はてなキーワード: f(X)とは
最近アメリカの精神医学会において新しい精神障害が発見された。
他願症とは論理能力や他者とのコミュニケーションに障害が発生する障害の一種である。
先天性の脳機能障害とされるが、脳機能上の異常から認知障害の発症へといたる具体的なメカニズムについては未解明の部分が多い。
幼児期においては特に問題行動は生じないが、思春期以降顕在化する事が多い。
一般的に自分の意志ははっきりと相手に伝えないと相手に理解されない事が多いが
他願症患者はたとえ表現を著しく曲げても相手に理解されて当然と思っている事が多い。
例えば以下の発言がある。
他願症でない一般人は、これは受取手によって発言の受け取り方が変わる事を知っている。
Aの発言においては
「この荷物重いんだよ。こんな重い荷物持ってる私力持ちでしょ?」と言う意味もある。
混乱を避けるため自分の意志を伝える時は出来るだけ具体的に率直に意思を伝え曖昧な発言をさける。
しかしながら他願症患者は自分の意図した通りに発言が伝わらないと癇癪を起こし
相手の人格を非難したりする事が多い。
精神科医の藤堂高虎氏によれば日本においても最近認知数が増加している精神障害で
近く精神科のバイブルであるDSMの次期バージョンDSM6に追加される見込みだ。
その2へ続く
『数学ガール ガロア理論』の第10章(最終章)がそれまでの章に比べて難しくて挫折するという感想がけっこうあるようなので、その補足的な解説を試みます。『ガロア理論』第10章はガロアの第一論文を解説しているので、解説の解説ということになります。
と進んでいきますが、ミルカさんはその途中で何度も、ガロアの第一論文のテーマが「方程式が代数的に解ける必要十分条件」であることを確認します。
なぜ何度も確認するかといえば、最後の定理5(方程式が代数的に解ける必要十分条件)以外は、一見したところでは「方程式の可解性」に関わることが見て取れないので、途中で確認を入れないと簡単に道に迷ってしまうからでしょう。定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)や定理3(補助方程式のすべての根の添加)は、目的の方程式を解くときに利用する補助方程式に関わる話ですが、やはり定理を見ただけでは「方程式の可解性」との繋がりはよく見えません。
そこで逆に、いったん「方程式の可解性」の話から離れて定理5を除外して、それ以外だけに注目します。
「方程式の可解性」から離れて見たとき、定理1から定理4までで何をやっているかというと、
ということ(ガロア対応と呼ばれます)を示しています。ミルカさんの言葉を使えば(p.362)、体と群の二つの世界に橋を架けています。
この体と群の対応関係を図で見ると、10.6節「二つの塔」の図(p.413、p.415、p.418)、あるいは
http://hooktail.sub.jp/algebra/SymmetricEquation/Joh-GaloisEx31.gif
http://f.hatena.ne.jp/lemniscus/20130318155010
のようになります(この体と群の対応関係は常に成り立つわけではなく、第8章「塔を立てる」で説明された「正規拡大」のときに成り立ちます)。
体と群に対応関係があること(定理1~定理4)を踏まえて、定理5を見ます。
「方程式を代数的に解く」というのは「体の拡大」に関係する話です。
「方程式の係数体から最小分解体まで、冪根の添加でたどりつくことが、方程式を代数的に解くことなのだ」
(第7章「ラグランジュ・リゾルベントの秘密」p.254)(ただし、必要なだけの1のn乗根を係数体が含んでいるという条件のもとで)
そこから、「体と群の対応」を利用して、方程式の解の置き換えに関する「群」の話に持っていくのが、定理5になるわけです(なお「方程式を解くこと」と「解の置き換え」が関係していることは、すでに第7章に現れていました)。
「≪群を調べる≫って≪体を調べる≫よりも(...)」
ここまでの話で、定理4までで行いたいことが「≪体の世界≫と≪群の世界≫の対応関係」だということが分かりました。
しかしこの対応を示すためには、まず、この対応関係における≪群の世界≫というのがいったい何なのかをきちんと定義しないといけません。
≪体の世界≫というのは「体の拡大」で、これは8章「塔を立てる」で説明されています。
一方、その「体の拡大」に対応する「群」は「方程式の解の置き換え方の可能な全パターン」なのですが、これが正確にどんなものなのかは10章以前には定義されていません。
