「和算」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 和算とは

2024-03-25

昔の日本ではハート形を何と呼んでいたのだろう

気になるねえ

何故気になったのか

昨晩の鉄腕DASH自然薯を掘っているのを見たか

自然薯を探すときはまず特徴的なハート形の葉を探すとよい」のような説明がされることがままある

ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい

調べましょうね

とりあえず「ハート 昔 日本」でぐぐってみるか……

なるほど、西洋からいわゆる「ハート概念が伝来する以前から土器織物ハート形の文様存在する、と

神社仏閣など建築物には「猪目」と呼ばれるハート形の意匠が施されている、と

なるほどねえ

じゃあ昔の日本自然薯を探すときは「猪目型の葉っぱを探すとよい」と説明されていたのだろうなぁ~

……とはならない

西洋ハート伝来以前から猪目と呼ばれるハート形の文様存在した」イコール自然薯など芋系のハート形の葉っぱを当時の人は猪目のような形の葉っぱと呼んでいた」とはならない

芋掘りする農民が「猪目」というある種の専門用語日常的に使用するか?という点を疑う

農民が子を連れて山に入り、山芋の探し方を教える時に「山芋はこういう形の葉っぱだ」と伝える時、その葉の形をどういう形と表現するか?

勘だけど逆なんだろうな

すなわちハート形を「芋の葉のような形」と呼んでいたのではないか……という勘

その場合

ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい

の問いの答えは「自然薯山芋の葉のような形はそのまま『芋の葉のような形』と呼んでいた」ことになる

農民が子に山芋の探し方を教える時も、山芋の葉の形を何かに例えたりせず「こういう葉っぱの形は芋の葉の形だ」と表現する……?

さて、この勘由来の仮説を検証するにはどんな文献を探せばいいのか

とりあえず昔の植物図鑑記述を探してみるか?

いろいろぐぐってみるか

……「大和いも」のwikipediaのページの記述

大和いも - Wikipedia

1911年明治44年)、奈良県農事試験場(現農業研究開発センター)がツクネイモの品種試験を開始した。黒皮ツクネの特徴として「所謂大和薯にして本県の原産なり 蔓褐色にして太く葉は広き心臓形にして葉肉厚く濃緑なり 草勢強壮にして本県の風土に能く適正す 塊根は球状にして豊肥凹凸なく外皮粗厚にして小亀裂をなして亀甲形の斑点をなす 肉質純白水分少なく粘気強くして品質頗る佳良 料理菓子蒲鉾用等に用途広く四ヶ年平均反当収量六百三十二貫四百匁(2.37t)にして種薯に対する生産割合は約八倍に達し供試各品種第二位にありと雖も其価格高きが故に経済上は寧ろ第一位を占む 該薯は零余子(むかご)は頗る小にして二ヶ年間栽培せざれば種薯に供養し難し[9]」と記録されている。

20世紀初頭時点で「心臓形」という表現が使われている

キリスト教伝来から300年以上経過しているかハート形という概念が浸透していても不思議じゃない

キリスト教伝来以前の記述を探したいところだが……

いや、リンネ分類学著作日本に伝来した時期あたりも調べる価値があるか?

西洋植物図鑑で「heart-shaped」のような説明がされているのが翻訳されたことで明治期に一般に普及の可能性……

『日葡辞書』になんか自然薯記述とかないかなあ……いや、あったとしてもポルトガル目線記述から意味いか……

江戸時代アサガオ流行したようだ

園芸アサガオの葉っぱの形で「芋葉」と呼ばれる変異パターンがあるようだ

この呼称江戸時代からあったかどうか?

もし当時からそう呼ばれていたとすれば傍証にはなるか……?

時間切れ、また夜に調べるか……

しかハート形の葉っぱなんて芋に限った話じゃない

例えば徳川家三つ葉葵紋とかもハートの形しているし

三つ葉葵紋は西洋人にハート形と誤解されたみたいな逸話をどこかで読んだような……

いも限定で探すのは筋が悪いかもしれない、再考すること

これは日記です

---

追加で調べたメモ書きを追記しましょうね

葉身 - Wikipedia

Wikipediaの「葉身」の「葉の概形を表す用語」を見ると興味深い

自然薯や葵のような葉は「心臓形(cordate)」と分類されている

その一方でカタバミのような葉は「倒心臓形(obcordate)」と分類されている

へえ……カタバミの方が逆位置扱いなんだ?

