はてなキーワード: メリトクラシーとは
https://anond.hatelabo.jp/20181009174050
マルクスは間違っていた。資本の国有化ではなく、子孫の国有化をすべきであった。
国家がすべての子供に個々の才能に応じた教育を施すことにより、格差の再生産は限りなく減少し、完全なメリトクラシーな世の中が実現する。
親子関係は完全に断絶され、誰が自分の子孫なのかを知ることはできない。人間は遺伝子を残すことよりも社会の中で模倣子を残すことに専念し、遺産は模倣子を受け継いだ弟子たちに任意に分配される。
親たちから子供を育てる喜びを奪う傍ら、子供を育てる苦労からも完全に開放される。もはや結婚という制度が必要なくなり、人間はより自由に恋愛を楽しむことができる。
将来的には優秀な国民の精子・卵子からデザインされた子供を計画生産することで、社会のニーズに合わせた質と量を確保することができるだろう。
我々はただ子供を手放すだけでよく、その他の自由は共産党独裁国のように制限されることはない。
ご唱和ください。
学歴や年収で相手をフィルタリングするってそんなにダメなことなのかな?
もちろん、年収1000万あれば麻薬密売人でも良い、とか極端な話じゃなくて、
あくまで条件の一つとしてアリだと思うんだけど、そんなに聞こえが悪いのかな
なんだろう、むしろね、
「一緒にいると落ち着く」とかさ
曖昧な尺度を持ち出されるより、「あなたは年収が100万円足りないので不合格」的に切られる方が一周回って救いがあるように思う
いや、一緒にいると落ち着けて、幸せでいられることが大事じゃないとは毛頭思わないし、それも重要なファクターだよ
「人間性」の測定範囲(何が人間性に含まれて何が含まれないのか)の問題が不可避的に襲い掛かってくると思う
長年彼のツイートを直接関わりなくただ眺めて楽しませていただいている一人としては、彼のことをテレビで知ったりはてなで論じたりするのもどうにも不思議な気のするもので、そういった立場から彼のフィクションという言葉の使い方について一言二言一家言ある身として書いていきたいと思う。
我々は認知する機械でしかないことは近年科学が発達した結果として多くの人が理解するところだと思う。現実は物質、人間も物質。けれどそれだけでは人間社会は成り立っていない。そこには文化がある。文化は必ず物質であるわけではない。しかし多くの人がその文化になんの疑問を抱くこともなく物質と同じように自明で今ここに存在しているものとして認識している。この現実について、彼は疑問を抱いているのだと、長年彼を見ていた身としては思う。至極当然のことを彼は言っているだけだ。
彼の指している中東のフィクションとは、中東の文化と言い換えることができる。すなわちイスラム国においての宗教、彼はその文化に、もしかしたらこの日本の文化よりも上手く適応できるかもしれないという青い鳥症候群を我々に見せたのである。女を性奴隷にして人を殺す世界、彼は新天地を夢見ている。
どれほど頭がいい人間でもよくて大学教授、悪ければ非正規雇用の教員、使い捨てられるポスドクにしかなれない。儒教的な上下関係、年功序列、徹底されていない半端なメリトクラシー。曖昧かつ意味がないこのつまらない現実に彼はほとほと嫌気がさしている。そしてこのつまらない現実を、本当なら実体なんてないただの文化で、いつでもひっくりかえるような普遍性も何もあったものじゃないフィクションであると言い切って切り捨てたいのだろう。彼が彼自身を障害者であるとして自称するのは高度な皮肉であって、意味が無いものについて意味があると思っている大勢の人を馬鹿にしている。しかし同時に自分自身が社会に不適合を起こしていると客観視して自虐しているのである。
……結果として公安に追い回される日常という非日常を彼は手に入れた。それもまた今は自覚はなくとも彼にとっては好ましいことでしかないのだ。
「努力すればなんとかなると思っているキミへ」
http://anond.hatelabo.jp/20101123002445
「いじめられっこだった私がリア充になるまで高校でやった3つのこと」
http://anond.hatelabo.jp/20101121015948
http://anond.hatelabo.jp/20101122004732
「こういう人は脳の受容体がそういう刺激によって反応しなくなってるんだよね。」
この2日くらいの増田見るだけで日本がいかに生き辛いかわかる。
「努力しても無駄」「人生を楽しめない人間はキチガイ」「努力しろ」
twitterでよくファボられてるやつを思い出した。
ぼく「じゃあ働く」
ぼく「じゃあ死ぬ」
ぼく「じゃあ死なない」
ぼく「もう死ぬ」
両親「お願い死なないでちゃんと働いて」
ぼく「じゃあ働く」
