はてなキーワード: ネタ番組とは
「パクりとか何の意味があるんだ…」とそれを演っている先輩と笑う客に対して呆れたのを覚えている
高3の時、出たがりの友人に誘われて文化祭で漫才をすることになった
ネタはもちろんオリジナル、ということで相談しながら作ったが、作っている本人としては完成度40%、全然練り上げられていないという代物だった
とは言え文化祭当日は黙っていても迫ってくる
不本意ではあったが満足いく出来にならないまま披露することになった
はっきり言って緊張していて表情も硬かっただろうし、ネタどうこう以前に演者としてもヒドかったと思う
加えて自分は教室の隅っこで昼飯食ってるような人間だったので、観ている側に味方も少なかった
ヒドい出来だけどもしかしたらウケるかも、という淡い期待もむなしくもらえた笑い声は大してなかった
漫才が終わり敗北と言える結果の残念さが胸にじわっと広がり、逃げるように降壇しながら思った
先輩がやってたアレはコミュ力があり人脈が広い人気者が漫才ごっこをすることに価値があったんだなと
後から席が隣なだけの大して仲良くもない男に「えっ結構面白かったよ」と言われたのが嬉しかった
まぁ悪くない思い出かもしれない
「俺も何か作りたい」
演劇もやってみたかった、声優もやってみたかった、バンドもやってみたかった、芸人もやってみたかった、
勉強と同時進行してみてもよかったろうが、普通に就職することこそ正義と思い込み家庭でもそう言い聞かされて居たから趣味としてやるのもなんだか恥ずかしかったので結局部活等の形でもその世界に飛び込むこともなかった
親にやりたいことを聞かれても大学進学したいと嘘をついてそのまま大学進学して就職した
くすぶった思いをどこかで解消することをしないまま過ごしたのも、モヤモヤと持っていた恥ずかしさが起因していたと思う
高3の時にとりあえずヘタクソでもいいからやってみたことに倣って何かやってみようという衝動が何故か今沸いている
実際に自分の体を何か使うという形にこだわらなければ、今はネットがあるし色々な形で発表できるしやろうと思えばやり方はいろいろありそうだ
なんで大物扱いされてるの?
べつに批判したいわけじゃなくて、単純に謎。特に時事ネタなんて、サラリーマンの飲み会で言っても痛々しいレベルだと思う。
人によって好みもあるだろうけど、太田光を面白いと言っている人を見たこともない。
ちなみにおれは、好みでいうと、35歳ぐらいまでの松本人志が好きでした。それ以後まっちゃんは全く面白くなくなったけど、それまでの人気から地位を維持しているのは理解できる。
以下、追記。(2016/1/25 18:30時点)
ここで「いや面白いよ」と言っても個人の感覚の違いと言って終わりになるのでいいとして、売れた今でも若手に混じって新ネタの漫才やってちゃんと会場の笑いとってるのは本当に凄いと思う。
俺も面白くない派。一方で彼は努力家だとは思っている。元日のネタ番組で大晦日の紅白をいじる漫才が披露できるスキルは尋常ではない。
⇒たしかにね。
「太田光を面白いと言っている人を見たこともない」 ここに面白いと言ってる人が現れたとして(もう何人も現れてるけど)この人の考えは変わるんだろうか
⇒変わるかも。「面白いと言っている人を見たこともない」が「ほとんど見たことない」や「見たことはある」に変わるだけだけど。
面白いと思う。でも、それ以上にしつこい時とウザい時が多すぎるとも思う。三振かホームランみたいな印象だから、ついつい期待しちゃう。(そして外れる)
⇒確かに、しつこい時とウザい時が多すぎるね。おれがダウンタウン好きだったのは、そういうマイナスがほとんどなくて、安定してたっていう点もあるかも。松本の「一人ごっつ」に、しつこくてウザい時間帯はほぼなかったと思うし。(こういう発言は、昔の2ちゃんとかだと、ナイナイファンや爆笑問題ファンから「信者」として叩かれたもんですw)