きっと西洋メジャーハート形の葉が葵みたいなタイプで、後からマイナーな側に倒心臓形と名付けられた、みたいな流れがあるのだろう

ヨーロッパメジャーハート形の葉っぱの植物……西洋菩提樹とかかなあ

知らんけど~

おそらく現代人の葉っぱの形に対する分解能が昔と比べて落ちている

色の分解能が上がって青と緑が別々になった現象の逆

葵の葉の形と芋の葉の形を現代人は一括りにハート形としてしまうが、昔の人は正しくそれぞれ「葵の葉のような形」「芋の葉のような形」と認識していた可能性がある

ゆえに、「ハート形」に類する形を指す言葉不要だった……とか

その場合

ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい

に対する回答は「ハート形より細分化されたそれぞれの植物の葉の形に例えられた表現で呼ばれていた。芋の葉は芋の葉のような形と呼ぶほかないし、葵の葉は葵の葉のような形と呼ぶ。」

となる

本当に?ちょっと怪しい理屈な気がする

そもそも葉っぱ以外でハート形をしたモノが例えば江戸時代にどれだけあったというのか、という話がある(桃とか……しかし葉っぱを指すときに「桃の形の葉っぱ」とは言わんやろ、たぶん)

市松模様とか唐草模様とか、古くからある文様でいわゆるハート柄っぽく見えるものはないっぽいしなあ……一応「猪目文」があるのか

それこそ数少ない葉っぱ以外のモチーフハート形が現れたときそれを「猪目」と呼んでいたのではないか

検証できるかどうか

うーんどうだろう、例えばこういう攻め方はどうか

本草学」という昔の日本学問ジャンルがある

博物学医学薬学中間みたいなジャンルという認識なのだが、植物の葉の形で分類するみたいなことをやっていたらしい

そういう文献にはきっとハート形の葉の説明文章があるはず

ただなぁ~、学者先生が使う言葉認識と、市井の人々の使う言葉認識って別だろうからな……

自分が欲しい情報じゃないかもな

とりあえず1759年ごろに書かれた『花彙』という名の植物図鑑国会図書館デジタルコレクションで読んでみよう

---

ああそうだ、江戸時代には和算というものがあった

面積を求める和算問題で、ハート形の図形の面積を求めよ……みたいな問題あるかもな

もしあったなら「〇〇に似たこの図形の~」みたいな記述があるかも

一応調べること

→軽く調べてみたが無さそう……こち方面調査頓挫

---

調査がとっちらかったので自分の関心の向き先を言語化しておこう

■メインクエス

・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題

■サブクエスト

・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様使用例、またその呼称調査

幕末明治期の文献からハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査

調べがいがありそうなテーマだし、焦らずゆっくり調べていこう

---

メモ

こういう調べものをしていると古辞書に何と書かれているか確認したいというシーンがしばしばある

インターネット上で閲覧できる古辞書を調べる事

また、現代語訳された古辞書書籍として売ってあるなら購入も検討すること

辞書で「猪目」をひいて何と書かれてあるかを確認したい

辞書辞典であるならば形の説明文章でしている可能性がある

また、もしも辞書に「猪目」が載っていないなら当時の一般的な語彙の中に「猪目」が含まれていないとみなすことが出来るかもしれない

ここまでの調べものは「猪目は確かに日本古来から存在するハート形の模様だけど、昔の日本の多くの人は猪目って単語を知らないのではないか」という話が前提にあるので、その裏取りにもなる

