はてなキーワード: 類友とは
最近、とてつもなくさみしい。
わたしがさみしかったり悲しかったりするのは発作のようなもので、定期的に人肌恋しくなったりひとりでいることが耐えられなくなったりする。元来ひとりでいるのは大好きで、ひとりでどこへだって行けるしなんだってできるんだけど、急激に「誰かといたい」「誰かに大切にされたい」欲が増して、ふとさみしくて泣きそうになってしまう。メンヘラじゃん?と思うかもしれないが、まったく否定しない。わたしは恐らく季節性のメンヘラである。
さみしくなるのはどんなときなのか考えた時に、「自分が自分を大切にできない時」だと思い至った。自己肯定感が下がって無力感に苛まれて、自分の居場所がないなと思った時。
ここ数年、昔と比べたら自己肯定感はだいぶ上がった気がするが、他人に影響されたり何かに失敗したりすると自己肯定感がどん底まで落ちて、何のために生きているんだ……となる。
そういうときは舞台を見たりお友達とお喋りしたりしてなんとか元気を保っているのだが、今回はそのお友達との会話で、虚脱感におそわれ悲しくなってしまった。
先日誕生日を迎え、自分のライフプランについて考えることが増えた。類友というか、わたしの周りにはオタクばかりがいて、みんなそれぞれに趣味を楽しみながら歳を重ねているけど、そうじゃない友達に会ったとき、「生き方」とか「暮らし方」の正解がわからなくなってしまう。
正解なんてないんだろうけど。自分とは異なる選択をしている友達と会うと、何が違っているんだろう、わたしはどうしたいんだろうと考え込んでしまう。
その選択ができない自分はやっぱり人より劣っていて、至らなくて、情けないんだ。
でも、もし人生をやり直せるとしても、自分はまた同じ選択をしてしまうとも思う。
在り来りな言葉だけど、自分の人生で反省はしても後悔はしたことない。いつだって自分が思う「正しい」を選択し続けてきた。進学でも就職でも人との出会いでも、後悔したことは一度もない。
そんなに自信を持って歩んできた人生が、他人の生き方を覗き見ただけで至極価値のないものと思い込んでしまう。
誰かに肯定してもらいたくて仕方がない。誰かに大切にされたい。
自分は好きなキャラの二次創作の絵をTwitterに載せている者である。
版権の力を使ってではあるが、自分の描いた絵にn千もふぁぼがつくと、リアルで誰からも相手にされない自分にとっては承認欲求が満たされてこの上なく気持ち良い。承認欲求が満たされるのもあるが、絵に反応がくると推しキャラが好きな人がこんなにいるとかと(斜陽ジャンルのため)、萌えを共有できた気がしてとても嬉しくなる。
版権元と、自分の大したことのない絵を見てわざわざいいねを押してくれる人たちに感謝。
絵を載せているアカウントはリアルの友達にも公開していて、ありがたいことにその人たちもたまに反応をくれたりする。その中の1人についてがこの日記の本題であるのだが、まあ端的に表現してしまうと嫉妬のようなツイートをよくしてくるので少し困っているのだ。
自分のようなオタクの友達だから、そのなかで絵を描くタイプのオタクも類友でいるわけである。自分と同じように絵を描き、Twitterに載せる。ネットに載せるということは、どんな落書きであろうと「反応もらえないかな」という感情を含んでの事なのではないかと自分は思う。
ネットには絵が上手い人が山のようにいて、そこまで上手くない人はそれより遥かに多く存在している。上手い人の絵は拡散され人の目に留まりやすくなり、たしなむ者たちは目が肥えていく。そうなると、そこまで上手くない人の絵にはどうしても反応が来ないというのが現実である。
自分の友達はよく、時間をかけて描いたのにファボ0、絵描くのやめる、本垢のフォロワー○○○人いるのに反応してくれるやついないetc…と呟いている。リア友のみのff5くらいしかいない垢で言っているので、私のアカウントの絵の反応数をみて言っているのだろうと、大体予想はつく。
自分も上手い絵を見ると、こんな風に描けたらな〜だとか、こんな風な配色ができたらな〜と思うし、軽くではあるが嫉妬と憧れが混じった感情になる。絵に限らず様々なところでそういった感情になることは誰にだってあるだろう。
しかし、そういう人間の汚い感情を、面と向かってではないがぶつけられると、反応に困るし、若干嫌な気持ちになる。
気持ちはわかる。Twitterは好きなこと呟けばいいと思っているし(自分もそうしているので)、ちょっとだけならそこまで気にならないからスルーしていたけれど、それが積み重なってくると、、、となってこれを書いている。