別に爆笑問題を特別好きでも何でもないけど、自分が認めてないものが世間から評価されてる時にこんな風な思考になることにそろそろ名前がついて良いと思う。大物扱いとお前の好みは1ミリも関係ない。
⇒自分に理解できないものが流行ってたら「なんで?」って思うのは当たり前のことなので、べつに名前つけなくても良い気が。
既視感ある。太田ってテンプレ的にこういう意見沸くよね。面白いか?と必ずいうけど、実際はそこよりも政治的・文化的発言に相容れなくて反感持ってるんだろうなと感じる。
⇒俺は反感はべつにもってないけど、もってる人たしかにいるよね。
そう思った時期もあったけど、ラジオを聴いてガラッと印象が変わった。投稿を読み上げる太田光は、役者そのもの。自分に限って言えば、腹を抱えて笑うこともある。
太田さんというか爆笑問題が大好き。太田さんが時事や文学について語るのには「意見が違うなぁ」と思うけど、齢50を越えた二人が中学生みたいな喧嘩をするのがおかしくてたまらない。ラジオ聞けラジオ。
ラジオ聞けばわかるけど、あの人は他の誰かの筋書きを論評なり演出なりするのがうまいんであって、あの人自身がどう、ってのはあまりないんだよな/なんでみんなもっとウーチャカの狂気に気づくべき
⇒ラジオきけっていうコメントがたくさんあった。なるほどねー。ただ、昔ネットで、「伊集院光のラジオを聞くと彼が天才であると分かる」みたいな説を振りまいている集団がいて、聞いてみたら、そんなに面白くなかったという経験はある。
コネはあるよ
面白いとか面白くないとかではなく、アンタッチャブルなものに触ってくれるんじゃないかという期待感だけでそこに居る。
(まあコネというか、談志に非公式にではあっても後継指名されているのが無下には扱われない理由の1つではあると思う。あと奥さんの能力と)
マジレスするとビートたけしとパイプがあるからでしょ?同様にビビる大木も「抱き合わせ販売」状態ってどこかで見たぞ。カラクリはあるだろうにanonymousを叩くコメの意図がわからん。マウント取りたくて仕方ないのか?
⇒そうそう、信じるかどうかは別にして、こういうのが気になったの。べつに、太田がテレビに出てるのが嫌とかいうのは全くなくて、単純に、お笑いとしてのクオリティが低い(と俺には感じられる)のにそれなりの地位に付いている理由が知りたいなぁと思っただけ。
僕も爆笑問題は好きではないけど、こういうのはなんというかダサいな単に。/ 「太田光を面白いと言っている人を見たこともない」と「爆笑問題ファンから「信者」として叩かれたもんですw」が矛盾
⇒たしかに、「見たこともない」は言いすぎたな。しかしよく考えたら、昔「ダウンダウン信者」とネット上で抗争を繰り広げていたのは「めちゃイケ派」や「笑う犬派」だった記憶が蘇ってきたので、「爆笑問題ファン」をわざわざここに挙げるほどみてない気は依然としてする。
太田の面白さも理解しかねるが、「それ以後まっちゃんは全く面白くなくなったけど、それまでの人気から地位を維持しているのは理解できる。」こっちの方が理解できない。
⇒賛成できるという意味での理解ではなく「世の中そんなこともあるだろ」っていう意味での理解です。
あの人は不思議な感じで、面白いと思った事がないんだけど「俺が見てないとこで面白い事言ってるんじゃないか」という謎の期待感というかハッタリがきいている。/テレビ・ラジオっ子には分かるまいw
⇒なんか分かる気がする。
⇒そういう上手いボケを連発してくれる期待感がないんだよなぁ。
なんか思ったよりブクマがついて微妙にホッテントリに上がってて、太田さんに申し訳なくおもっておりますが、意外に「いや、面白いから」みたいなコメントがたくさんあったので逆によかったということにしときましょう。
