はてなキーワード: 参考書籍とは
論文は 『頑張って勉強したこと』を書くものじゃないので『頑張って勉強したこと』が書かれていたら削除しろというのは当然のことだと。
それは、参考書籍のドコドコを参照 もしくは 参考文献一覧に書くだけ でよいかと。
論文に書くのは 『未発見の新しい事実』や 『既存の事実に対する追実験(考察)の結果』などだ。
※ただし、『未発見の新しい事実』は必ずしも成功である必要はない。XXという方法では成功しない。もしくはXXという方法(考察・実験・理論 等々)には価値はなかった。も未発見の事実である。
※Fランのたかだか学部生でも、僕はこんな事を『頑張りました』って書いてきたら全削除だと思われます。それはBlogにでも書いて下さい。
http://anond.hatelabo.jp/20091004223806
「増田で有村有村有村と叫ぶんだ そしたらはてな最強リア充有村(喪服ちゃんとカップル)が話を聞いてくれるよ! 」「はてなアイドルの有村さんに相談しようそうしよう」などというトラックバックを見かけたので。まあ、同じようなことを考える三十男のお節介と思っていただければ。
といっても「きついこと書くからね」(http://anond.hatelabo.jp/20091004184935)というトラックバック記事に付け加えることはあまりないのですが、とりあえず参考書籍を紹介しておきます。
上記記事で「あなたのお父さんがやっていることは「虐待」という名前が付いている」に始まり、家庭環境(この本では『機能不全家族』という専門用語で書かれています)について書かれている段落がありましたが、その内容を本1冊かけて詳述しています。ご自分がどういう境遇にあるかの把握に役立つことと思います。
最近読んだ本です。「10代のセルフケア」というシリーズ名のとおり、本来はあなたの年代に向けて書かれています。
長くなりますが、以下のような「共依存の人の行動や気持ちの特徴」チェックリストが冒頭にあるので引用します。
- 人からよく思われたり、好かれたいので、いつも一生懸命何かをしている(しようと思っている)。
- しばしば、自分は人より劣っていると感じる。
- なにかうまくいかないと、たいてい自分のせいだと思う。
- 失敗をしたら、人からきらわれるのではないかと心配だ。
- 自分は何ひとつまともにできないと思う。
- どうしたら人が幸せになるかわかるけど、自分が幸せになるために、なにが必要かはわからない。
- 自分がどう感じているか気づく前に、友達や家族から自分の思っていることを言い当てられることがある。
- 本当に思っていることを口に出すのは、たいていの場合危険だと思う。
- 異なる意見を言ったら、相手は自分を好きにならないと思う。
- いざこざを起こしたくないので、本当に思っていることを口に出さないようにしている。
- 人生を生き抜く最善の方法は、何があってもにこやかな笑みを絶やさないことだ。
- 誰かが怒ったり、議論をはじめたりするといごこちが悪い。
- 自分の願いを聞いてくれると、その人は何か見返りを求めているのだと思う。
- 何かをしてもらうより、してあげるほうが気分がいい。
- 誰かにほめられても、その言葉をうのみにはできない。
- 人から何かしてもらう必要はないと思っている。
- 誰かと親しくなることは、自分にはとても大変なことだ。
- デートをしたり、友だちと仲良くしていると、ふとだまされているような気分になる。
- 他の人を幸せにするために、自分がしたくもないことをしていると、しばしば思う。
- もう好きではない人とでも、以前のままの関係にとどまっている。
- 今までの人間関係は、ほとんど自分が傷ついて終わった。
- 他の人の問題を解決することは、自分の責任だと感じる。
- 友だちや家族は自分をあてにしていると思う。
- 風邪がうつるように、人の気持ちがうつってしまうことがある。
- もっともこわいことのひとつは、人から拒絶されることだ。
- ほとんどの友だちが、自分の助けを必要としていると思う。
- 一人でいるのは大きらいだ。
