はてなキーワード: 生煮えとは
料理が下手だ
よく「メシマズな人って余計なことやっちゃうのよね」とか「レシピに書いてあるとおりにやらないから」とか言われるが
そんなことはない
調味料などはきちんとはかる(ので、味付けがダメということはほぼない)
自分の料理で、なんかおいしくないなーと思うものは、ほとんど、火の通りがイマイチでおいしくない
これはですね、「書いてあるとおりにやる」っていうのがなかなか難しいんですよ
煮物なんかは、まあ生煮えじゃなければ、どの段階の火通りでもそれなりにおいしいとなるけれど
まれに「中火で何分」「裏返して何分」と書いてあるものを、その通りにやってみても
まだイマイチ火が通っていなかったり、いやまだ生っぽいんですけど、となったりする
となると、さっきまで「レシピに書いてあるとおりにやらないから」と言っていた人が
今度は「そんなの自分の感覚で判断しなきゃ」と言ってくるのである
料理が下手という人にたいして、あなたがたがまず言うことではなかったでしたっけ?と思う
なんというかトライ&エラーというか、経験を積み重ねて正解を導き出していくということがうまくできない
そのへんはたぶんセンスというか、持って生まれた向き不向きなんじゃないだろうか?
(もちろん、ある程度の上達はあるにしろ)
おいしいはプラス、普通は0近傍、まずいはマイナスだと思って生きてきたんだけどさ
つまりおいしいものは食べてよかったもの、普通のものはどっちでもいいようなもの、まずいものは食べて損したもの、だと思ってたんだけどさ
すぐ「まずい」って言う人多くない?
食べて損した、って思うほどまずい食べ物って世の中にそんなになくない?
もしかして俺の中で「普通」とか「おいしくはない」に分類されるものは、奴らにとって「まずい」なのかな?
俺が「まずい」って言う食べ物って、味付けが明らかに濃いとか薄いとか、生煮えだとか、変な味がするとか、味の組み合わせが明らかに合ってないとか、そういうレベルのものなんだよね
ラーメン二郎仙台店が、残していった客に二度と来ないでと言ったとツイートした件が話題になっている。
その話で思い出したことがある。
過去に都内ラーメン二郎某有名店でのこと、何人か連れ立って食べに行って、一緒に行ったうちの一人が少し食べるのが遅れたら、後に待っている客が居ないにもかかわらず、食べている途中なのに時間かかるなら全部食べなくていいから帰れ的なことを言われ、そいつは仕方なく残して席を立たざるを得なかった。
有名なんだか何だか知らないが、食べている途中でもういい帰れって何様のつもりなのかと腹が立った。
それ以前に、実はこのとき初めてラーメン二郎なるものを食べたのだが、あのまずいものを有難がって食べる意味がわからん。
スープは薄い上に脂ぎっていて、上に乗せた野菜は生煮え、麺はかんすい臭さが鼻につく、チャーシューだけがやたら厚くて脂身もゴテゴテしていてゼラチン質には程遠い。
一部では豚の餌と言われているらしいが、豚に失礼だ。
すでにある一万個の機能について、うまく共通点を抽出できたとしても
今後拡張する三万個の機能についても同じことが言えるのだろうか?
エンジニアとしては普遍的なテーマだけど、職場帰りに素面でするような話でもなくて。
元東証一部企業の取締役社長より一時間近く時間をお借りしてしまったからこそできた話は、とても面白かった。
経歴がやばい社長がラリー・ウォールlikeな超々やばい人たちに囲まれて、選択した生存戦略。
top1%ではなく10%の山を複数個持つことで、1%のスペシャリストになれなくても凄さをわかるところまで追いつけるからと。
正しい方向で正しい努力をすることで、誰でも10%にはなれるけど、正しさの担保は物事の本質を理解しないと得られない。
じゃなその本質とはどのようなことか?抽象化といった、プログラミング言語の特性に寄らない普遍的な設計思想だと。
程度は違えど、中高と進学校に進んで周りの理三行くような優秀なやつには一生勝てないなという挫折感と劣等感が漫然とあったから、
生煮えのエンジニアから脱却する気づきを得られたことに感謝があった。
この歳になって、また頑張りたいと思えた。
この本( https://www.amazon.co.jp/dp/4106104911 )、ピカソの人心掌握技術の秘密が短いページの中にシャープに考察されている。
要約的なnoteの紹介記事( https://note.mu/hoshinomaki/n/nd998e3cd1998 )を見てフムフムと思い、Kindleで購入して実際に読み始めてみましたらば、ピカソさんめちゃくちゃやったるでな感じでそれこそ芸術家たる(以下略ですなぁ、と感服致しました。破壊衝動の塊魂。