ぼく「なるほど」
この行き場の無い過剰適応のサイクルが労働環境だけの話じゃなくなってる。恋愛市場もこんな感じで八方ふさがり。
そして、追い詰められたままどんどん快感の受容体が麻痺してきて、何に対しても無感動な人間がぼろぼろと自殺年間3万人。
このお先真っ暗な世の中の生き辛さを解決するわけでもなく、空気読めのお決まりのフレーズでなんとか空回りさせている感じ。
地獄だろ。
学術的エリートと、官僚や法曹や一流企業ビジネスマンを指していうエリートはかなり異質。
まったく対極といってもよい。
そして、京大生や京大卒には前者の素質はあっても後者の素質に欠ける者は少なくない。
だいたい、ビジネスエリート的素養があれば大学受験の段階で京大なんか選ばないはず。
いつだったか京大女の「ハイパーメリトクラシーの流れの中で高学歴エリートが学歴難民に没落する!」
というエントリがあったが、そもそも京大生・京大卒を「いわゆる高学歴」の範疇に含めるべきでない。
京大は学者を育成することに特化した一種のベンチャー投資みたいなものであり、企業社会に適応できない者を
大量に生み出してしまうことは規定路線であり、今に始まったことではないから。
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181
全体の論旨の言わんとしていることは、とても痛いほど分かります。昨年、自分が就職活動を実際にやってみて体験して同様のことを感じました。また文脈的には、「心理学化する社会」であったり、本田由紀さんが提唱する「ハイパーメリトクラシー」と同一線上に位置づけられると思います。
しかし、就職活動に限って言うならば、それが現代的にアクチュアルな問題なのか、と問われるといまいちピンとこないところがあるわけです。なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去と現在の就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。
上のid:nagano_haruさんの論考も例に漏れず、過去の就職活動と現在の就職活動の違いをまるで自明のように取り扱っています。
企業が労働者を採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。
……(引用者略)
id:nagano_haruさんは、エントリーシートの発明によって、就職活動が自己に与える影響が変化したと主張しています。しかし、この根拠となる部分が明らかにされていないため、果たして本当にそうなのか、という疑問がどうしても残ってしまいます。つまり、歴史がない、通時的な視点の欠如が論旨の前提を脆弱なものにしています。このような歴史の欠如は、議論を極めて内輪的なものにしてしまう恐れがあるのではないでしょうか。
別にこれはnagano_haruさんに限ったことではなく、就職活動に言及する学者や評論家全てに言えることだと思います。彼らがなぜ具体的な資料も根拠もなく、現代的な就活に特有の問題である、といえるのか。そこが全く分かりません。
私見では、メディアの形式が変化しただけで、恐らく、三菱財閥、住友財閥、富士電機といった明治・大正にかけて一世を風靡した大企業たちは、面接段階で、現代以上に自己の刷り合わせを求めてきたのではないか、と思われます。当時の産業はまだまだ発展途中であり、その成員に家族的な同質性を求めていたこと、当時の大学生は全人口の数パーセントに過ぎないエリートであったことから、横の学歴よりも個人の思想、忠誠心が問題とされたこと、などが考えられます。またこの時期に就職活動本の原点とも言えるハウツー本が発売されたのは、決して偶然ではないでしょう。
つまり、現代的な問題というよりむしろ、近代以降、職業選択の自由によって開放された労働市場が、開放された個人を取り込むために始まった就職活動に内在している問題系なのではないか、ということです。
こんなこと書くと、お前が調べて根拠出せよ、と言われてしまいそうなので、時間があるときに昔の就職活動について調べてみます。ただ、個人的に一番問題だと思うのが、現時点で体験している人以外あまり問題として感じられない点があると思います。自分もそうですが、就職活動やっているときは、そのシステムの不条理さに怒りを露にするのですが、いざ内定をもらってしまうと、それまでの苦労は笑い話となり、理不尽さは隠蔽されてしまう。誰しも経験しているにもかかわらず、喉元過ぎると熱さを忘れてしまうところに、この問題の難しさが潜んでいるのではないかと思います。
「下手の考え休むに似たり」という格言がありまして、
メリトクラシーというからには、竹内洋ぐらい読んでるんだろうな?