- 自分の人生が他人の気持ちや望み、要求に支配されているように思う。
- 自分のしてほしいことを人にしてもらうには、その人をうまく操るか買収するしかないと思う。
- 自分の人生をよくするには、友だちや家族をとりかえるしかないと思う。
- 気楽に楽しむことはとてもむずかしい。
- リラックスすることがなかなかできない。
- やるべきことをやるための時間が十分ない。
- 自分は誰よりも悩んでいると思う。
引っかかる点が多ければ、この本は読む価値があります。やはり、「自分で自分の未来を選ぶ」ことについて書かれています。
もうひとつ、終わりのほうに書かれた「共依存から回復した人の権利」も引用。つまり、以下の権利を自覚できないでいるのが共依存状態であり、それを回復するのはあなた自身なのです。
- あなたには、ありのままの自分でいて、自己肯定感を持つ権利があります。
- あなたには、自分自身の考えを持ち、自分自身の価値観を築く権利があります。
- あなたには、人や自分を傷つけるつもりでなければ、その価値観に基づいた選択をする権利があります。
- あなたには、自分の気持ちを持って、それを表現する権利があります。
- あなたには、自分の要求を認め、それが満たされるように人に求める権利があります(相手にも断る権利があることを知っておきましょう)。
- あなたには、人間として尊重される権利、話を聞いてもらえる権利、愛される権利があります。
- あなたには、精神的、感情的、身体的、霊的な境界を設定する権利があります。
- あなたには、失敗をする権利があります。
- あなたには、質問をして学ぶ権利があります。
- あなたには、変化し、成長する権利があります。
■「毒親といふもの、 (と自己責任論)」
http://anond.hatelabo.jp/20090117102440
を書いた増田です。
◆導入・指針・要約
「常に親の都合やニーズが子供のそれより優先する自己中心的な人間で、愛情というものが決定的に欠けている」 = 毒親。
そんな家庭で、軽度の近親相姦をされたりしながらサバイブしてきました。(軽く触れますが、詳しくは↑で)
高校では、毒親による毒親のための毒家族宗教からの脱却を図り、健全な人格を作り直しました。
・・・・でも、まだ序章です。
「あなたは生きる価値がないのよ」というメタメッセージをたっぷり吸って育てられたので、僕の潜在意識は「僕は生きる価値がないんだ・・・」と死にたがっている感じ。
大きく差し支えます。まともな人間関係を維持するのにも、何らかの労働をするのにも。学業にも。
毒親による精神的な影響を断ち切らないといけない。
そしていつかは「今日はカッコウと毒親がにぎやかだなあ、いとおかしや・・・」程度にまで、心を防衛する術を身に着ける必要がある。
毒親と対決して「勝つ」。毒親を扱った本「毒になる親」「不幸にする親」には、そうすることが かつて蹂躙された人格の復権に大いに貢献するといっていました。
(注意:ご自身が毒親と対決される場合、長期的で綿密な計画を立てる必要があります。思いつきで勝てる相手ではないので、専門家か、関連する書籍で味方を作ってからにしてください。)
・・・最初の一手を打って見ました。
◆最初の一手
「親の『言語運営能力』ひいては『思考力』の低さが、(もしかすると無自覚に)支離滅裂な行動に走らせていて、育児に際してとても有害であった。今現在もそうである。」
ということを冷静に母親に言ってみました。 参考書籍や、↑のエントリーでいただいたコメントにとても勇気付けられて助かりました。 ホントにありがとうございます。
◆毒親の背景
前のエントリーでは書いていなかったこと。
・虐待されて育った母、父ともに元チャイニーズorz(ちなみに俺の国籍は日本。中国語カタコト。あたまン中は完全に日本人。)
・母父ともに北京に住んでた。過激な政治抗争の焦点となって、家に暴徒や政府の人が襲ってきたり、
・母の家、書を政府の令で燃やされたらしい。
・母、家での親による虐待+政治的な居心地の悪さから身一つで脱中・来日。25歳くらいのことかな・・・?
