(ブクマのコメントやトラバを読んで、考えを整理した結果、自分の文章には
1.「努力しない人」と「努力しない上に、その結果生じた不利益に不満を並べる人」を混同している
2.「努力」と「成果」を混同している(努力したが成果が出ない、というケースを想定していない)
という二つの特に大きな欠陥があることがわかりました。
1.
以上の点を踏まえ改善してみます。
(努力が成果に結びつきやすい分野で、かつ「努力をしなかった場合どうなる可能性があるか」という情報が共有されているという前提のもとでは)
「そもそも努力しようとしまいと生き方は人それぞれだし勝手だし自由だ。
でも君がそれを選択したのならば『ブーブー言うのは』みっともない。
選択したわけでもないのに望まぬ状態に置かれたのであれば、それはなんとかしてあげたい」
となり、また、最後の式は
努力しなかった結果生じた不利益を被るのは当然だし同情の余地はない
と書き換えられると思います。
おそらく、出発点の「テレビに出演し、ひきこもりを脱出しようとしていた青年」を引きずって考えていたため、様々な矛盾が生じてしまったのだと思います。優先順位は人それぞれなのに、全てを「怠惰」という言葉で処理しようとしていたのが間違いでした。
2.
「努力を尊重する考え方」と「メリトクラシー」は異なるのではないか?という指摘に関しては、
全くその通りであり、きちんと考えずに使っていた自分を恥ずかしく思います。
自分が学生であり、勉強という「努力の絶対量が成果に比例しやすい」分野にばかり接してきたことが、この失敗の一因となっているように思います(さらに言えば、「メリトクラシー≒学歴社会」という誤解もありました)
勉強の代わりに、芸術や運動や仕事を代入してみたら、その齟齬がはっきりとわかりました。
読みづらい文章にも表れている通り、混乱してしまっていたのが、指摘を頂いて自分なりに整理できました。
また、不用意に目にしてしまい、不快な気分になってしまった方にはこの場を借りてお詫びを申し上げます。
そして、はてなダイアリーの使い方がよくわからないので、このような追記をすることをお許しください)
テレビでひきこもりの青年が特集されててなんか複雑な気持ちになったよ!
脱ヲタはヲタ趣味からの卒業ではなく脱コミュニケーション力の欠如+脱自意識過剰だというのはつくづく正論だなと思わされます。
同じく、脱ひきこもりは単純に社会と接点を持てば解消という問題ではないと感じます。
私は社会と接点を持たないことがマイナスなことだとは思いません。選択肢の一つだと感じます。というより、実際に接点を持たずに生活することは不可能なのです。
ひきこもりを分類しても、
・対「人」コミュニケーションをしない
・直接的ではないが何らかの形で人間と関わっている(ネット媒介など)
・継続的な人間関係でなければ、直接的な対人コミュニケーションも可能
などさまざまなパターンが考えられます。
「五年間で三人しか会話していない」というひきこもりの知人がいますが、彼はネットを介してイラストレーターとして生計を立てています。私はその生き方を否定するつもりはありません。
ただ、
対人コミュニケーションは永遠にトライ&エラーの繰り返しです。もちろん、精度を上げていくことによってミスを減らすことは可能ですが、しかし失敗の可能性が0になることはありえません。
また、勉強や技術的な修練と違って、努力した分が反映されているという実感が得にくいという要素もあります。環境によっては、全く努力が意味をなさない場合もあるでしょう。
トランセルを地道に倒せばレベルが上がってジムリーダーに勝てるというものではないのです。
「成果が出るよう工夫して努力する」
ということと、
「成果の出る努力しかしたくない」
ということとは全く違います。
ピアノでも、初見で譜面を引きこなせるのは相当な熟練者のみです。
バイエルをつまづきながらさらって、技術というものは向上します。
よって、対人コミュニケーションを避けたまま生活するのは一種の傲慢と言えるでしょう。
以上が正論です。
が、個人的にはこの種の正論はあまり好きではありません。
ひきこもりの「人間が怖い」という気持ちがよく理解できるし、リスクマネジメントの結果として「人と接しない」という答えが算出される途中式も描けるからです。
「他人は何を考えているかわからないし平気で自分を傷つけるから関りたくない」
という主張に対し私は全力でイエスと言いましょう。
が、
しかし、
自 分 の 部 屋 の 掃 除 機 ぐ ら い か け ら れ る だ ろ >放映されていた青年へ
掃除機は何も考えてないし別にお前を傷つけないだろ
そして夜22時に起きて朝8時に起きることも可能だろう
そして現時点で家がありパソコンがあり養ってくれる親がいるんだから
対人が求められるバイトをしないでもパソコン使ってできる仕事はいくらでもあるだろ。WEBデザインでもグラフィッカーでもプログラマでも。
そしてそれは独学が可能じゃないの?
