はてなキーワード: 首吊りとは
最近、飛び込みや車が電車に衝突したり、雑踏事故や丸焼きエビせんべいをYouTubeで見かける。
古代エジプトでは、10m級の石が両側から徐々に迫り圧死するJST道具があった。この時代では紐や高いところに吊るす技術はないため首吊りの概念を獲得していなかった。
首吊りは息ができないため、苦しいのは想像できるが、圧死は経験したことがないため苦しくないのかもしれない。痛いとかあるのだろうか
JSTしようとする人を助けるのは、本当に人助けなのだろうか?なぜこのような思考に至ったのか。人を幸せにしたいから助けるなら、この世にいない方が幸せな人もいるのだろう。
JSTを阻止することは、状況によってはその人の幸せを阻害してるようにしか見えない。しかし、状況によってといったのは、そこに愛があれば助ける人もいるかもしれないということだ。
愛とはなんだろう...
一度目は、大学の後輩でありおそらく大学生時期に一番仲良くしていた親友。僕は大学を出てからも大学の近辺に住んでいて、彼はそろそろ院卒の論文を提出する頃だった。
共通の友人と一緒に部屋に踏み込むと、自室の筋トレ器具を使って首を吊っていた。
そこから葬式が終わるまでの記憶はとても曖昧だ。110番と119番のどっちが救急車を呼べるのか分からなくなったこと、彼のケータイから両親の電話番号を調べて連絡するのに手こずったこと、警察官から何度も話を聞かれたこと、結婚が決まっていた彼の恋人が動転して僕を殴ったことなどを断片的に覚えている。ただ、時系列に並べようとすると分からないことが多い。それに、思い返すと今でも涙が出てくる。
どうやら彼は院論で行き詰まり、思い詰めてしまったらしかった。遺書などが残されていなかったので実際何が動機なのかは分からないが、状況からしてそうなのだろう。彼は就職も決まってたし、綺麗な恋人と婚約もしていた。彼の自殺から20年ほどが経過したが、今もまだ彼が元気で人懐っこい笑顔でメシをたかってきた頃のことを夢に見る。
二度目は、職場の同僚。職場では皆から毛嫌いされていた。僕も彼のことが嫌いだった。彼はよく嘘をつき、トラブルを起こしていた。業務連絡のためにメールアドレスを交換した相手に怪文書を送りつけて騒ぎになったことは一度や二度ではない。退勤時に家までつけられそうになったという女性もいた。彼は一度クビになりかけて、クビを回避する条件として「同僚のプライベートに関わる雑談を一切しない・退勤は他のスタッフと三十分時間を遅らせる・職場以外で同僚を見かけても後を追わない・同僚のプライベートに関するメモを破棄する」という誓約書を書かされていた。
ある日僕が夜勤に出ると、彼と一緒に日勤で出ていた女性の同僚から「彼がトイレに行くと言って離席したきり一時間くらい戻って来ない」と言われ、職場を探すとロッカールームでクビを吊っていた。僕は「うわ、コイツやりやがった」と思い、上長に連絡を入れ、警察を呼んだり救急車の手配をした。ずっと「キモいな」「迷惑だな」「なんでクビにしなかったんだ」みたいなことを考えていた。
彼が職場で首を吊ったという話は、当然ながら同僚のほぼ全員が数日内に知ることになった。誰も悲しんでいなかった。事態にショックを受けて辞めてしまうという人が何人か出て、その後半年間くらい色々大変だった。
人の死には関わりたくない。
俺が身内や雇ってるとこに特定されて燃えねえかなぁ、きっと楽しいだろうなぁっていう破滅願望に似た思いがムラムラと渦巻いてる
もしそれで大炎上!家に殺到する嫌がらせ!個人情報すべて晒し上げ!発言すべてをコピペ化!会社はクビ!お先真っ暗首吊りコース!な展開になると
なぜか知らんがすごく楽しい気がするんだ
日本家屋で首吊りが一般的なのは天井に太い梁があり人間一人分くらいの体重を支えることが容易だったため。
マンションでは天井に梁がない構造が一般的であり、天井にロープを括るという行為に高いハードルがある。
天井には基本的にロープを括るようなものはなく、あるとしても照明くらい。
だが照明の設置強度は人間一人が平気でぶら下がれるほどかというと疑問が残る。