お笑いの賞レースやネタ番組の実況でたまにあれは面白いけど別に漫才ではないわと言う人たちが出てくるが意味が分からない。
よくある意見では俺が○○やるからお前が〇〇やってと言って途中でコントに入るパターンは漫才じゃないって意見。
去年の12月のM-1でトレンディエンジェルが優勝した時もまあ面白かったけどあれは漫才ではないという書き込みが普通にあった。
本当に漫才じゃないのだとしたら漫才の大会であるM-1でトレンディエンジェルが勝ち上がってること自体がおかしいと思う。
少し前に、テレビ業界の人に言われた事がある、お笑い芸人が今テレビに出るには「二番目に面白い」がこないと出られないと。
勿論、「面白さ」が一番にきていて、テレビに出ている人は沢山いるが、もうそれは出尽くしており且つ、ネタ番組が無い今日の業界では、それを超える、真新しさとか面白さが無い限り、出てこれないということらしい。
占いだったり、スピリチュアルだったり、頭がよかったり、歌がうまかったり、絵がうまかったりする芸人さんがテレビに出ているのはそういうことらしい。
なんか特技があって、その上で「お笑い芸人」だから面白いですよっていう+αがないと今は出られないと。
恋愛でも一番好きな人とは結ばれない。なんてよく言われるけど、確かにそうだなって思う。
相手を思うあまり、嫌われたくないから優しくしすぎて、重苦しく取られたり、本来の自分が出せずに、そのギャップや良心の呵責に苛まれるたりするからだ。
だから、「二番目に好きな人」と上手くいきやすい。一番目に好きな人がいるから、二番目にはそんなに干渉しないし、嫌われてもいいという余裕があるから、ありのままの自分がでる。
No.1にならなくてもいい、もともと特別な Only oneってそういう意味なのかね
おれみたいな場末のスナックのような職場でエンジニアやってた人間からすると、もう神々しいわけですよ。
もうね、こっちが軽自動車で走ってる横をボルボル君で颯爽と抜き去っていく。
だんじりの山車の上でソイヤ、ソイヤやってるのをこっちは羨ましそうに見ているのです。
で、こんな凄いサービスは早速登録だ!と使ってみたところ、みなさんお書きのように
アルゴリズムがどうのこうの、長い目で見てやれのどうのこうの、いや結果でしょ?結局。
来ねぇんだよ、おれのところにピザが!あつあつのチーズとろとろのピザが来ないの!
あんだけイキられたのに送られた来た情報がもう1日前に見た情報ってこういうこと?
カビカビチーズのピザなんか誰が食うんだよ。もうピザネタはいいや。
これはね、期待してドアを開けたら写真と全然違うデリヘル嬢が立ってたときと同じ衝撃なわけですよ。
全然ルックス違うじゃねーかって苦情の電話したら、写真写りがとかスーパースカウトがスカウトしてきたから間違いないとか言われてる訳です。
少し興奮してしまいました。上2行は忘れてください。
すでに見たページなんて二度と開かないわけだから、おれの興味あるページなんて一生わけるわけないじゃん。
これはね、すでに昨日買って読んだ週刊誌を次の日にまた買って読むかって話なんですよ。
これはね、年末のM−1で見せられたネタを新春のネタ番組で再度見せられて笑えるかって話なんですよ。
これはね、上司が酔って何度も同じ話をしてくるのにうなずきながら、そうなんですか?すごいですね。と言えるかって話なんですよ。
ボクはね、やさしいからそうなんですか?すごいですね。って言っちゃうんですよ。何度も何度も聞かされて、周りもあいつが相づち打つから
上司が機嫌良く話をするんだって目でこっちを見るんです。おれまで戦犯にされてるんですよ。
少し興奮してしまいました。上5行は忘れてください。
おれたちは凄いんだということを全面に出した限り、中途半端に凄い事やっても評価されないってことなんだろうな。