(以下、4次方程式の例をいくつかあげますが、面倒なら流し読みでさらっと進んでください)
たとえば一般3次方程式では、解α、β、γの置き換え方は全部で6通り(3×2×1)あります(第7章p.252)。同様に考えると、一般4次方程式では、解α、β、γ、δの置き換え方は全部で24通り(4×3×2×1)あることが分かります。
ところが、x4+x3+x2+x+1=0という4次方程式を考えてみます。これは5次の円分方程式です(第4章「あなたとくびきをともにして」)。
x5-1 = (x-1)(x4+x3+x2+x+1)なので、この方程式の解α、β、γ、δは1の5乗根のうちの1以外のものだと分かります。したがって、解の順番を適当に選ぶとβ=α2、γ=α3、δ=α4という関係が成り立ちます。
これについての解の置き換え方を考えると、αを、α、β、γ、δのうちのどれに置き換えるかを決めると、それに連動して、β、γ、δがどの解に置き換わるかも自動的に決まってしまいます。たとえばαをβ(=α2)に置き換えると、(β、γ、δ)=(α2、α3、α4)は、
(β、γ、δ) = (α2、α3、α4)
↓ αをβに置き換える
(β2、β3、β4) = ((α2)2、(α2)3、(α2)4) = (α4、α6、α8) = (α4、α1、α3) = (δ、α、γ)
となるので、
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ)
のように置き換わります。αの置き換え方は4通り(α、β、γ、δの4つ)なので、この4次方程式x4+x3+x2+x+1=0の解の置き換え方は次の4通りとなります。
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = (α、α2、α3、α4)
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ) = (α2、α4、α6、α8)
(α、β、γ、δ) → (γ、α、δ、β) = (α3、α6、α9、α12)
(α、β、γ、δ) → (δ、γ、β、α) = (α4、α8、α12、α16)
あるいはx4-5x2+6=(x2-2)(x2-3)=0 という方程式を考えます。解は√2、-√2、√3、-√3の4つですが、この場合「√2と-√2の置き換え」や「√3と-√3の置き換え」は許されますが、「√2と√3の置き換え」は許されません。
なぜかというと、(√2)2 -2 = 0、という式を考えると分かります。この式で√2を√3に置き換えると、左辺は(√3)2 -2 = 1となり、一方、右辺は0のままです。このような等式を破壊してしまうような解の置き換え方は認められません。そのため、可能な解の置き換え方は4通りになります。ただし、4通りの置き換え方のパターン(解の置き換えの「群」)は、5次円分方程式のときの4通りの置き換えパターンとは異なっています。(α、β、γ、δ) = (√2、-√2、√3、-√3)と置くと、可能な置き換え方は
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = ( √2、-√2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、γ、δ) = (-√2、 √2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (α、β、δ、γ) = ( √2、-√2、-√3、 √3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、δ、γ) = (-√2、 √2、-√3、 √3)
となります。
では、「認められる置き換え方」であるためにはどのような条件を満たす必要があるのかというと、それは
というものです。つまり解θの最小多項式をf(x)とすると、解の置き換えをしたときに、θはf(x)の根θ1、...、θnのどれか(この中にはθ自身も入っています)に移らなければなりません。この条件を満たしていれば、等式に対して解の置き換えをおこなっても、等式が破壊されることはありません。
解の置き換えであるための必要条件が出ましたが、この条件だけではx4+x3+x2+x+1=0のときのような、解の置き換えで複数の解の動きが連動しているような場合をどう考えればいいのかは、まだ分かりません。x4+x3+x2+x+1=0のときは一つの解の動きを決めれば他の解の動きが決まりましたが、方程式によっては解の間の関係はもっとずっと複雑にもなりえます。
