はてなキーワード: 秋葉原無差別殺傷事件とは
加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月に第2次森内閣打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の倒閣運動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E3%81%AE%E4%B9%B1
秋葉原通り魔事件(あきはばら とおりまじけん、英語: Akihabara massacre)とは、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。マスメディアや本件に言及した書籍においては秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれることが多い[6]。
お前は地下鉄サリン事件とか、秋葉原無差別殺傷事件の被害者の名前を1人でも覚えてるか?
168 ソーゾー君 [] 2013/05/09(木) 15:09:31 ID:2d7xTlkM Be:
アイツは超人だぜ?
目撃情報では「金髪の男が馬乗りになり返り血を浴びながら何回も刺した」等の情報もある。
紙の色も変えられるらしいぜ?複数居たと言う情報もあるが加藤の単独犯行と言われている。
加藤が運転していたと言う証拠があるのかね?
お前が重要視する目撃証言によると「金髪の男が馬乗りになり返り血を浴びながら
何回も刺した」と言う証言がある。
ナイフは犯行に使われた物ではない。血液が付いていなくて当然だ。」と言ってるんだろ?
では聞くが加藤が逮捕=取り押さえられた時に着ていた白いスーツは
犯行後~取り押さえられる間に着替えたのか?
服にも手にも血液が付いてなかったぞ?
犯行後にシャワーを浴びて着替えてから捕まったのか?
それともう一つ疑問がある。
金髪のかつらはどこに行ったんだ?」
アルカイダ=欧米政府別動体=国連の飼い犬=欧州の銀行 家の私兵
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1359207037/
「2幼児遺棄事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」で思う事を軽くまとめておく。
Twitter上でも何度もPOSTしていたので、既に「読んだ」という人もいるかもしれないが、一度まとめておこうと思ったのだ。二度と言及したくなかったから。
まず、最初に書いておく事がある。それは、「2幼児遺棄事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」の被告のパーソナリティは同じだということだ。事件の性質は表面上は全く違うが、推察できるパーソナリティは非常に似通ったものがあると思われる。
では、推察を書いていこうと思う。
人は往々にして、「承認要求」を持っているものだが、大抵の人間(以降、「正常者」と書く事にする)は、実は幼少期の段階で本人も自覚することなく、この要求を満たしているケースが多い。それは親からの場合もあれば、兄弟、親類、友人、社会など、様々だが、何らかの形で満たしているとされる。
一方で、この要求を満たすことなく大人になってしまう人間がいる。(以降、「異常者」と書く事にする)
こうした、異常者は、その名の通り、正常な精神の成長過程を経ていない。従って、多くの場合、他者との心の触れ合いに欠け、強固な「承認要求」と、また、強すぎる他者への「猜疑心」を持ってしまっている。程度の差はあれど、それはコミュニケーション障害の一種として表面化していることが多い。(うつ病になりやすいとする説もある)
故に、異常者は、他者と本質的には分かり合えない。また、他者に弱みを見せられない為、正常者の目には「真面目」で「勤勉」に映る。
だが、異常者の猜疑心は、周囲を信用出来ない。だから、「自分はこんなに頑張っているのに周囲は理解してくれない」という思いにつながる。これは、正常者にとっては「異常な心理」でしかないが、彼らの視点においては、「正常な心理」なのだ。
たとえば、遊び飽きた人間と、遊ばせてもらえなかった人間がいるとしよう。異常者とは、後者の様な人間なのである。
そして、こうした「思い」は、やがて周囲への「憎しみ」へと変化していくのだ。
結局のところ、今回の二つの事件は、この「憎しみ」の爆発の形の差に過ぎない。
遺棄事件の女性は、単純に逃げ道のホストをみつけてしまった。つまり、嘘であっても、異常者である自分を「承認」してくれる存在を見つけてしまったのだ。だが、ホスト自身は「芝居として他者を承認して金を取る」仕事でしかない。だから、子供は救われる事がなかった。おそらく、彼女の中では、自分は頑張った。頑張ったんだ。という思いの方が強かったろう。それが彼女の主観でしかなくてもだ。
一方で、殺傷事件の方は、もう少し単純だ。つまり、分かりやすく言えば、「キレタ」のだろう。
そして、この爆発は内向きに向かえば、自分自身を滅ぼす事になる。つまり、「自殺」となるわけだ。
ここまで書いて、気づいた人もいたかもしれない。
こうした異常者は、自ら、SOSを発信しないのだ。出来ないのではない。しないのだ。何故なら周囲を信用していないから。
したがって、社会、制度、互助会、こうした、正常者の観点における対応策は何の効果もない。
一部の貧困からくる逃避のような正常者が引き起こすケースには有効だろうが、今回のような場合には効果は期待できない。
ではどうするのか?