神社仏閣に猪目模様があって、その模様があると知っている人でも、その模様の名前を知っているかどうかは完全に別

例えば……コンクリートブロック塀の松みたいな模様の穴が開いたブロック、あれの名前を知っている現代人は少ないのではないか

似たような構造があることを疑っている←この例は適切ではない……「身近にある模様でも名前を知らないものはある」という意図で例示したが、……上手く言語化できないな、後で再考する バックスペースを押さないことがアウトプットやすくなるコツみたいな文章を何かで読んだ

トランプハート柄が「猪目柄」と呼ばれないという傍証はあるんだけどな……→昔の日本人でも猪目という単語を知っている人は少ない説

それはそれとして、そろそろくずし字を読めるようにならないと調べものが滞る……教材を探して勉強してみるか

---

■メインクエス

・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題

→率直に「芋の葉の形」と何にも例えず呼んでいた、あるいは「芋の葉に似た植物の葉の形」を例に挙げて説明していた……と思われる

直接的な物証発見できず

しかし古い植物図鑑を見ていると、例えばサツマイモの葉の説明をするときに「葉は朝顔に似る」のように別の植物で例える記述が多くみられた

(余談だがアサガオヒルガオ科サツマイモ属なので葉が似ているのは納得、リンネ階層分類体系は偉大っすなあ)

であれば別の植物の葉の形で例えるのがまあ自然か……

■サブクエスト

・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様使用例、またその呼称調査

→これは猪目、家紋で描かれるカタバミや葵あたりが該当

芋って家紋モチーフにないんだなあ、考えてみるとちょっと意外(芋桐紋とかあるけど、これは芋ではなく桐モチーフと呼ぶべきだろう)

♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称という意味では、そのような概念存在しない……か?

猪目が一応それではあるんだけど、市井の人々に広く知られた概念ではなかった(これも証拠なし)

からこそ芋や葵の葉も「♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称」で形を例えられないということになる

幕末明治期の文献からハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査

→ https://web.archive.org/web/20181002182121/nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/261341.html

トラバ言及いたここに詳しい(情報提供感謝

調査がひと段落したのでクローズ

2024-02-13

日本企業が同じ分野で無駄に多い理由

ΝΑΠΠΑさん(https://twitter.com/nappasan)のツイートがバズってて思ったんだけどさ

https://twitter.com/nappasan/status/1754181315308683361

日本マニアって自分知識コレクションあくま個人レベルで抱えて、他人から教えを乞われたら「これだけは教えてやるから後は自分精進しな」というスパルタ師弟関係みたいな話になりがちなんですが

欧米マニアってビシバシ情報公開して多数の人間資本を引き込むことで自分自身の利益にも繋げようというスタンスの人が多いから、全く違う速度と規模感でモリモリと物事が進んでいくし、こういう気質スタンスの差を見ているとそりゃソフトウェア開発の世界でも差が開くよなと思ったりします。

個人での精進努力切磋琢磨という美徳に縛られすぎて他人とのノウハウ共有や標準化による利益の創出という観点が欠如してる人が多いんじゃないですかね。そういうところが企業社員教育のやり方なんかにも表れているし、社会全体を非効率にしている一つの大きな根源なのでは。

私は子供の頃から「見て盗め」ってやつが物凄く嫌いだし、教えを乞われると偉そうにする人も嫌いなのである

学問にもこういう姿勢の違いが表れてると思うんですよね。和算なんかは独自にかなり高レベルなところまで達していたようだけど、結局は格闘術のごとく「流派」に落とし込まれて、論文査読や公開による理論証明という現代科学世界には至れなかったわけで。

から企業無駄に多いんだな

同じようなことをやってる会社がいくつもあるし集約もしない

日本って家電メーカーも、自動車メーカーも、事務機器メーカーも多いんだよな

造船メーカーも多い

つの国が抱えるメーカー数として異常

スーパーも多いって聞いたことある

ドラッグストアも多い


流派だと考えるとそうだなって思う

結果生産性が上がらないんだな

2024-02-06

日本マニアって自分知識コレクションあくま個人レベルで抱えてるだけ

ΝΑΠΠΑさん(https://twitter.com/nappasan)のツイートが興味深かったのでまとめる


https://twitter.com/nappasan/status/1754181315308683361

日本マニアって自分知識コレクションあくま個人レベルで抱えて、他人から教えを乞われたら「これだけは教えてやるから後は自分精進しな」というスパルタ師弟関係みたいな話になりがちなんですが