「け、読んでなさそうだなwww」
というのが、私の印象です。
何か文章読みにくくて全体的に言ってることが良く分からないんだけど、
要は
なんだよね?
でも、そういう「努力には敬意が払われるべき」という願望はメリトクラシーの考え方と同一視できるもんなのかなあ。
メリトクラシーを重視するのなら、別に努力しようがしまいが、業績上げてればそれでいいんじゃないの。
(努力することそれ自体を「業績」と看做すなら話はまた違ってくるけどさあ)
ちょっと意地悪な見方をすると、それって元増田自身が
にあてはまることになっちゃうのではないかしら。
あとこれ、
ただ、当然、人間関係から受けた打撃により精神状態が悪化し何をする気力も湧かないという状態はあると思うし、そういうときは静養するべきだししてる人に対してノーと言うつもりもないよ。ただ、そこに留まり続けるor回復しようという意思を一切見せない、というのはおかしいと思う。
前段と後段が噛み合ってないような気がするよ。
「静養している」状態と「そこに留まり続けるor回復しようという意思を一切見せない」状態とをどうやって区別するの。
元増田が考える「十分な静養期間」を過ぎたらさっさと回復しようとする意思を見せろってことかしら・・・。
それって、ノーって言ってるのとあんまり変わらないような気がするなあ。
うつ病の実態は良く知らないけど、そういう「早く良くなってね」プレッシャーって、人を追い詰めてしまうのでは。
元増田に限らないけど、「努力する人間が報われるべき」って考え方、どうも引っかかってしまうんだよなー。
「努力なんか好きじゃなくたって頑張らなくちゃ生きていけない」という現状を道徳に置き換えることで
「努力しない人間は報われなくて当然」みたいに言い換えてるようで、なんか聞いてて落ち着かない。
自分が努力しなければならなかったことの恨みを、努力しない人間で晴らしているように思えてしまうのよね。
他者にそういう現状を受け入れさせることを「正しいことなのだ」と思い込もうとしているというか。
自分が努力好きだってんなら努力すりゃいいと思うし、努力なんかしたくねえよってんならやめちまえばいいのではないですか。
どっちでも生きていけるような社会を目指す方がよっぽど住み良い社会になるのではないかしら・・・。
仮にそういう社会が実現不可能で、個々の人間には現状を追認するしか道がないのだとしても、
それを「正しいこと」「あるべき姿」であるかのように言うのは欺瞞だと思うよ。
(ブクマのコメントやトラバを読んで、考えを整理した結果、自分の文章には
1.「努力しない人」と「努力しない上に、その結果生じた不利益に不満を並べる人」を混同している
2.「努力」と「成果」を混同している(努力したが成果が出ない、というケースを想定していない)
という二つの特に大きな欠陥があることがわかりました。
1.
以上の点を踏まえ改善してみます。
(努力が成果に結びつきやすい分野で、かつ「努力をしなかった場合どうなる可能性があるか」という情報が共有されているという前提のもとでは)
「そもそも努力しようとしまいと生き方は人それぞれだし勝手だし自由だ。
でも君がそれを選択したのならば『ブーブー言うのは』みっともない。
選択したわけでもないのに望まぬ状態に置かれたのであれば、それはなんとかしてあげたい」
となり、また、最後の式は
努力しなかった結果生じた不利益を被るのは当然だし同情の余地はない
と書き換えられると思います。
おそらく、出発点の「テレビに出演し、ひきこもりを脱出しようとしていた青年」を引きずって考えていたため、様々な矛盾が生じてしまったのだと思います。優先順位は人それぞれなのに、全てを「怠惰」という言葉で処理しようとしていたのが間違いでした。
2.
