活。孤独と静寂の時間をいつでも呼び出せること。倦怠と覚醒の間をいったりきたりできる。身軽さ。精神も肉体も身軽でしなやかで開かれていること。何ものにも囚われることなく、好きなものに集中できるということ。全てが無価値であることを知りながら、心の叫びをちゃんと聞きとれる。そしてその叫びに従える。そういう幸せが欲しい。
何が気になったかというと、ルール上は違反していない(私はルールにそれほど詳しくないので、
コメント等を見た限りの話)が、本来のプレイとしてどうなのかというやり方に、賛辞とも
言えるようなコメントが見当たることです。
腑に落ちないところがあります。
勝つためにあの手この手と考えて攻めたのだから、良いのでしょうか?
・ファウルを何度もやって、投手の球数を増やさせて、疲れたところを滅多打ち。
・見えないところでサインを盗み見て、周りからは分からないようにバッターに通知。
・投手である場合には頭部には当たらないような偶然を装ってビンボール。
・出塁したならクロスプレイに見せかけたぶつかりで怪我をさせる。
最後のは関係ないですが、何だかドカベンとかで見たことがあるような状況ですね。
そんな激しいラフプレイを誉めてなんていないと言われそうですけど、
何が言いたいかというと、ルール違反ではないけど本来のプレイスタイルとして
正統ではないことに対して賛辞を送ってしまうと、じゃあ俺も俺も、と勝つために
違反じゃないけど正統ではないプレイが横行しかねないのではないかということです。
かといって上記のプレイを一律ルール違反としてしまうとおそらく面白くなくなる
(高校野球をプレイしている側の目線ではなく、見ている側の目線なので面白い、
面白くないなんておこがましいですが)。
じゃあ一定を越えたら違反で、越えなければ違反ではないとする。
そうなるとその一定を越えないようにスレスレのプレイをするように進化する。
それはそれで面白い(失礼)のかもしれませんが、どうなんでしょう。
デッドボールに当たっていないのに、さも当たったかのようなアピールプレイを行って
塁に出る人が溢れる試合を皆さんは見たいのでしょうか。まあ、プレイする側としては
それで勝てるならやるのかもしれませんが、あるべき姿なのでしょうか。
一人ぐらいいたっていいでしょうけど。
正統正統って、お前の中にある正統で物を語るなとも言われそうですけど、
少なくとも上記プレイを野球において正統とは一般的に言えないと思います。
正統ではないプレイに対して批判を展開するのはあまり良いとも思いません。
花巻の選手も叩かれたら可哀想ですし。健全性ばかり求めて勝利を欲することを
周囲としては賛辞はせず、特に取り上げないか、眉をひそめているだけで
何でもそうでしょうけど、黙認はするけど認めている訳じゃないぞ、としておかないと
今日、病院のトイレで用を足した時に、便座を拭く薬品の入った装置が設置されてた。トイレットペーパーに吹き付けて、便座を除菌殺菌するための装置だった。
これまでにも何度となく目にしてきた仕掛けだったんだけど、ここまでする必要があるんだなあってふと思った。
無論、間接的にではあれ、肌と肌が、準秘部とも言うべき身体の部位が触れ合うわけだから、装置の意義がわからないわけじゃない。今日だってつい使ってしまったし、病的な潔癖装置だと避難したいわけでもない。
ただなんというのか、間接ケツは駄目なんだなあって、しみじみと思ってしまった。ケツ、駄目なんだなあって。
間接キスならまだわかるんだけどね。気恥ずかしかったり気持ち悪かったりする心情は、漫画なり小説なりドラマなり物語の中でよく登場しているし、日常生活でも子供の頃に冗談として消化しているから理解できるんだ。
その点間接ケツの嫌悪感は、もちろんわかってはいるつもりなんだけど、ぼんやりしている。いい気分じゃないことは確かだけれど、そこまで気にするものなのかしらんとも思ってしまう。
場所も関係しているのだろうけれどもさ。腰を据えた便座が、例えば人気のない公園の、薄暗い、アンモニア臭が漂う公衆トイレだったなら、生理的嫌悪感がもうぞわっと込み上げてきて、切羽詰まってさえいなければ使わなかったに違いなんだから。
でも、今日肛門に力を込めたのは病院のトイレだった。綺麗に清掃してあって、臭いもない。見たところ、汚れも跳ね飛んでいない便座なのに、清潔にするための、殺菌除菌するための薬品がぽんと置いてあって、ああやっぱり便器なんだなって、汚れていることが無理矢理可視化されているような気になってしまった。
まあ確かに、誰ともしれないケツが、ベッタリと便座を覆うように乗っかっていなかったとは言い切れないわけなんだけれどもさ。
使い続けているキーボードとか、マウスのほうが雑菌が多いとか何とか言われていたことを思い返すと、ATMの液晶とか、トイレの蛇口とか、仮にそういう装置が置かれてしまったならば、汚いことが表立ってしまう施設なり装置っていっぱいあるような気になってしまったわけで。
間接キスも間接ケツも、ある種汚らわしいように扱われている現在、間接タッチも嫌悪されるようになるのかしらんとか思うと、なかなかどうして想像が飛躍する。
子供は2人
僕もまぁそうなのかなと思っていたのだけど、僕の優先度は夫婦であったことに最近気がついた。
子育てを理由に、共通の趣味をひとつ、またひとつと削っていき、今では接点なんかなんもない。
娘が「〇〇ちゃんのお母さんは〇〇ちゃんたちが寝たあとに一緒にゲームしたりしてるんだって」
というのを聞いて「あーいいなーそれ」と思ったが妻は「別にそんなの楽しくないよ」と。
軽く絶望した。