はてなキーワード: 核兵器とは
原爆を悪の兵器だと考えているのは日本人とドイツ人くらいではないか。それくらい珍しい。
「原爆のおかげで第2次世界大戦を早期終結し被害を最小に防げた」と習うだろう
日米の原爆に対する反応の違いは教育の結果であるということは意識した方が良いと思う
アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国のみが保持して良い。他の国は禁止するという立場。
ただしちょっと複雑なのは、日本国としては核拡散防止条約に批准しているのである。
国としては核不拡散、国民一人一人の思想としては反核という少し不思議な国なのだ。
一方、現在のアメリカの立場として核兵器の放棄ができないというのはなんとなく感じるところだと思う。
アメリカが国民に反核教育を施すことはこれからもおそらくないだろう。
米ソ冷戦時代には日本の核武装も盛んに議論されていた。世論が一気に反核に傾いたきっかけは第五福竜丸事件である。
1954年、ビキニ環礁でアメリカ軍により行われた水爆実験に巻き込まれ被爆した。
シンゴジラでは役人達の群像劇だったが初代ゴジラは研究者達による群像劇である。
水爆実験で生み出されたゴジラが街を破壊し始める。そこに三人の研究者が登場する。
上の二つは 核武装、原子力発電 のことである。三つ目は当時原子力委員を務めていた湯川秀樹の主張である。原子力発電を輸入する前に基礎研究を進め理解することを訴えたが受け入れられずに辞任した。以降湯川は反核運動を率いた。
初代ゴジラの主人公もまた研究者である。ゴジラを倒す兵器オキシジェンデストロイヤーを開発するが、それを公表すべきか苦悩する。使えばゴジラを倒せる。でも戦争で新たな犠牲者を生むかもしれない。
主人公はオキシジェンデストロイヤーを使いゴジラを倒した後、ゴジラと共に海に沈んだ。自らの命を断ち兵器の秘密を守ったのである。
以上が初代ゴジラのあらすじだ。当時の世相、そして原爆を生み出した核理論屋の苦悩を色濃く映し出している。
日本のアニメ・漫画・ゲーム等のコンテンツには悪の兵器として核兵器が登場することがしばしばある。
例えばメタルギアシリーズ。
メタルギアシリーズでは悪の兵器として核搭載二足歩行ロボが登場する。
初代の時点では特に他意なく、悪役の持つ最悪な兵器といえば核兵器、という日本のアニメでは特にめずらしくもない設定であったと思う。
ところがメタルギア・ソリッドが米国で大ヒットしたことで「アメリカの若者に反核思想を植え付けている」と批判の声が上がった。
小嶋監督がこの反応をどう受け止めたかわからないが、MGS2 以降ごそっと反核をテーマにした作品になった。
アニメやゲームが反核思想を広めるというのは興味深い動きだと思う
取り留めもなくなってしまいましたが
2023年現在も継続している各地の戦争(内戦、紛争を含む)の累計死者数は既に250万人を超えるんだよ。
78年前の原爆で死傷した50万人よりも多くの人間がその後の戦争で死んでいる。
https://anond.hatelabo.jp/20230801140703
これに対して、皆が口々に「書いてくれてありがとう」はあまりにも無責任だよ。
現世は生きている人のためにある世界なのだから、死人のために犠牲になる必要はない。
実際に被爆した人たちがどれだけのトラウマを抱えてようと、増田自身がトラウマを抱える必要は全くないのだから。
むしろトラウマを抱えていた人たちは後世にトラウマを残さない責任があるのだから、増田はもっと怒ってもいい。
勘違いするバカがいるから先に言っておくけど、だからといって戦争や核兵器の使用を肯定するわけではない。
だからといって、その抑止が、当事者と同じレベルのトラウマを跡継ぎに負わせることでいいわけないだろう。
それが本当に核兵器利用の抑止になるかどうかは疑問だし、もっと効果性の高い方法はいくらでもあるはずだ。
もちろんここでそれを議論したいわけではない。誰か頭のいい人がちゃんと考えてくれ。
ただ、被害を忘れないようにと自らの被害を追体験させることは、もはや加害行為であるということをもっと考えるべきだ。
ここで俺が言いたいのは、当事者たちがどれだけの未練を背負ったかは知らないが、そんなものは自分たちが墓まで持っていけということだよ。
こんな思いをしてまで個人が語り継ぐ必要なんてない。物言わぬ資料館に任せればいい。
それよりも許せないのは、こういう人の意見を利用して他国に石を投げることを肯定する人間たちだ。
それはもう暴力の肯定であって、戦争をなくしたいのではなくて相手を殴る自分を肯定したいだけになっている。
そのどちらをも持って、再び繰り返すべきではないというならわかる。
聞こえのいい言葉で呪いを個人に押し付けておいて、自らの暴力を肯定する人間が戦争反対を語ってくれるなよ。
自分は在日朝鮮人3世だけど、一連の話はまじで腹が立っている。
自分たちの悲劇は被害者ムーブで語るくせに、自分たちの加害については一切口にしないその態度に。
自分たちの祖先がどれほどひどい目に遭ったかも知っているし、それを理由にどれだけの横暴を繰り返したのかも知っている。
自分にしてみればそんな枷を背負いたいとも思わないし、自らの被害を自らの暴力の肯定のためだけに語ろうとする同胞たちにうんざりしてきた。
そういう輩を見た日本人は何をしてきたよ。
反省して悲劇を繰り返さないって思った?なんだこいつら関わらんでおこうとしか思わなかったろ?