「努力を尊重する考え方」と「メリトクラシー」は異なるのではないか?という指摘に関しては、
全くその通りであり、きちんと考えずに使っていた自分を恥ずかしく思います。
自分が学生であり、勉強という「努力の絶対量が成果に比例しやすい」分野にばかり接してきたことが、この失敗の一因となっているように思います(さらに言えば、「メリトクラシー≒学歴社会」という誤解もありました)
勉強の代わりに、芸術や運動や仕事を代入してみたら、その齟齬がはっきりとわかりました。
読みづらい文章にも表れている通り、混乱してしまっていたのが、指摘を頂いて自分なりに整理できました。
また、不用意に目にしてしまい、不快な気分になってしまった方にはこの場を借りてお詫びを申し上げます。
そして、はてなダイアリーの使い方がよくわからないので、このような追記をすることをお許しください)
テレビでひきこもりの青年が特集されててなんか複雑な気持ちになったよ!
脱ヲタはヲタ趣味からの卒業ではなく脱コミュニケーション力の欠如+脱自意識過剰だというのはつくづく正論だなと思わされます。
同じく、脱ひきこもりは単純に社会と接点を持てば解消という問題ではないと感じます。
私は社会と接点を持たないことがマイナスなことだとは思いません。選択肢の一つだと感じます。というより、実際に接点を持たずに生活することは不可能なのです。
ひきこもりを分類しても、
・対「人」コミュニケーションをしない
・直接的ではないが何らかの形で人間と関わっている(ネット媒介など)
・継続的な人間関係でなければ、直接的な対人コミュニケーションも可能
などさまざまなパターンが考えられます。
「五年間で三人しか会話していない」というひきこもりの知人がいますが、彼はネットを介してイラストレーターとして生計を立てています。私はその生き方を否定するつもりはありません。
ただ、
対人コミュニケーションは永遠にトライ&エラーの繰り返しです。もちろん、精度を上げていくことによってミスを減らすことは可能ですが、しかし失敗の可能性が0になることはありえません。
また、勉強や技術的な修練と違って、努力した分が反映されているという実感が得にくいという要素もあります。環境によっては、全く努力が意味をなさない場合もあるでしょう。
トランセルを地道に倒せばレベルが上がってジムリーダーに勝てるというものではないのです。
「成果が出るよう工夫して努力する」
ということと、
「成果の出る努力しかしたくない」
ということとは全く違います。
ピアノでも、初見で譜面を引きこなせるのは相当な熟練者のみです。
バイエルをつまづきながらさらって、技術というものは向上します。
よって、対人コミュニケーションを避けたまま生活するのは一種の傲慢と言えるでしょう。
以上が正論です。
が、個人的にはこの種の正論はあまり好きではありません。
ひきこもりの「人間が怖い」という気持ちがよく理解できるし、リスクマネジメントの結果として「人と接しない」という答えが算出される途中式も描けるからです。
「他人は何を考えているかわからないし平気で自分を傷つけるから関りたくない」
という主張に対し私は全力でイエスと言いましょう。
が、
しかし、
自 分 の 部 屋 の 掃 除 機 ぐ ら い か け ら れ る だ ろ >放映されていた青年へ
掃除機は何も考えてないし別にお前を傷つけないだろ
そして夜22時に起きて朝8時に起きることも可能だろう
そして現時点で家がありパソコンがあり養ってくれる親がいるんだから
対人が求められるバイトをしないでもパソコン使ってできる仕事はいくらでもあるだろ。WEBデザインでもグラフィッカーでもプログラマでも。
そしてそれは独学が可能じゃないの?
それらの努力の余地に一切眼を向けず「人間が怖いからバイトしたくない」と嘯く様には怒りすら覚えます。
人間が怖いことと怠惰とを混同してはいけない。異なる概念を混同して自己主張する人間にろくなやつはいない。
いじめもそうです。不登校バンザイだよ!行かなくていいよ学校なんて!
