はてなキーワード: サイコロとは
実際にはENTPという文字列が何を言い表しているのかというのは置いといて、ENTPと評価された人間はサイコロ降るよりは高い頻度でENTPと評価されるんだからブラックボックスでもなんかの再現性のある対応はあるってことで、対応がある限り科学になりうる余地はあるでしょ。
横から突っ込んじゃうとそもそもENTPなんていう分類そのものの存在を疑わないのは何で?
意思決定の傾向は診断結果に相関するかというとそうではなく、実際には外的要因のほうが強く作用しそうじゃない?
※てか実際そんな研究結果をどっかで見た。p値が0.03とかだったと思うからマジで相関関係がない。ソースを忘れたので嘘かもしれない。
統計的にもパーソナリティ診断って眉唾どころか外的要因のほうが強く作用するならパーソナリティという存在そのものが眉唾という話。
実際にはENTPという文字列が何を言い表しているのかというのは置いといて、ENTPと評価された人間はサイコロ降るよりは高い頻度でENTPと評価されるんだからブラックボックスでもなんかの再現性のある対応はあるってことで、対応がある限り科学になりうる余地はあるでしょ。
世間で疑似科学と見做されてないような精神医学の領域からタイプ診断をうまく切断処理できるような理屈があるなら今度から俺がそれ振り回すから聞きたいんですけど
「サイコロコロコロと質的に同じ」という言明の強さを軽くみすぎじゃないのか。"質的"にだぞ?
俺は「サイコロコロコロ」というのは適当な誰かについてそいつの性格から血液型を予測することが、(血液型の頻度統計に従って重みづけされた)サイコロを振る以上に的中率を一パーセントも上げないという意味で言ってる
と言っても
何か手の凝った研究家を気取るお味噌汁研究家を名乗るつもりなほど凝った作りのお味噌汁ではなく、
木綿豆腐が好きなので木綿豆腐をサイコロ状に切って作るやつよ。
そうだと
上部から切った箇所を身ってサイの目になったつもりでも
正方形の形に切ろうとすると
1回まな板の上に豆腐をのせて横から包丁の技を決める!ってやると
横着したらダメね!って思った反面、
これを豆腐のパックのまま入った状態ででも正方形なサイコロの形の切り方ができる包丁の使い方を編み出したら凄いかも!と思いつつ、
超簡単じゃない?
結構1日ぐらいじゃ腐らない傷まないってこと。
あんまりこれは私が経験した感じを話しているので手放しで真似してお腹壊したらしんないからね!って思うんだけど
1日置くぐらいでも平気みたい。
これが夏場の鍋だとすぐに昼間気温が高くなるから腐っちゃうのよね。
劇的に1日で腐っちゃう鍋。
たしかに鍋のベーナーの美味しいスープのルーシーにはまだ味付けがなされていないわけじゃない。
となるってーと
その味付けの仮に塩分として
簡単な私の推測がペキカンなお味噌汁の味に仕上がったと同時にピントきたの!
なるほどねー!って
だから夏場の料理のこう言うのはわりと敬遠していたんだけど作るのをね、
でも1日ぐらいなら2日に分けてだいたい食べ切りサイズのピッタリで作るジャストミートって
肉は入っていないけれど、
これを豚肉を入れたら豚汁にクラスチェンジできるくね?って思うの。
いろいろとまたお味噌汁の変形のアイデアはそれしか思い付かないけど、
鱈とか白身魚安いいいのがあったら、
お味噌汁作りが捗って
一石二鳥いやいや一石二碗ってところが憎いところね。
要はお味噌汁1回作ったら2回食べられるってことよ!
頭良いでしょ!?
具もなににするか考えるのも楽しいけれど
ただ野菜を切り刻むのが面倒だなって思うの。
そのついでにお野菜も切っちゃ言えばよくね?って
うふふ。
モヤシとキャベツのお味噌汁もちろんお豆腐も欠かせないそのお味噌汁ね。
作って置いておけるからまあ便利ね。
すぐに食べきらないといけないところもあるけれど、
ちょっとお腹の小腹が空いたときにお味噌汁食べて落ち着きなよ!って言ってみたいじゃない。
それそれ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
神はサイコロを振るだけでなく、想像をはるかに超える数の部屋があるかもしれない。実際、無限にある。
約1世紀にわたり、量子力学の旗の下にある理論と観測によって、現実の理解は複雑になってきた。
物体が速度や位置といった絶対的な尺度を持っていた時代は終わった。
これは直感的な宇宙観とは程遠い。コペンハーゲン解釈として知られるようになったものでは、可能性の波があるように見えるがそうではない。
現在でも何が最終的にシュレーディンガーの猫の運命を決めるのかはまったく明らかではない。
ヒュー・エヴェレットは1950年代に、可能性のあるすべての手段がそれ自身の現実を構成していることを示唆した。
この現象を特別なものにしているのは、たまたまあなたがそれを観察しているという事実にすぎない。
エヴェレットの「多世界」モデルは、量子力学の絶対的な奇妙さを具体的なものに置き換える方法である。
可能性のある無限の多元宇宙、あるいはグローバル・ハミルトニアンとして知られるすべてのエネルギーと位置の総和のようなものから出発し、興味のあるものにズームインして、有限ではるかに管理しやすいハミルトニアンのサブシステムの中で無限を制約する。
しかし無限を理解する手段として、この「ズームイン」は足を引っ張ることになりはしないだろうか?