・ジリ貧だった。
・・・今考えてみると盛り込むべきだったかも・・・すみません。
・・・同情はしてます。
というか、経済的な支援をしてもらってる段階で僕は親に感謝すべきなのでしょう。 その件に関しては・・・。
でも、これ以上性的な虐待をされるのも、うつになるのも、死にたくなるのも、2年で35キロやせるのも、願い下げ。
◆母はいつも言うこと為すことが支離滅裂だったのに、自覚症状がない。
毒親に関する本をいろいろ読んでみました。
↑のエントリーのトラバで紹介してもらった交流分析の本も読んでみた。id:masuda_oyuriokokさんありがとう。
いくつかある典型的な毒親の特徴のひとつとして、
・「支離滅裂な言動で子供を混乱させる」
・「そして情動的な追い討ちをかけて服従させる」
・「本人にはその自覚がまったくない」
というのがあげられていました。
我が家もこれが当てはまるような・・・
20代後半で日本語を取得した両親は、日本語が怪しい。 ものすごく怪しい。
送ってくるメールのすべてが、日本語崩壊してる。日常会話も怪しい。
せめてネタで「・・・でアルね」とかいってくれれば笑えるものの・・・
さて、そんな本人は今では日本語で思考してるらしい。
「言語は思考・思索の礎だ」というのなら、そんなに危険なことはない。
思考の車輪が、幼稚園児が書いた車の車輪みたいなものでは・・・考えが支離滅裂になりやすくなる可能性がある。
・・・恐ろしいことに本人は(コンプレックスも手伝って)それを認めることはありえない。
◆よろしい、ならばセンター試験だ。
その毒性に対する免疫をつくり、毒親を毒親として扱う情報収集の一環として、母親の論理思考力を点数化してみます。
・・・というか、それを受け入れるのかを見てみる。 拒否されたら、「拒否した」という事実が残る。
センターの現代文は、「論理思考能力」を図るにはとても便利。昨日、国語を受けてきたしね。さっき、現代文のセンターの過去問を母親に渡しました。
実際にやれば母親の論理思考力を測れる。 現代文の100点中、50点でも出れば諸手をあげて喜ぼう。
・・・俺は理系だけど、国語は得意科目。 センターなら満点狙う。
・・・化学に関しては触れんでやってください。
本人はものすごい勢いで拒絶していました。 さすがアグレッシブお母さん。
これが、僕の、初めての反逆。
これでいいのかあまり自信はありませんが・・・・
そしてもうすぐ、毒親から離れての一人暮らしが始まります。 寮で一緒だった友達が近くにいるので心強い。
なんとか「離れて暮らす」ところまでこぎつけることができました。
点数が出たり、大きな進展があったら、また。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
494 :名無しさん@九周年 :2008/07/12(土) 21:29:05 (p)ID:KuivLk0v0(3) つか、今鬼女板を除いてきたが、軍板の連中にゲリラ戦の戦い方 を指南してもらっていたぞ・・・。参考書籍も教えてもらってた。 しかも対ゲリラ戦争とか、ゲリラ戦争学とか、孫子とか本格的 なものばかり・・・。どんだけ鬼女って怖いんだよ・・・・。
542 :名無しさん@九周年 :2008/07/12(土) 21:33:23 (p)ID:KuivLk0v0(3) >>478 軍板の連中が参謀として出張してたからな・・・。その結果、今回の ゲリラ戦が展開されている。何人かの軍板の人間が鬼女を絶賛していたぞ。 相手のシーレーン上に機雷を敷設したりUボートで通商船破壊って、 どんだけ高度でダメージのでかい戦い方やってんだよ・・・。
虫歯の原因はカビの一種であるカンジダ菌が犯人だと言われています。
何故なら、通常の細菌では歯の表面に取り付いて穴を開けることが困難でも、
カビの仲間ならば付着・定住して長い時間をかけて徐々に
簡単に虫歯の予防をすることが可能になってしまうため、
多くの歯医者さんはこの話題を避けています。
そこで今回は特別に、普通の一般市民が簡単に虫歯を予防する方法を紹介します。
★★★★★ 虫歯をやっつけろ ★★★★★
虫歯の主な原因はカビの仲間である「カンジダ」が歯にこびりついている事です。
ですから、市販の歯磨き粉を使っても、丁寧に歯ブラシで磨いてもこれを退治することはできません。
(台所やお風呂場のカビ汚れが簡単には取れないことを思い出して下さい)
カビを退治するのに使うものは、、、? 考えてみて下さい。
そう、洗剤でカビを退治できます。
しかしながら、洗剤を薄めた液体で口をすすぐのはいかにも健康に害がありそうです。
他に良い方法は無いのでしょうか?
あります。消毒薬を使えば良いですね。
例えば「イソジン」が有名です。
しかしまだ問題があります。イソジンを適切な濃度に薄めた液体は消毒作用がありますが、
これでもしぶといカビを全滅させるには十分で無いようなのです。
他に方法は?
あります。実は、私達が良く知っている「ある物質」の殺菌力を利用するのです。
私達はその物質を毎日、毎日飲んでいます。
正解は・・・
「塩素」です。
水道の水には、塩素が入っていますね。これは誰でも知っていると思います。
塩素のおかげで、水道の水は雑菌が繁殖せずに浄水場から家庭まで届くのです。
では、水道水で歯を磨けばいいの?
いいえ、残念ながら、水道の塩素濃度では、歯にこびりついたカンジダを殺すのに
十分な濃度では無いのです。
ではどうすればいいのか。
カンの良い人は既にわかったことでしょう。プールです。
だからプールで定期的に泳ぐだけで、口の中を殺菌していることになり、虫歯にならなくて済みます。
虫歯予防の方法は、実はとてもシンプルで誰にでも実行できるものだったのです!