でもそのぶん家で自習すべきだ。高校卒業資格っていう制度があるんだから。
みたいなことで悶々としてたら以前された、
「お前は頑張れる環境と頑張れる能力があってしかも頑張ることが好きだっただけだよ」
っていう批判を思い出してしょんぼりします。
前二つは頷けるとして最後の一つは納得できない。
頑張るのが好きなやつなんていないだろ!でも餓死したり蔑視されたりがいやだからみんなしぶしぶ頑張ってんだろ!マラソン大会って何あの苦行!
でもどう考えてもアリストクラシーよりメリトクラシーのが妥当だと思うし、(メリトクラシー:業績(メリット)を基準として社会的地位が決定されるという考え方。対するアリストクラシーは要は貴族主義)
逆にそう考えないとホームレスとか見ててあまりにもやりきれないです。
っていうことを考えてたら、そういう「努力しなかったゆえに人生の敗者となった人たちへ慈善を行うことの意味」について書かれた日記を見つけたのですが、その要約。
・自業自得と思うとムカつくが、死なれても寝冷めが悪いから救う。
・バカな人がバンバン消費してくれるからこそ資本主義社会が成立してるわけで(みんなが賢く貯蓄したら資本が循環しない)、だから好況になったときまた消費してもらうために救う。
・「知力の才能もいる賃金の高い仕事」だけでは社会は成り立っておらず、「誰でもできるけどつまんなくて長時間で安い給料しかもらえない仕事」をする人も必要だから、生かさず殺さずな程度に救う。
エ エー ……… (´Д`;)
なんか……あんまり……っていうか……全然……私の聞きたい答えじゃなかった……。
無理……私には無理……っていうか……不可能………。
やりきれねええなああ。
努力はすべからく報われるべきとは思わないけど敬意を払われるべきだとは思うのよ。
だから敬意を払われてなかった人は努力しなかった人であって欲しいし、そうでないと考えるとこの世界にはあまりに救いがないと思うのよー!
ああなんか途中から論点がすり替わった…。
今日の公式
・ひきこもり≒コミュニケーション能力の欠如≠怠惰
(ただ、当然、人間関係から受けた打撃により精神状態が悪化し何をする気力も湧かないという状態はあると思うし、そういうときは静養するべきだししてる人に対してノーと言うつもりもないよ。ただ、そこに留まり続けるor回復しようという意思を一切見せない、というのはおかしいと思う。もし本当に病気なら病院に行くべきだろうし、それで治らないとしたらそれは本人が責められるべき問題ではない)
・努力しなかった報いを受けるとは当然だし同情の余地はない=努力した人間に対してはそれ相応の尊敬が与えられるべき
ああーそんな感じー。
心が優しいとか、なんか一個でも才能があるとか、頑張り屋とか。
でもマルチに有能な人がいる裏書としてマルチにダメな人もいるわけでさー。
確かに京大生vs小飼氏を中心としたはてな界隈の騒ぎは不快だった。元増田の言う内容には同意せざるを得ない。弾氏や反応した周囲の人間はまだしも、id:iammg氏には怒りを通り越して諦めを感じる。当初自分は、id:iammg氏の主張が非常に浅薄なレベルに留まっているのは、ただ学生らしい未熟さ・若さが原因なのだと思っていた。けれど、そうではなかったからだ。
ここ最近のエントリ(ブログのすゝめ - 女。京大生の日記。など)に目を通し、彼女が、ただネタを作ってやろうという程度の思い入れしかなかったのだと思い知らされ、酷く脱力させられた。id:iammg氏の発言を真に受けて真面目に考えた(一時期、覚書のようなものを増田に上げたりさえした)自分が無様でならない。ロスジェネも、没落エリートも、非コミュも、彼女には格好の「釣り餌」でしかなかった。話題を作るダシに、ロスジェネの、没落エリートの、非コミュの苦しみを使い、それを悪びれもせず愉快そうに語るid:iammg氏の姿に、言葉にならない絶望を覚えた。