別の言い方をすれば、シュレーディンガーの猫が箱の中で生きているのか死んでいるのかを容易に尋ねるかもしれないが、その下のテーブルが温かいのか冷たいのか、箱が臭くなり始めているのかどうかは考えない。
研究者たちは、箱の中身に注目し続ける傾向が重要かどうかを判断するために、ポインター状態として知られる量子の可能性が、他の状態よりも少し頑固に設定され、いくつかの重要な性質がエンタングルするかどうかを検討するアルゴリズムを開発した。
もしそうならシュレーディンガーの猫を説明する箱は、宇宙のはるか彼方に広がる可能性のある長い要因のリストを考慮しない限り、ある程度不完全である。
エヴェレットの多世界から出発して、研究チームは多世界解釈と呼ぶものを考え出した。無限の可能性のセットを取り出して、我々が通常考えないような現実の無限の範囲を掛け合わせるのだ。
オリジナルの解釈と同様、この斬新な解釈は、宇宙の振る舞いについてというよりは、宇宙を一口ずつ研究しようとする我々の試みについてのものである。
研究者たちは、このアルゴリズムに概念的な重要性はあまりないと強調しているが、コンピューター内部のような量子システムをプローブする優れた方法を開発する上で応用できるのではないかと考えている。
他の現実に、すでにその答えがあることは間違いない。
昔、楚の国に珥(みみわ・みみかざり)の暇*1、に骰(サイコロ)を投げ込み、骰が耳輪に嵌まり込むことを楽しむ者がいた。
噂を聞きつけた楚の荘王は配下の伍挙を遣わせ、その者になぜそれが楽しいのか? 何かのまじないなのか? と問うた。
その者が答えていわく「まじないでもなんでもない。ただ耳輪の合間に骰が嵌るのが楽しいのであり、その理由こそが理由だ」と。
伍挙は呆れて帰りこのことを荘王に告げ、王はそれ以上その者について問うことはなかった。
ここから、価値のないものに価値をひたすらに見出すことを「珥暇に骰を禎す(禎珥暇骰)」と呼ぶようになった。
注1
従来この「暇」字を解釈し、耳輪の円環のうち、耳に掛ける隙間の部分を指すと考えられてきた(高誘『淮南鴻烈解』など)。
金谷治氏は、古来よりのこの解釈を肯定しながらも、「暇」字で耳輪の間隙を示すことにはやや不自然さがあると指摘した。
また当時の耳輪とサイコロとの実際の形態を考慮に加え、「暇」字は何か他の文字、例えば「瑕」や「緞」など他の字の誤字である可能性について自説を論じた。
近年『淮南子』の古い写本が前漢代の墳墓から発見された。そこでは「暇」字は「緞」とあり、金谷氏の推測を裏付ける結果が出ている。
この場合、耳輪の下に絹布が敷かれた状態が、例えば擲銭のような易のまじないをする際のしつらいに似て、いかにも呪術的な様相を持つといったニュアンスになる。
こうしたしつらいをしているにもかかわらず、問われた男はそこになんの意味を見出さず、ただ投げて楽しんでいるのだ、と答える。
サイコロを振るのを辞めるな
そうか?
高校までの勉強ってスポーツと同じで、努力が比例して反映されるから、スポーツほどでないけど他人の評価は高かったと自分でも思うけど…
モテにつながらないとしても、努力に結果が比例することは、つまること努力が評価されるわけだから、自己肯定感にもつながりやすいんだけど、
社会に出てから理不尽なことが連続すると、一気にその自己肯定感は崩壊するんだよね
社内政治的なものが圧倒的に勝利してしまったりすると、もう努力には無力感しかない
それでも女性とか、異性とか、周囲とかは結果でジャッジしてくるわけで、もうどうすればいいのか分からなくなる
ギャンブルとか嫌いだしやらないけど、氷河期でこの年齢になると人生逆転することはもう不可能なので、ギャンブルにハマる人の気持ちがちょっと分かるような気がしてる
理不尽に勝てるのはサイコロみたいな考えになるの、分る気がする
宝くじとか買う奴は馬鹿だと思うし、今の今になっても宝くじなんて買わないけど、自己投資とか努力を放棄して買う人の気持ちが今は分かる気がする