さて、意図的か否かに関わらず、このような不機嫌方略で関係を結ぼうとしてくる『巨匠』は社会人生活の冒険活劇において少なからず存在するのは言わずもがなで、時として不本意にも、本当に不本意にもエンカウンターせざるを得ない、エンカウンターせざるを得ない!わけですが(大事なので2回)、そんなときに武装といえば布の服とひのきの棒しか持っていない、純朴に純粋に、平和を望み穏やかに生きていたい街人たちは、どう対処したらよいのだろう。
不規則に仕掛けられる不機嫌魔法に対しての対抗手段を持たねばならないなあと。それを人はスルー力や鈍感力、大人力と呼ぶのかもしれないですが、そのような魔法はどこで売ってるの、どうすれば身につくの。賢者に転職必要ですか?悟りの書どこ。ダーマ神殿どこ。備えあれば憂い無しなんは分かっちゃいるけど相手は不機嫌魔法の使い手、『巨匠』すからねぇ(大事なので2回)。
しかし、繰り返しになりますが、社会に出てみると、もともとそういうキャラなのか戦術としてそのように振舞っているのか個別性はあるにせよ、やたらこの手の方略を取って仕事してる『プチ巨匠』や、感情面に揺さぶりをかける一連の不機嫌プロトコル、それは時として理不尽な威圧にまでパワーアップすることもままあるわけですが、それらに対して『ガバナンス』やら『マネジメント』やらという名付けを行い正当化している場面などに出会う事が多くてですね。
ステークホルダー間の折衝がこのガバナンスのぶつけ合いから始まってる(ように見える)、もんのすごい不機嫌エネルギーに溢れたプロジェクトもあったりなかったり、そのような生煮えフィールドに魔法まだ覚えてないのにアサインされたりされなかったりで、やめてあげて僕らのライフはもうゼロよ状態になることもあったりなかったりなわけですが、特に直近の転職におきましては、不機嫌の交感もいずれポジティブな連帯に至るとする、カオスを好む社風になかなか馴染めないでいる自分の適応力や心の弱さ、これはもしや何かしらの人間性の欠陥なのかと思い詰めた挙句に、このままではイカン!ということで、今度きちんと異常性がないか専門の心理職に鑑定してもらおうと、心理検査まで予約していたのでありますが。
ピカソさんの方略を知るに至っては、このようなカオスを生み出す、もしくはカオスを感じてしまう・観じてしまうことの原理の一つの解釈として、無意識のうちに手練手管を繰り出す戦術家の魔法のATフィールドに巻き込まれていたのかもしれないなぁ、という貴重な気づきがあり、そんなわけで、期せずして知ったこの新書は、迷える魂において大変に参考になった次第であります。
『ご機嫌うかがい』なんて言葉があるけれど(挨拶に顔を出すというのが本来的意味ではありますが)、時として、このような心理的葛藤を生み出す見えない装置が、組織対組織やその代理たる個人対個人の関係性において、価値交換の社会的プロセスに厳然と潜んでいるわけで、立ち止まって考えてみれば、これって実はフェアじゃないというか、おかしなことだなぁというのが見えてきました。
そもそも機嫌を伺わなければいけない時点で、現代においてはパワハラ・モラハラの基準に照らして検討・判断するべきで、苦痛を感じるような状況にまで関係が悪化・劣化しているならば毅然として対処するべき常識なのであった。そしてそれが商取引やその他社会的な価値交換の場においてはコンプライアンスの名の下に光あれ!(以下略。
とにかく結論として、このようなコミュニケーション特性を持つ相手と不可避的に利害関係が生じる場合は防御策を講じて戦う必要があること、避けられるなら巻き込まれる前にさっさと撤退すること、これらにつきるのだなぁ。
あれだけの会話から「先生は生煮えを恐れてる」って見抜く小鳥ちゃんすごい。
つむぎちゃんの喧嘩の件は……どう捉えればいいんだろうな、これ。
先生が「つむぎ、ミキオくん謝ってるぞ」って言って、それを受け入れるよう促してるのがなんだか引っかかった。謝ったら受け入れなきゃいけないんだろうか。どうなんだろう、そうするべきなのかもしれないけど。よくわからない。
「粘度返そうか。たとえ誤解でも、つむぎが泥棒って言われるのは嫌だからね」っていうのも……いや、でもいいのかな。私にはよくわからない。
小鳥ちゃんが「先生、もっと頑張って聞いて。ちゃんと」って言うのはすごく印象的だった。救いだ。
(焼いた)ハンバーグと煮込みハンバーグって個人的にはまったく別物として頭の中で扱われているんだけど、彼ら的にはそうでもないのだな。「(焼いた)ハンバーグが食べたい」って言って煮込みハンバーグが出てきたら私だったら抗議しそう。
jhn