しかしそれは、たくさんの解を一度に考えるから解の間の関係が複雑になって混乱するのです。
もしもx4+x3+x2+x+1=0のときの解αのように、ただ一つの解の動きだけを考えて全ての置き換えが決まってしまうならば、話はずっと簡単になります。
そして、その「一つの解の動きだけを考える」ようにしているのが、
です。
体に注意を向けたほうがいい。添加体を考えれば、補題3の主張は一行で書ける」
K(α1、α2、α3、...、αm) = K(V)
これによって、「解α1、α2、α3、...、αmの置き換え」ではなく、ただひとつの「Vの置き換え」だけを考えればいいことになります。
これと、解の置き換えの必要条件「解の置き換えをおこなったとき、解は、共役元のどれかに移らなければならない」を合わせると、「解の置き換え方の可能な全パターン」とは、「Vから、Vの共役への置き換えのうちで、可能なものすべて」となります。
そして補題4(Vの共役)は、「Vの(共役への)置き換え」をすると、もとの多項式f(x)の根α1、α2、α3、...、αmの間の置き換えが発生するという性質を述べています。つまり「Vの置き換え」によって「方程式f(x)=0の解の、可能な置き換えが実現される」わけです。
この考えにもとづいて「解の置き換えの群」を定義しているのが、定理1(≪方程式のガロア群≫の定義)の説明の途中の、10.4.4節「ガロア群の作り方」です。
(ガロアは正規拡大の場合にだけ「解の置き換えの群」を定義したので、正規拡大のときの「解の置き換えの群」を「ガロア群」と呼びます)
前節で、証明のかなめとなるVと「解の置き換えの群」が定義されました。Vの最小多項式fV(x)の次数をnとすると、次が成り立ちます(最小多項式は既約で、既約多項式は重根を持たないので、Vの共役の個数は最小多項式の次数nと一致することに注意する)。
※1 考えている体K(V)に含まれない数へのVの置き換えは「解の置き換え」には認められないので、「解の置き換え方の個数」と「共役の個数」は一致するとは限りません。
※2 「最小多項式」は8.2.8節「Q(√2+√3)/Q」と8.2.9節「最小多項式」で説明されていますが、最小多項式が既約であることと一意に決まること(8.2.9節p.282)は、定義(可約と既約)と補題1(既約多項式の性質)から証明されます。
そして、
したがって正規拡大のときには、
という等式が成り立ちます。この関係が「体と群の対応」の第一歩目になります。
ことを主張しています。
そして定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)と定理4(縮小したガロア群の性質)で、
ことを主張しています。
ことを主張しています。
このように定理1、定理2、定理3、定理4によって、体と群の対応が示されます。
方程式が代数的に(つまり冪乗根によって)解けるかという問題は
と言い換えられます。そして、
ので、「適切な冪乗根が存在するか」という問題は「適切な正規拡大が存在するか」という問題になり、体と群の対応により
という問題になります。この「適切な正規部分群があるかどうか」をもっと詳しく正確に述べたのが定理5です。
それでは改めて第10章を読んでいきましょう。
(追記: 数式の間違いの指摘ありがとうございます。訂正しました)
F(x),G(x,y),H(y)∃x∃a∃b
∃x∃a∃b((F(x)∧(G(x,a)∨¬G(x,b))∧(H(a)∧H(b)))
H(y)「yは小児である」
まず、記号で書くのに暗黙の了解を入れたら何も意味がないと思うんですが…
で、1行目は何の意味があるのかな?それ、なんと解釈するのか説明してもらえます?
で、こちらの
について、これをあなたが主張してる、ということはまずいい?そこは間違って無い?それを両方主張してる、ということは?
其の上で、あなたは、AとBは矛盾しない、と言ってる、と。そこまでは正しいですか?
其の上で、上の式を出して説明している、と。そこまでは正しく理解できてますかね?
さて、そこで上の2番目の式ですが、
(H(a)∧H(b))
はあるaとbが共に小児である、ことがある、と。いいですね?
(G(x,a)∨¬G(x,b))
ふむ、これは、「あるxにとって性的対象なaがいる。」または「あるxにとって性的対象でないbがいる」と。
合わせると、
「ある小児性愛者が居て、そいつにとって、性的対象である小児がいる、または性的対象でない小児がいる」ということになりますが、正しいでしょうか?
