理由は色々ですが、「嫌いではないけど優先順位低くてやめた」ゲームのその後が気になるので知ってる方は教えてください
自分がやってた頃はちゃんとしたストーリーは3章?くらいまででした
増えましたか?
コピーを作って歴史再現…?的な感じだったと思いますがあのままアニメ化するのは一抹の不安があったり…
PvP興味ないのが致命的でした
私はフェミ臭いけれど、「いわゆるある種のフェミニスト」とは付き合いたくないタイプなんだよね。こういう、フェミ様が正しいことを言った男は結局わかってない、みたいな謎のセクトイズムと揚げ足取りが「いわゆるある種のフェミニスト」と距離を置きたい一番の原因だよ!
性行為や性愛って、たいていの場合は複数の頭数が必要で、そもそも世界に自分が一人ぼっちならこんな問題自体が成立しないしさ。「関係当事者」として、男も女もフェミニストもアンチもミソジニーもミサンドリーも、誰であろうが誰かの問題を提示し合える方が、建設的で現実的だと思うよ。
まじか、ありがとー!
そうなのよ、自尊心MPがチャージされてれば、他の人にも「その人の自尊心」も発見できるようになるし、自尊心があるもの同士が尊重"し合う"ことができるようになると思うのよね。
それにそもそも、自尊心があれば、ニッチな性癖メン&ウィメンであったとしても世間様に指さされるレベルに突っ込んでく前に踏み留まれると思うのよ、実際、大多数のニッチな性癖メン&ウーメンはそうやってバランスとって日常生活もニッチもエンジョイしてるんだろうと思うので。あと、特に珍しくもない特殊性癖や叶わない思いをこじらせて犯罪っぽい方面に行きがちなのも、やっぱり自分を尊重する/他人に尊重されることでチャージされる尊重MPが足りない時に起こるんじゃないかなと思ってて。
でもまぁ人間ってたくさんの数と種類がいるので、全員とこういう「尊重の正循環」な関係を築けるとも限らないのが、難しいところで。
なので、元のクソフェミ増田さんの「正しい性的関係」があるかのような内容だと、正循環の中に入るのが嫌な人や上手くいかない人≒本当は一番このカリキュラムを受けてほしい一群、を弾き出すだけの悪影響になっちゃうよなぁと思ったんだよね。
まあ最終的にはそりゃ死んでみないと分かんないけどw僕よりは詳しい人いるんじゃないかなと思ったので
ツノ生えてるのかよ
私は愛国心というものにやや抵抗があるのだが、内心を分解すると、愛国心は利己主義に繋がりそうだという感覚が基本にあるからだと思われる。
利己主義とか言い出すと言葉が強いので反発を喰らいそうなのだが、実感はもうちょいふにゃふにゃで、
「人間、何やかんやで自分が所属してるグループや地域や国はエコヒイキしちゃいがち。
それを予防するために、普段から自分たちのことは意識して厳しく見るくらいで、バランスがよくなる。
愛国心とかはむしろ自分たちを甘く見る理由になりやすいから、警戒しておいた方がいい」
という感じだ。
これは、政治的な主義主張や、国際的なパワーバランスみたいなデカい話よりも、「手前味噌や自惚れはちょっと恥ずかしい」という日常感覚の延長にある。
他人に己を自慢すること、また他人にアピールせずとも内心で自惚れているのは格好悪い、というのが心の根っこの辺りにある。
更にその延長で、「人間はついつい自分に甘くなるから、自分に厳しく他人に甘くしようと意識して、やっと客観的には公正に近くなる」というわけだ。
この「自分に甘くなることに備えて、常に謙虚を意識しよう」って感覚は、百パー的外れではないはずだ。(そう思ってること自体、自分に甘いのかもだけどね)
世の中を見ても、信頼されていた人が身内や自分自身については甘いことを言って株を落とすケースや、中立なふりをしてポジショントークしまくってる人は多い。
私自身も、友達と喧嘩したり、同僚内で立場が悪くなった時に無理な自己弁護をしてしまい、五年後とかにやっと頭が冷えて「あの時の自分クソダサかった~はずかし~謙虚さ足りね~!」となった思い出は無数にある。
学校やら物語やらでも、自分に厳しく他人に甘くは基本的に良いこととして語られてきた。
その一つは、最近よく話題になる、「楽しく生きるには自己肯定感が大切なのに、欠けている人が多く、獲得するのも難しい」という話。
自分に厳しく他人に甘くという意識は、たぶん自己肯定感を削るだろう。
私は「人間は自然と自分に甘くなる」というのを前提としていて、
つまり「人間は自然と自己肯定感過大になるから、それを謙虚さで縮めて、ちょうどよくなる」というのに近い理屈なわけだが、
自己肯定感はそうそうデカくならねえよ、となれば前提から崩れる。
実は昔から自己肯定感を獲得するのは難しいのか、時代の流れで得づらくなっているのか、ネットで声をあげるのは情緒不安定な人が多いから自己肯定感欠けがちに見えるだけで実社会では自己肯定感デカい人が多数派なのか、気になるところだ。
また、「国を愛して力を貸すことは、自分じゃなく周囲のために力を貸そうって感覚だから、利己じゃなく利他だ」という反論もできるだろう。
これは、「己」や「身内」をどこで線引くかという話だ。
私の線引きは、どういう規模の話をしているかによって変わる。
国際的な話をする時は、だいたい日本までが身内だと思っている。
身内に厳しく他人に甘く、よって愛国心は厳しく見た方がいい、という感じである。
だが日本社会だけの話をする時は、個人や家庭や企業などの単位が身内で、他の個人や企業や日本社会全体が他人とすることが多い。
この規模での身内に厳しく他人に甘くというスタンスは、社会貢献や、福祉推進をしましょうって形になる。
日本社会を上手いこと回そうぜという意識なので、これは愛国心推進と言ってもいいと思うが、そう呼んだり呼ばれたりすることは少ない。
(実際、セーフティネットやベーシックインカムの議論で、愛国心というワードが出ることは多くないはずだ)
自分はだいたいこういう感じなんだけど、世の中的にはどうなんだろう。
利己主義・自己愛・自惚れなどが強くなりすぎないよう普段から自戒しとこう、自分に厳しく他人に甘くいこう、その一環で愛国心は警戒した方がいい、ってのはどんくらい同意されるんすかね。