しかし、気軽にプールで泳げない人もいると思います。
大丈夫、簡単な解決策があります。
またこのとき、ラベルを見て余計な成分が入っている商品は避けましょう。
ブリーチを買ってきたら、ラベルを見て薄める濃度を確認します。
「シミ取りの場合1リットルにつき10ml」などと書いてあるはずです。
歯磨きをするときにはコップ1杯程度の水を使いますから、
ブリーチは1滴たらせば十分ということになります。
★さっそくコップに水道水を入れて、ブリーチを一滴たらしてみて下さい。★
歯ブラシでかき混ぜると、、、まるでプールのような塩素の臭いがしてくるはずです。
たったこれだけで、プールと同じ殺菌作用のある「塩素入りの水」ができあがりました。
(濃度が濃すぎると人体に有害なので、注意しましょう!!)
こうして塩素入りの水を作ったら、口に含んで1-2分クチュクチュとすすぎ、うがいをします。
(はじめてやる時は、何回か繰り返すと良いでしょう。小さい子供が飲み込まないように注意!!)
その後は普通に歯磨きをします。水を少し口に含んだ状態で歯磨きをするとなお良いです。
こうすることで、歯にこびりついているカビを退治することができます。
力を入れてゴシゴシ磨くと歯茎が痛んでしまうので、小刻みに動かすように丁寧に磨きましょう。
歯磨きを終えた後、いつもと口の中の感覚が違うかもしれません。
最後に普通の水道水でよくすすいでおきましょう。
週に1、2回くらい、このように塩素入りの水で口をすすげば、
もう虫歯になることはありません。
(注意、歯と歯の間の汚れなどを定期的にしっかり取ることも必要です。)
また、使い終えた歯ブラシは殺菌しておきましょう。
先ほどと同じようにコップに水を入れブリーチを1滴たらして、歯ブラシを数時間漬けておきます。
これだけで歯ブラシが殺菌されます。
晴れた日には、洗濯物と一緒に歯ブラシも干しておくと、尚良さそうですね。
毎日使って1-2ヶ月くらいで毛先が弱るので、新しいものに取り替えましょう。
より歯をツルツルにしたい人は、市販の「音波歯ブラシ」や「超音波歯ブラシ」を試してみて下さい。
これらの製品は歯にこびりついた細菌のバイオフィルムを破壊できるため、より歯がツルツルになります。
歯と歯の間の磨きにくい場所にもバイオフィルムは存在していて、虫歯の原因になりますが、
音波歯ブラシや超音波歯ブラシならばこれを破壊することができます。
(歯と歯の間の汚れをしっかりと取り除くには、必ず歯間ブラシかデンタルフロスも使うべきです。)
虫歯にならず綺麗な歯を手に入れられるなら安い買い物でしょう。
歯ブラシ部分だけを取り替える事ができる製品もあるので、1台買えば家族全員で使えます。
歯磨きの時間ですが、3分では足りません。
お風呂に入りながら、のんびりと丁寧にやさしく、【10分くらい磨いてみて下さい】。
虫歯の予防法はわかりましたか?
綺麗な歯、健康な歯を保って、長生きしましょう!!
★余談★
歯周病は、様々な細菌が歯茎周辺にとりついて歯をガタガタにしてしまう病気ですが、
これにもカンジダが関与していると言われています。
現在は市販されている処方薬の組み合わせで治療できることが知られています。
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「歯にカビの菌がへばりついてる」ということを疑う人もいるかもしれません。
しかし、位相差顕微鏡を使って口の中の汚れを観察すると、確かに菌がいるのが確認できます。
実はカビの菌は、胃や腸の中にも住んでいます。人間の体は菌と共にあるのです。
(腸に関する病気やアレルギーの病気は、腸に憩室や宿便があったり、腸内細菌のバランスが崩れて
悪玉菌が増えすぎたせいで起こるという研究もあります。)
また、虫歯の大半が歯と歯茎の間ではなくて「歯と歯の間」や「奥歯のミゾ」にばかりできるのは、
歯茎に近い場所においては細菌の活動が活発なため、真菌であるカビは陣地を確保するのが難しいからです。
(細菌のほうが先に食べカスを分解して素早く増殖します、これが歯垢です。)
※この文章は、多くの虫歯に悩む人の為のものです。
身近に虫歯で困っている人がいたら、教えてあげてください。
参考書籍商品の紹介を忘れていました amazonのリンクもつけます
歯周病の犯人はカビだった!―これまでの治療法では治らない (ベストセラーシリーズ・ワニの本)
(家庭用洗剤を利用した歯ブラシの殺菌についても触れています)
(やや専門家向け)
(虫歯よさようなら)