「2幼児遺棄事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」で思う事を軽くまとめておく。
Twitter上でも何度もPOSTしていたので、既に「読んだ」という人もいるかもしれないが、一度まとめておこうと思ったのだ。二度と言及したくなかったから。
まず、最初に書いておく事がある。それは、「2幼児遺棄事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」の被告のパーソナリティは同じだということだ。事件の性質は表面上は全く違うが、推察できるパーソナリティは非常に似通ったものがあると思われる。
では、推察を書いていこうと思う。
人は往々にして、「承認要求」を持っているものだが、大抵の人間(以降、「正常者」と書く事にする)は、実は幼少期の段階で本人も自覚することなく、この要求を満たしているケースが多い。それは親からの場合もあれば、兄弟、親類、友人、社会など、様々だが、何らかの形で満たしているとされる。
一方で、この要求を満たすことなく大人になってしまう人間がいる。(以降、「異常者」と書く事にする)
こうした、異常者は、その名の通り、正常な精神の成長過程を経ていない。従って、多くの場合、他者との心の触れ合いに欠け、強固な「承認要求」と、また、強すぎる他者への「猜疑心」を持ってしまっている。程度の差はあれど、それはコミュニケーション障害の一種として表面化していることが多い。(うつ病になりやすいとする説もある)
故に、異常者は、他者と本質的には分かり合えない。また、他者に弱みを見せられない為、正常者の目には「真面目」で「勤勉」に映る。
だが、異常者の猜疑心は、周囲を信用出来ない。だから、「自分はこんなに頑張っているのに周囲は理解してくれない」という思いにつながる。これは、正常者にとっては「異常な心理」でしかないが、彼らの視点においては、「正常な心理」なのだ。
たとえば、遊び飽きた人間と、遊ばせてもらえなかった人間がいるとしよう。異常者とは、後者の様な人間なのである。
そして、こうした「思い」は、やがて周囲への「憎しみ」へと変化していくのだ。
結局のところ、今回の二つの事件は、この「憎しみ」の爆発の形の差に過ぎない。
遺棄事件の女性は、単純に逃げ道のホストをみつけてしまった。つまり、嘘であっても、異常者である自分を「承認」してくれる存在を見つけてしまったのだ。だが、ホスト自身は「芝居として他者を承認して金を取る」仕事でしかない。だから、子供は救われる事がなかった。おそらく、彼女の中では、自分は頑張った。頑張ったんだ。という思いの方が強かったろう。それが彼女の主観でしかなくてもだ。
一方で、殺傷事件の方は、もう少し単純だ。つまり、分かりやすく言えば、「キレタ」のだろう。
そして、この爆発は内向きに向かえば、自分自身を滅ぼす事になる。つまり、「自殺」となるわけだ。
ここまで書いて、気づいた人もいたかもしれない。
こうした異常者は、自ら、SOSを発信しないのだ。出来ないのではない。しないのだ。何故なら周囲を信用していないから。
したがって、社会、制度、互助会、こうした、正常者の観点における対応策は何の効果もない。
一部の貧困からくる逃避のような正常者が引き起こすケースには有効だろうが、今回のような場合には効果は期待できない。
ではどうするのか?
悲観的に見れば、警察の強制介入などの、能動的な強権発動しかないだろう。楽観的に見れば、フィンランドの自殺防止プログラムのような事例に倣い、「治癒」すべき存在として扱うという二者択一がある。いずれにしても、異常者本人にとって「最善」とは呼びにくいのだが。
貴方はどちらを希望するだろうか?
書き込んだ本人だけど、もちろん俺も「異常者」だねw つーか、この文章、俺自身の分析でもあるw
えー どこで「承認要求」の種明かしが出てくるかと思って(「要求て!w数年間もww放置でww要求て!www」みたいな) 最後まで読んじゃった。 素かよ。 マジボケかよ。