それらの努力の余地に一切眼を向けず「人間が怖いからバイトしたくない」と嘯く様には怒りすら覚えます。
人間が怖いことと怠惰とを混同してはいけない。異なる概念を混同して自己主張する人間にろくなやつはいない。
いじめもそうです。不登校バンザイだよ!行かなくていいよ学校なんて!
でもそのぶん家で自習すべきだ。高校卒業資格っていう制度があるんだから。
みたいなことで悶々としてたら以前された、
「お前は頑張れる環境と頑張れる能力があってしかも頑張ることが好きだっただけだよ」
っていう批判を思い出してしょんぼりします。
前二つは頷けるとして最後の一つは納得できない。
頑張るのが好きなやつなんていないだろ!でも餓死したり蔑視されたりがいやだからみんなしぶしぶ頑張ってんだろ!マラソン大会って何あの苦行!
でもどう考えてもアリストクラシーよりメリトクラシーのが妥当だと思うし、(メリトクラシー:業績(メリット)を基準として社会的地位が決定されるという考え方。対するアリストクラシーは要は貴族主義)
逆にそう考えないとホームレスとか見ててあまりにもやりきれないです。
っていうことを考えてたら、そういう「努力しなかったゆえに人生の敗者となった人たちへ慈善を行うことの意味」について書かれた日記を見つけたのですが、その要約。
・自業自得と思うとムカつくが、死なれても寝冷めが悪いから救う。
・バカな人がバンバン消費してくれるからこそ資本主義社会が成立してるわけで(みんなが賢く貯蓄したら資本が循環しない)、だから好況になったときまた消費してもらうために救う。
・「知力の才能もいる賃金の高い仕事」だけでは社会は成り立っておらず、「誰でもできるけどつまんなくて長時間で安い給料しかもらえない仕事」をする人も必要だから、生かさず殺さずな程度に救う。
エ エー ……… (´Д`;)
なんか……あんまり……っていうか……全然……私の聞きたい答えじゃなかった……。
無理……私には無理……っていうか……不可能………。
やりきれねええなああ。
努力はすべからく報われるべきとは思わないけど敬意を払われるべきだとは思うのよ。
だから敬意を払われてなかった人は努力しなかった人であって欲しいし、そうでないと考えるとこの世界にはあまりに救いがないと思うのよー!
ああなんか途中から論点がすり替わった…。
今日の公式
・ひきこもり≒コミュニケーション能力の欠如≠怠惰
(ただ、当然、人間関係から受けた打撃により精神状態が悪化し何をする気力も湧かないという状態はあると思うし、そういうときは静養するべきだししてる人に対してノーと言うつもりもないよ。ただ、そこに留まり続けるor回復しようという意思を一切見せない、というのはおかしいと思う。もし本当に病気なら病院に行くべきだろうし、それで治らないとしたらそれは本人が責められるべき問題ではない)
・努力しなかった報いを受けるとは当然だし同情の余地はない=努力した人間に対してはそれ相応の尊敬が与えられるべき
ああーそんな感じー。
心が優しいとか、なんか一個でも才能があるとか、頑張り屋とか。
でもマルチに有能な人がいる裏書としてマルチにダメな人もいるわけでさー。
何か文章読みにくくて全体的に言ってることが良く分からないんだけど、 要は ・努力しなかった報いを受けるとは当然だし同情の余地はない=努力した人間に対してはそれ相応の尊敬...
「下手の考え休むに似たり」という格言がありまして、 メリトクラシーというからには、竹内洋ぐらい読んでるんだろうな? 「け、読んでなさそうだなwww」 というのが、私の印象...
http://anond.hatelabo.jp/20091004021958 を書いた増田なんだけどさ、なんかまだちょっと引っかかるのよね。 (努力が成果に結びつきやすい分野で、かつ「努力をしなかった場合どうなる可能...