つっかえ棒のような感じでドアの枠の間を渡すように設置し懸垂が行えるようにするもの。
懸垂をするためのものなので人間が全体重をかけても外れないようにできている。
※たまに外れてケツを強打して涙目になる。
懸垂バーを設置し、バーにロープを括ることで首吊りを行うことが可能。
ただし、この方法にも問題はあり、ドア枠は基本そこまで高く作られていないため、
懸垂バーを設置し、そこからロープを垂らすと少し背が高い人であれば両足が地面についてしまう。
個人的にいろいろ試してきた中で一番確実だったのは
ベランダの手すりに長めのロープを括って首に輪っかを通し飛び降りること。
ベランダの手すりはちょっとやそっとの衝撃で外れたら大問題なのでかなり頑丈にできている。
この方法の一番の問題は下の階の住人と目が合って気まずい感じになること。
「大丈夫ですか?」「お気になさらず~」みたいな間抜けな会話をすることになる。
1階だとできない点も見逃せない。
両親から与えられた資質と環境から考えられる、ごく普通の幸せな人生を実現してきた。
地方都市に生まれ地元の公立小中高を卒業し、親元から若干離れた駅弁大学を出て東京で就職した。20代後半には伴侶となる異性と出会い30前に結婚、そこから5年の間に2人の子を授かった。共働きでの育児は大変ではあったが、夫婦それぞれにおおよそ年代別平均程度の年収があること、義実家が近く手厚いサポートを受けられることなどを活かして生活を組み立ててきた。子どもらは突出した資質こそ持ち合わせている様子はないが、健やかに朗らかに育っている。今後の教育費や老後の資金についても結婚時から続けている貯蓄と運用で十分まかなえる見込みだ。
偏差値50の幸せ、と自負していた。私にとってだけでなく家族にとっても、おそらくはそうだろう。代々受け継がれてきた幸せのバトンを、次の代にも受け渡しつつある。
だがもうだめだ。
20代中頃から発症していた鬱病が年々悪化し、今年自殺未遂を犯すまでになった。入退院を繰り返して心をすり減らし、ついに治療のための努力はおろか生活すべてに対するモチベーションを失ってしまった。もう何もできない。何も考えられない。次の自殺にむけてAmazonで買った首吊りロープはまだダンボールの中にあるし、もやい結びは動画を見ても理解できない。会社への休職手続きは途中で止まっている。社会のどことも関われず無気力に一日中布団で過ごす私は、配偶者から見るともはや子どもの教育に悪い存在らしい。家族と会話する気力もなく、ひきこもりのような生活になっていった。一人でいる時間、何を考えているのか自分でも整理がつかない。生きたいのか死にたいのかの選択、どのようにその選択を実現していくのか、支離滅裂に考えが錯綜している。
今、いつもより少しだけ頭が冴えているのでこの文章を書き殴った。合理的に考えれば生きるにせよ死ぬにせよ他にやることはある。ただ、少しだけ誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。
産まれたいと言ってないのに無理やり産まされたんだから苦痛なく死ぬ自由ぐらい保障しろよってな
巻き込み型の自殺がなくなる
老人が減る
いつでも死を選べるという安心感が得られる
圧力により死を選ばせる可能性がある←自殺教唆を厳罰化すればよい。認知症は遺族のサイン一発で殺せばいい
反出生主義的なことを言うと「なんで死なないの?」とかいうバカ一定数居るんだけど、死の直前の苦痛が怖いだけであって苦痛なく眠るように死ねるんならいつでも死ぬわな
首吊りで後遺症残ったら飛散だしダムから勇気出して飛び降りるようなこともしなくていいじゃん
そんなことしたら社会が維持できない?
いや、最初からみんなが幸せになる社会を作ればいいよね?なんで社会とか言うものを維持させるために各個体が苦しまなきゃあかんねんアホくさ
むしろ淘汰が加速して少数精鋭になるんだからいいんじゃないの?
安楽死施設があれば人類の死生観とかゴロっと変わると思うよ。そもそも産むべきではないが、どうせ人類は産むわけだから、苦痛なき死を選択肢として与えるべきだよね?これぞ究極のリベラルって感じじゃね?知らんけど