こういう彼女の手口は、彼女が持ち出した議論そのものを無価値なものに変えてしまう。「ああ、また釣りか」という。そうなることを見越せないのなら愚かだし、それを見越してなお「釣り」を止めないなら、不誠実だ。他人の苦しみを、自分が脚光を浴びるための道具として用いて平然とし、あまつさえそれを堂々と「ブログのすゝめ」と称して広めようとする姿勢・・・それが「コミュニケーション能力」「ポスト近代化能力」という奴なら、自分は生涯そんなものと無縁で居たいし、そのようなものを有り難がる社会に敬意を払いたいとも思わない。
そもそもよく考えてみてほしい。彼女の目線は、ロスジェネや没落エリートや非コミュに優しいようでいて、全く優しくなどはない。「ポスト近代化能力」を身に付けさせるために、社会が彼らを矯正し、責任を負うべきだ、という主張はむしろ、そうした能力を教育の名の下に「評価する」ということでしかない。おめでとう!我々はとうとうコミュニケーション能力が「評価基準」になる社会に到達したのだ!とうとう人間は「自分たちの人間らしさ」まで明白に点数が付けられるようになったわけだ(※)。素晴らしい。そして、彼らは遥か上の階層から「これでみんな幸せだね!」と喜んでみせる、と。仮にそれが正しいことだったとしても、猛烈に不快な話だ。(※※)
(※)嫌味な物の言い方をしたが、「コミュニケーション能力」を公教育で指導することによって、(ソーシャルスキルの不備に基づく)社会のトラブルが減少し、結果的に今より「幸福な社会」が実現する可能性は確かに存在する。その意味でid:iammg氏の主張に耳を傾けるべき点はあろう。既に社会から逸脱してしまった自分としては、そういう「ポスト近代化能力」を称揚する「ハイパーメリトクラシー化した社会」という前提に違和感と嫌悪を感じるし、社会が自分を「ポスト近代化能力を習得させるために再教育」しようとすることに熱を上げるなんて、想像しただけでおぞましい気持ちになるが。
しかし、教育によって、将来自分と同じ不幸を感じる人間の絶対数を減らすことができるのならば・・・そういう社会を認めてもいいじゃないか、と理性は囁く。自分は所謂「非コミュ」だが、教育によって多くの人々が「コミュニケーション能力」を得て幸せに生きていけるなら、確かにそういう社会をこそ願うべきなのだろう。貧乏暮らしでも生きていけることを「今の自分が」望んだとしても、「自分の子まで」貧乏暮らしをすることを望みはしない・・・そういうことだ(これも「世間の常識」を内面化しすぎた物の言い方ではあるにしても)。まあ、そんな社会が実現したとして、犠牲になった非コミュのことなんて誰も思い出しはすまい。それで結構。そんな社会で回想されることに何の喜びも感じない。
(※※)単純に、「優しくない」「不快だ」というだけでなく、彼女の認識は多分に先入観に歪められている。留保は残されているとは言え、「非コミュの結果、就職に失敗している」的な発想を「ロスジェネ」に当てはめる発想は安直としか言いようがない。当時の経済状況を理解してそう主張しているのだろうか。頭痛で入院した患者に「ああ、お腹大変でしたねえ、痛かったでしょう」と言われても「何言ってやがる、このヤブ医者」という感想しか出て来ない。そりゃ、頭が痛かった人もいるだろうけど。
就職失敗の理由をそのような「非コミュ」に求めることで、経済の停滞によって生まれた不安定雇用層全体に「非コミュ」の烙印を押す危険を冒し・・・そして、そのようなロスジェネ全てに共有されているとは言えない前提を用いて、現世代の「没落エリート」との関連を論じる「とりあえず言ってみました」的な安易さは、見ていてあまり気持ちの良いものではないし、説得的でもない。まして当人が没落エリートではないのならば、尚更だ。(憎しみのこもった表現になることをどうか許してもらいたい・・・)正直に言って、そのような安直な発想を自画自賛する京大生と、彼女を育てた学校制度に強い危機感を感じる。
酷く悪し様に罵った後で言うことではないが、京大生にしろ、弾氏にしろ、社会に出て然るべき高い地位に就き、彼らの知識を生かしてのみ発揮できる仕事をこなす人々を自分は尊敬する。だがしかし、彼らが「苦しみに喘ぐ者」を見ず、その話題性のみをネタに語るのならば、いつか虐げられた者達の憎しみによって彼らは滅ぼされるだろう。心してほしい。紅衛兵は過去にのみ存在するわけではないのだ。