これは少しこちらが誤解してました、すいません。
こちらのBは、「小児性愛者」自体の話だったんですが、あなたはなぜか勝手に変更して、対象の方を変更してしまってるので、あまりに無意味な話をしてますね?
あなたの主張は、小児性愛者、と言う中にも、子供が好きだから孤児院とか幼稚園とかに寄付をして子供の成長を助ける様な人が居て利点がある、
と主張してるんだと思いましたが
逆に言うと、そのことは一体何のための言動だったのでしょうか?今度はそこが矛盾しますね?
そこを無矛盾に解釈しようと思って出した答えがA∨¬Aみたいな話だったんですが、その前の時点で矛盾してたわけですね?
とりあえず、他でも言ってる様に、「小児性愛者は子供を性的に扱う」ということはそれはもう確固たる事実でよろしいですね?
正直に言いなさい。
貴方はそれを私をバカにするつもりで使いましたよね?
少なくとも、私は不快に思いましたし、
増田での使い方を見る限り、人をバカにするときに使うのが一般的ですよね?
もし、あなたが差別擁護として使ってないとしても、明らかに一般的には差別用語として捉えられるし、言われて不快に思う人が多いことくらいは
その言葉を使った時点で理解してるはずです。
理解してないとしたら、小児性愛を理解しろ、などと言う以前の問題です。
それとも、博愛主義者になると、相手がどう捉えようが言ってる本人に自覚がなければ差別にはならない、ということでしょうか?
他人に危害を与えようが、その意思が無ければ問題ない、ということでしょうか?
F(x),G(x,y),∃x∃a∃b
∃x∃a∃b(F(x)∧(G(x,a)∨¬G(x,b)))
えーと、これ、上の部分、何の意味があるのかな?yは何かな?
でさ、
B「小児性愛者というのは、皆が皆、子供を性的な対象として見てるわけではない」
これは間違ってるのかな?あなた、この二つを繰り返し発言してるんだけど。
これが間違ってるというなら、正しく訂正してくれますか?
上のFとGとxとyが何に当たるか説明してくれますか?
申し訳ありませんが、あなたのトンデモ理論はわかりかねますので。
S:小児性愛者
として、
Aは
∀a∈S F(a)
Bは
∃a∈S ¬F(a)
¬A=¬(∀a∈S F(a))=∃a∈S ¬F(a)=B
ですね?したがって
A∨B=A∨¬A
また、害になるとしても、それらを押し付けることを肯定できるかどうかも問題ですね。
子供がわからないうちに性的虐待を受けて、成長した後、その意味を知った時点で大変大きな精神的障害を持つことは理解できると思います。
その場合、子供の時点で、やられてることはよく分かってないし、お菓子をもらったら嬉しくてやられても特に気にしない、という自体があります。
害ですね、どう考えても。
それらを押し付けることによって、少なくともそのような害を減らせていますし、
それによる問題は特に今のところ見受けられません。
これについて、ストローマンは受け付けません。
長方形の面積を「縦かける横」でもとめなければいけない理由。
厳密にいうと、そんなものありません。
ただ「縦かける横」でもとめた方が美しいというだけです。
しかし、なぜ美しいかには、根拠があったらいいなと思っています。
それでいろいろと考えてみました。
横軸は必ずX軸で、縦軸は必ずY軸でした。
長方形の面積を「縦かける横」でもとめたほうがいい理由は、ここにあります。
S f(x) dx
みたいなかたちをしていました。
インテグラルは書けないので、都合上Sにしておきました。
この式は、縦f(x)、横dxの長方形を、たくさん足しあわせましたよ、という意味です。
ところが、
S dx f(x)
と書く人は誰もいません。
もし、「横かける縦」が世界のスタンダードならば、積分の式はみな書きかわるでしょう。
そんなことは起こらず、みな「縦かける横」と矛盾しないかたちで、積分の式を書いています。
そこで、わたしはこう考えました。