いま自分たちがしている行動をもう一度見直すべきだね。
戦争をなくしたいなら、核兵器使用をなくしたいなら、過去の被害をほじくり返して騒ぎ立てることは無意味だし、むしろ逆効果だ。
過去はきっぱりと切り捨てて、未来の話だけをしたほうが遥かに建設的だよ。
少なからず自分はそう生きているし、子どもたちに過去の枷を背負わせるつもりは一切ない。
ただのお気持ち表明でしかないけど、俺はこの増田が素直に可愛そうだった。
それは君が背負うべき役割ではないし、そんなことを押し付けてくる周囲にもっと怒るべきだ。
ただ言わせてほしいのは、そうやって周りが褒め称えることは、自分たちが苦しみを背負いたくないからといって相手に押し付けるような呪いでしかないということだよ。
「増田がこれ以上呪いを背負う必要はない。自分たちが何とかするから自分の人生を生きろ。」
誰一人その一言を言ってやれないことのほうが不気味だよ。
いざというときは躊躇なく核兵器を打ち込みましょうって言ってるのを支持しながら
今回の話で「じゃあ◯◯って作品に登場した核実験はどうなんだ」みたいな話とか、
「いうて日本だって核兵器の否定はしてないじゃん」みたいな話とか出てきてるけど、
今回の問題は「原爆をパロってお笑いのネタにした」ことが逆鱗に触れたわけじゃん。
人間の感情も問題意識の閾値もグラデーションがあるもんじゃん。
「肩に他人から物理的衝撃を受けた」という事象があったとして。
1.軽く肩を叩かれた
2.肩をつつかれた
3.肩をぶつけられた
4.肩を殴られた
5.肩を刺された
5をされて怒らない奴はいない。いきなり肩刺されたんだが!?って言ってる奴に
でもお前、昨日隣の席の奴に肩つつかれても怒ってなかったじゃんって言うやつはバカでしょ。
肩つつかれるのを許容してるんなら刃物で刺されることも許容しろよ!って言い出したら、
え?そこまで説明しないとわかんないの?って普通はなるじゃん。
俺はそこまで信じてるわけでもないけど、核の抑止力というものがあると信じている人が
全ての核を同時に廃棄できないから核兵器を持ち続けることは必要悪であるとして
核兵器の存在をを許容してるんだから原爆をお笑いのネタにすることも許容しろよ!って言うのは
なんで核兵器の存在を許容する=核兵器に関するすべてのことを許容するになるんだろう。
今回の核のことにかぎらず、本来はグラデーションの話であるはずなのに
0か100かの両極端な話にして議論をめちゃめちゃにしたろwって人が多くない?
核爆弾は「脅威だからこそ手放せない」という面が強いと思うけどな。
ウクライナとか見てるとそうだけど、攻撃の目的が「相手の戦意をへし折る」である作戦は普通に多くて、
そういう意味じゃ核爆弾というのは一発で相手の戦意をへし折るし、使わなくても相手の戦意をへし折るという超効率的兵器だよね。
外から見てると、運動はここの接合に失敗してる気がするんだよな。
核兵器被害の実態(その恐ろしさ、被害のおぞましさ)を訴えて(伝えて)いる。それは分かる。(Aとしよう)
核兵器保持や使用の禁止を訴えている。それは分かる。(Bとしよう)
なんとなく、AとBを、一つの運動が別々に訴えているような感じがあって、なんだか団体・運動としての、焦点がぼやけてしまって、結果として運動そのものの効率性を失っている気がするのだよな。実態として本当に、別々に団体が存在してもいるのだろうが、大きな潮流としては本当は、A∴Bという繋がり方で全体としてはゆるやかに連動しているように見えて然るべきではないかと思うのだが。
A∴B、という繋がりが、俺が属しているような一般大衆レベルには見えてこないんだよね。Aという目的と、Bという目的、それぞれが別のもの別の運動として存在しているような感触がある。
だから、(Aに対して)「被害を訴えてばかり」だとか、(Bに対して)「現実を見ていない」みたいなタイプの批判が出てきやすいんじゃないだろうかな、とか思ってる。
まぁ禁とか協とかの党派性が生き残っているうちはやりづらいのかもしれないが。