このまとめを読んで思ったことをつらつら書こうか……と思って帰ってみたら大幅に補記されてる! でも全部読み通す気力はないので(ごめん!)、とある更新部分までを読んだ段階での、生煮えのおれなりの感慨を書く。
おれもカクヨムで小説の大賞を狙って投稿した人間だ。ジャンルは「恋愛・ラブコメ」だった。
おれは結果としてカスリもしなかったようだ。でもおれは大賞を取った作品に対して、是非はクリエイティヴな「批評」として論じたいが、読まれた功績は素直に認められる。負け惜しみとか妬みとか嫉みとか、そういうものはない。
何故なら、おれは全力を出し尽くしたからだ。おれの持てる全ての力を振り絞って、作品に対して集中して書き切ったからだ。
おれもウケを狙ってショートショートを書いてみたりしたよ。カクヨムではそういうのもウケるみたいだからな。でもボロクソに言われた。
言われたことももちろんショックだったんだけれど、おれがショックだったのはそういう批判ではなく(批判する権利は誰にでもある)、その批判に応えられなかったからだ。作品がその批判に対抗出来る力を持っていないと思ったからだ。安直な動機で書いたことを見抜かれたからだ。
読者は貴重な時間を費やして読んでくれるんだ。批判もまた、その好意の裏返しだ。それに対してきちんと応えられないウケ狙いの安易な作品を書くことがどれだけ下らないことか、その時良く分かったよ。
逆に言えば、批判/否定されてもそれに応えられるだけのものとは、大賞の受賞を逃しても納得出来るだけの、自分は精一杯全てを出し尽くしたと言い切れるもののはずなんだ。おれは大賞を狙った十万字の小説に対してそれだけの情熱を注げた。それは断言出来る。
おれは読んでないからなんとも言えないが、イスカリオテの湯葉さんの作品もきっとそれだけのありったけの力を振り絞って書いた作品なんだろう。だから読まれるだけの力があるんだろうな。それは結局実力の差、あるいは時の運、その他諸々が絡み合って出された当然の帰結なんだ。
おれは『カッコーの巣の上で』という映画が好きだ。あの映画で、閉鎖的な病院から抜け出すべく水飲み場の台を持ち上げて窓ガラスを壊そうとするマクマーフィという男が登場する。そいつは結局その水飲み場の台を持ちあげられない。でも、最後にひと言言うんだ。「でも努力はしたぜ/チャレンジした」と。
おれの今の心境も同じだよ。おれは努力した。全力を振り絞って書いた。なけなしの力を、これ以上ないというほど、血を吐くような思いで書き切った。だから、落選したが、ボロクソにも言われたが、不思議と傷はついてない。むしろ爽やかな気分だよ。やり切った、って充実感/達成感がプライドとして守ってくれるからな。
おれは努力した。燃え尽きたよ。これからまた小説を書くのかどうかは分からないが、おれはカクヨムという場は好きだ。だから撤退はしない。
っていうことを書こうと思って(そういう部分だけ読んだんだよ!)家に帰ったら、なんか怒りをこじらせた挙句の果てにご覧の有様だよ! でもここまで考えたことをムダにはしたくないので、敢えて増田で書き捨てる。ごめんな!
もう何度目だメシマズ話。
うちの姉は子供の頃から味のない食を好んだ。刺し身に醤油はつけないしうどんは麺だけ食うし、こんにゃくもゆがいただけでいいらしい。そんなだからとにかく食に興味がない。寮生活をしている間に何故かジャンクなものは覚えて帰ってきたが、基本食事作りは面倒な用で盛り付けもしないし、常に茶色いぐっちゃぐちゃのものを鍋のまま出す(そのまま食卓に出すタイプの鍋でもないのに)
母親は特にメシマズではない。母方の祖母は本土と違う味付けの料理をしていたが、六十過ぎて料理教室似通ってから素晴らしくメシウマになった。母方家系は味覚が鋭いほうだと思うし自分はそれに輪をかけて味にうるさいタイプである。
父親もその世代にしてはわりと料理好きで普通にうまいものを作る。父方の祖母は味付けが塩だけのメシマズかつ殺人マシーンなので、姉の味覚異常はこの辺りから来ているのかもしれない。
そんな姉だったが、結婚した相手の母親つまり姑がそれに輪をかけたメシマズだったらしい。姉の場合レシピ通りには一応作れる(レシピないと味が崩壊するが、あれば忠実にその通り作る。ただし野菜切るのとかはいい加減なので生煮えでもごりごりでもきにしないし、書いてなかったらアクはとらない)が、姑は創作系メシマズでレシピ通りに作れないタイプなようだ。
姉の夫は姉の料理を食べえて感動したらしい。お前どんだけハードル低いんだよと同情するが、もう絶賛褒めちぎり、時には涙するらしいのだ。
それがいい方向に働いたのか、姉は少し食に興味をもつようになったし、食卓の彩りも考えるようになってメシウマとはいかないものの普通程度になった。あまりにも強烈なメシマズを見てこれはいかんとおもったらしい。