欧米マニアってビシバシ情報公開して多数の人間資本を引き込むことで自分自身の利益にも繋げようというスタンスの人が多いから、全く違う速度と規模感でモリモリと物事が進んでいくし、こういう気質スタンスの差を見ているとそりゃソフトウェア開発の世界でも差が開くよなと思ったりします。

個人での精進努力切磋琢磨という美徳に縛られすぎて他人とのノウハウ共有や標準化による利益の創出という観点が欠如してる人が多いんじゃないですかね。そういうところが企業社員教育のやり方なんかにも表れているし、社会全体を非効率にしている一つの大きな根源なのでは。

私は子供の頃から「見て盗め」ってやつが物凄く嫌いだし、教えを乞われると偉そうにする人も嫌いなのである

学問にもこういう姿勢の違いが表れてると思うんですよね。和算なんかは独自にかなり高レベルなところまで達していたようだけど、結局は格闘術のごとく「流派」に落とし込まれて、論文査読や公開による理論証明という現代科学世界には至れなかったわけで。


まとめ終わり


ゲーム産業がそうで90年代くらいまでは日本世界TOPゲーム大国だったのは間違いないんだけど

でもあのころからすでに開発ツールとか、いろいろな周辺機材、そしてゲーム開発者コミュニティーの活発さであきらかに後れていた

ゲーム開発者交流会議であるGDC1988年に始まったが、日本のSEDECは1999年11年遅れだし

なんで日本ゲーム会社って自社のゲームエンジンを公開しないんだろうって思うし

GOGとかSteamとかEpicみたいにオープンプラットフォームを構築するのは欧米だし

90年代ネットにあった個人開発フリーソフトレベルだと、日本開発者もそれなりに多かったイメージなんだけど

そこからビジネスという話になっていくと急に日本しりすぼんでいった

2023-08-16

直雨

時間って打ちたかったけどタイプミスで出てきた答え

ググると「梅園直雨」という江戸時代後期の和算家が出てきた

直雨という言葉自体はなさそうだ

しかし変換ボタンでとりあえずなにか出してくるあたり文字変換って体育会系なのかも

2023-01-08

anond:20230108155913

小学生の時、先生が「算数が苦手な人は国語が得意なことが多い」と言っていた

文章題に関してだが、実際「何言ってんだお前(言葉足らずなんだよ)」って問題がちょくちょくあって引っかかるのだ

言い回しも変だし

更に、粘着質の文系としては増田が言うところの「どうしてその公式になるのか(こっちが理解するまで)教えて欲しい」という気持ちは確かにある

つーか、普通に説明されるよね。授業で。説明なしにこの公式覚えろなんて教え方されなかったけど

で、理屈が分かって覚えたところで結局素養が無いか和算数学も苦手なままなんよ

あんなもんを得意とする奴は、何も考えなくても答えが浮かんできちゃうBorn To Be 理系しかない

文系粛々と暗記しまくって深くは考えずに解けるものを解くしかない(その際、問題文の奇妙さにかかずらってはならない)

2022-07-19

AIが祀られる場合

AI計算から数学を祀ることになるのか

和算みたいに奉納されるんだろうか

2022-01-17

anond:20220117134325

「学びたいこと」が古代バビロニア語だったり江戸時代流行った和算だったりする人もおるんやで

2020-09-16

和算政府幕府によって取り潰されたとうろ覚えしてたが

流派が秘伝を隠して公開しなかった背景が大きいとか。

日本的理由すぎる。

2019-06-17

anond:20190617133548

じゃあなにかいマジでバカ決定戦のデモなのかいありゃ

踊る阿呆に見る阿呆とは言うけど、算数もできない阿呆じゃ和算流行った江戸時代民衆以下やぞ

ああそうかバカじゃなくて、小学生一億人いるのか日本は。

そりゃロリコン多くてもしかたねえわ、どうりで増田も幼稚なのが多いわけだ

2018-05-10

anond:20180510032610

現代の娯楽として残っている時点で伝わってる方なんじゃないの?