せめて彼らが軽自動車で営業に来ていれば、状況も変わったかもしれない。
出版は老舗の雑誌が次々と廃刊し、テレビは視聴率低下によって広告離れが起き、音楽は久しくミリオンが生まれていない。
一方、ネットの世界に目を向けてみるとニコ動、youtube、pixiv、twitter等々、様々なサイトが盛り上がりを見せ、大きなうねりを生み出そうとしている。テレビ等の既存メディアとは対照的だ。
だがしかし、言ってしまえばネットのコンテンツはどれもこれも素人の提供する予算もクオリティも低い代物である。
長らく映画ファンの間では邦画がつまらない理由は「ハリウッドに比べて予算が少ないから」と言われてきた。
何故、既存メディアの提供する潤沢な予算で作られたプロのコンテンツよりも、ネットのコンテンツが支持されるのだろうか。
ネットのコンテンツの中には、企業制作の予算のかけられたコンテンツも存在するが、それらも不思議と支持されていない。何十分の一、何百分の一の予算で作られたyoutubeの動画の方が支持される。
この現象を紐解くために、低調な既存メディア内において、根強く支持されるコンテンツに目を向けてみよう。
そうすると人気バラエティや人気お笑い芸人に対して、「脱力」だとか「ゆるい」だとかのキーワードが頻出していることに気づく。
二つとも、元はマイナスな意味を持っていた。「脱力」は「落胆」と同義だったし、「ゆるい」の場合は、例えば「ゆるキャラ」は当初は嘲りの目線が多分に含まれていた。
ここでは「脱力」「ゆるい」を総じて『ロウ』と呼称しよう。
今、世の中で支持されているものはそのほとんどが『ロウ』なものだ。
お笑いのネタ番組はキッチリと構成されたコントを見せるものから、数秒の一発ギャグを次々と見せるという『ロウ』なものに変化したし、別の潮流の『すべらない話』も人がいてただ面白い話をするだけ、という『ロウ』なものだと言える。
深夜バラエティがゴールデンに行って失敗するのは、『ロウ』なものから予算のかけられた『ハイ』なものになってしまったから、と言える。
そして、『ロウ』なものが何より一番溢れているのは、そう、インターネットの世界だ。
素人の一個人がお金をかけずに作った動画なんて、「ロウ」としか言いようがない。
では、何故『ロウ』が人々の心を惹きつけるのだろうか。
その答えは、コンテンツ産業の中でいち早く不況に見舞われていた出版業界を見ればわかる。
出版業界では90年代半ばから「出版不況」と言われるようになったが、既に80年代には「活字離れ」と言われる現象が起きている。
「活字離れ」という状況下で、それでも数百万部売れるベストセラーは、「文章力がない」「素人が書いたようだ」と書評家が酷評するという奇妙な現象が起きていた。
ここでも『ロウ』が支持されるという状況が立ち現れたのだ。
評論家の中島梓は著書『ベストセラーの構造』にて、「私にも書けるかもしれない、というアマチュアの親しみやすさ」が支持される要因だ、と分析した。
四半世紀経過した現在、まったく同じ分析が下されたネットのヒットコンテンツがある。『初音ミク』だ。
ネットには『ロウ』が溢れている。『ロウ』の「アマチュアの親しみやすさ」が人々を惹き付け、「私にもできるかもしれない」と思わせる。その思いは初音ミク等のソフトウェアがサポートし、発表する場所はネットが与えてくれる。そうやって生まれたコンテンツを見た人がまた同じ思いに駆られ……ネットはそうやってぐるぐると回り続ける。
地デジはおそらく失敗するだろう。何故なら双方向を視聴者からのリアクションしか想定していない。ネットの双方向は、互いに作りあい刺激しあうことだ。
一億総クリエイター社会では、受信機は同時に送信機ではなくてはいけないし、コンテンツを見る場所は同時にコンテンツを発表できる場所でなくてはならないのだ。