悲観的に見れば、警察の強制介入などの、能動的な強権発動しかないだろう。楽観的に見れば、フィンランドの自殺防止プログラムのような事例に倣い、「治癒」すべき存在として扱うという二者択一がある。いずれにしても、異常者本人にとって「最善」とは呼びにくいのだが。
貴方はどちらを希望するだろうか?
│
├犯人の個人的な問題だよ派
│ ├キモオタだから生きていても仕方ないよ派
│ ├彼女がいなかったからだよ派
│ └コミュニケーション能力の欠如が問題だよ派
│
├今の社会が悪いんだよ派
│ ├日雇い派遣のせいだよ派
│ ├ゲームが悪いんだよ派
│ ├インターネットが悪いんだよ派
│ ├キレる脳のせいだよ派
│ └ゆとり教育なら救えた派
│
├刀狩派
│ ├ダガーナイフを禁止すればいいんだよ派
│ └歩行者天国を廃止すればいいんだよ派
│
├昔はこんな事件は無かったよ派
│
├ネットを監視して予知しよう派
│
秋葉原無差別殺傷事件について知ったのは友人からのメッセンジャーがきっかけだった。
まだマスコミによる本格的な報道が始まる前で、ニュー速で勢い13万なんていうスレを見て浮かれていた事を覚えている。
それから徐々に情報が公開されていき、見慣れた中央通りにおびただしい数のパトカーと救急車が道路を閉鎖している映像や、加藤容疑者と警察官が対峙し逮捕へと至る画像、そして血を流し倒れている被害者達を見た。これは只事じゃないぞ、と感じた。
僕は秋葉原に毎週行くようなヘビーなオタクではないし、何かに帰属意識を抱くような人間でもない。
だから今回の事件も今までと同様に、偏向報道をするマスコミとアンチマスコミを貫くネットを程よく消費しつつゲームやってるんだろうな、なんて思っていた。
だけど予想とは裏腹に、時間を経るに従って、僕は強い喪失感を抱くようになっていった。
「~は死んだ」なんてクリシェを自分が使うことになるなんて思わなかったし思いたくないのだが、そう表現する他ない感情だった。
だが、事件前の秋葉原と、これからの秋葉原を僕はどうしても接続できなかった。
あの事件は、これからどんな時でも秋葉原に影を落とすだろう。僕が中央通りを横切る時は必ずあの事件を思い出すだろう。
その時に抱く感情は、これまでの秋葉原にはまったくなかった感情だ。僕はたぶん、どこかで秋葉原という街を信頼していたのだと思う。
死とは連続性が失われ、再生不可能な形で唐突に、そして理不尽に切断されることなのだと知った。それは人も街も変わらない。
秋葉原は死んだ。
秋葉原は死してなお、新しい文化を生み出したのだ。本当に偉大な街だ。
今後の秋葉原は歩行者天国も暫く廃止するという話だし、実質的な意味でも大分変化していくのだろう。
今はまだその気になれないけれど、もう少し経って心の整理がついたら秋葉原に行こうと思う。