江戸時代和算古代ローマの闘技会とか、娯楽としてはほぼ消えたジャンルもいろいろありそう

2015-06-22

クラスタの繋がりはキチガイ抑制には繋がらない

福島の現状について非常識なことばかり言う人の中に、特定の何某を趣味にしてる人がいるとたまに

「周りもこいつをいい加減何とかしないと、その趣味に興じてる人全体がそんな奴だって思われるぞ」

みたいなご意見を見かけることがある。

確かにその通りだよねーっと思うし自分もそういう人にはいい加減にしてほしいと思ってるんだけど、

じゃあ何かたしなめる意見そいつに言えるかっていうとまあ無理。ごめんなさい無理。

趣味で人が集まる時って大抵その手の話はタブーで踏み込まないし、そんな相手に直接言ったらこっちが何されるかわかんないし。

その手の変態って声がでかい人が多いから自分のことをどこで何て言われるかもわからない。

もし相手が趣味の集まりキチガイ発言をしてくれれば追い出せるかって言うとそうでもなくて、

高々タブーに触れたくらいのことだから周囲の人が少し距離を置くようになるだけ。

まあやり過ぎれば多少は問題視されるだろうけど、あくまで敵失に頼ってるだけだし、

たしなめる人がいたとしてもそれで少し収まるかと言えばそんなことも無い。

それくらい柔軟性がありゃ最初からキチガイになんかならない。

あと、この手の人って往々にして趣味とか学歴の類を「理知的自分」を印象付けるための飾りにしちゃってることがあって、

飾りだから趣味会合とかにも殆ど顔を出さずそもそも直接会うこと自体難しい。

Twitterなんかやってると割とマトモそうな学者フォローしてたりもするんだけど、あくまで飾りだからそういう人のツイートとかたぶん読んでない。

以前自分と同じ趣味で、福島じゃ放射能で大量に人が死んでるけど隠ぺいされてるみたいなことばかり呟いてた人が

http://togetter.com/li/837471

この和算科学史に詳しい学者さんをフォローしてて、

少しはマトモになるのかなと期待してたけどここ5年間で大して変わってない。

科学史っていろんなジャンルの人が見るしなんか賢い感じもするし、

本業の人は座学だけじゃ厳しいだろうけど既存の知識をそのまま披露するだけの知った風なことを言う素人にとっては飾りに使うのに持ってこいな感じ。

あ、科学史やそれに注目する人がそういうのを飾りに使ってるという意味じゃなくて、これも一部の変な人の話ね。話がずれたけど。

2013-08-04

スポーツ武道

武道をする人たちは、スポーツより武道が上、という意識が強いように思う。

とくに精神性の面で、武道スポーツよりも上だと思っているようで痛い。

今日でいうところの武道というのは、ぶっちゃけしまうと、明治時代からだ。

加納五郎が、それまでの武術としての柔術を、柔道昇華させた。

そのもとになったのは、スポーツ精神である

ルールの中で、技を磨きあう。

そのことで、遊戯性をもたせ、スポーツを通じて、身体の健康と、人格形成を行う。

殺人術、護身術が、本来の目的から離れて、スポーツになったことは、堕落なんかではない。

本来の目的から離れて、遊びに昇華しなかったら、和算微分法や行列式発明しなかった。

それによって精神性が失われたというのも、誤解はなはだしい。

ある人は、「人生で大切なものはみんなサッカーから教わった」

ある人は「人生で大切なものはみんなテレビゲームから教わった」

と言う。

武道がそれ以上に、優れた精神性があるというのか。

追記

調べれば調べるほど、加納五郎はマジすげーわ。

柔道の父というだけじゃなく、スポーツっていう概念もなかった日本で、こんだけのことをやれば、そりゃ初代IOC委員にもなるって。

2010-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20100717125149

十年前の遺物みたいな主張だねー。

まず「読み書き」だが、日本語母語である以上英語の読み書きを日本語のそれに優先させることはほとんど無理だよ。そもそも「読み書き能力」の大部分は言語依存な部分にあるわけで、それは母語で訓練する方が効率的。たとえば俺は英語ネイティブの5歳のガキよりも圧倒的に、英字新聞を深く読んで理解し、それについて文章を書いて論じるなんてことができるが、その能力日本語で培ったものだ。それができた上で英語をやってもよいが、それはまあ江戸時代公文書のかなりの部分が漢文だったことを考えれば、当時の漢文能力に相当するもんだね。つまり漢文英語が必要なのは当時や現在エリートに限られることはかわりがない。

次に「論理的思考力」だが、これが不要だった時代などどこにもない。むしろ「現代ではロジカルシンキング(笑)が重要(キリッ」とか言っている奴の大半は、そんなことすらわかっていないという馬鹿さ加減を晒しているだけだ。

最後に数学知識を「コンピュータ」に入れるのは乱暴すぎる。世の中の「エンジニア(笑)」(技術者という意味ではなくてデモシカSEプログラマが使う自称という意味で)の大半は三角関数すら理解できない癖にそれで何とか勤まってしまっている。所詮はそんなものだ。現代の「そろばん」といえばExcelのような表計算ソフトということになろうが、「偏差値」を「戦闘力」かなんかと勘違いして「私の偏差値は53です」とか母集団を挙げずに使っている馬鹿でもExcelを使って統計処理とかやってしまっている。

「現代」なんてその程度の時代だ。武士官僚漢文オランダ語仕事をし、和算家が微積分や行列式発見していた江戸時代に比べて一般庶民に要求される「読み書きそろばん能力が格段に上がったなんてことは全然ないんだよ。

2009-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20090515115428

e^(ix) = cos(x) + i sin(x)

これの証明したらいいじゃん。

うん。そこまでの証明は追った。この時点で既にむずむずするが誤りは発見できなかった。で,更にxにπを代入すると気持ち悪さがロケットで突き抜ける。

数学を推論ゲームでなく世界の射影としてとらえようとしている

これの意味がわからないので解説してほしい。

われわれ(と複数人称を使うことを許して欲しい)が数学に初めて触れるとき,そこに示されている記号は現実と対応するものとして把握されるでしょう。2はりんご2個,和算は合計,負数は借金の額などなど。だんだん抽象度が高まっていっても,現実世界とどこかで対応していることを期待してしまう。虚数のように一見ありえないような概念であっても,それが例えば電磁気学使用されているさまを見ると安心する。数学現実世界モデル化したものであり,数学で真と証明されたことは現実においても真となる。そういう素朴な期待がある。

でも現代的な解釈はそうじゃないらしい。正当と仮定された公準から,正当と仮定された推論規則にのっとった操作を有限回数くりかえすことで,任意の命題真理値を導出するゲーム。別にこの公準現実世界と対応している必要はないし,推論規則も常識と一致する必要はない。もちろんゲームとしての出来の良し悪しはある。ある命題について真と偽の両方を導出できてしまうことを許すような公準・推論規則は矛盾をはらむ「悪いゲーム」だし,多くの命題について真とも偽とも導出できないようなゲームはつまらない。われわれのもつ数学もこうしたゲームのひとつで,わりと現実に似せて公準と推論規則を定めてはあるが,常に現実と対応することを保証するものではない。ゲーム品質についても実は無保証で,矛盾があるかもしれないし証明不可能な命題をもっているかもしれない(とゲーデルが言ってる)。

私に与えられた公準と推論規則からオイラーの公式が真と証明できた。よろしい。でもその公式が現実世界の何ごとかを示しているものと信じて対応づけを探すことには根拠がない。どうの剣とかわの盾を使ってスライムベスを倒せたというのと同じ。ただ上に述べたように私は素朴な信仰を捨てきれないので,対応づけを求めてむずむず感がとまらないのであるなあと。理系マジヤバイ。

2007-10-20

√10

http://anond.hatelabo.jp/20071020143850

和算の一部はπを√10に置き換えて計算してなかったっけ?

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん