はてなキーワード: 理学とは
でもま、材料工学とか、そういうのやってたほうが求人が多いのは事実だし、文型就職も視野にいれるんならそりゃもういろいろです。
学部で就職するんなら専門性なんてそんなに見られないし、専攻よりも大学名がメインで効いてくるよ。
ま、どんなでも就職できればいいんなら工学系とかに行くべき、っていうのは確かに正しいと思う。
でも、生物系じゃきついの? って言われると、完全に個人次第、と言わざるを得ない。
ちなみに後輩たちの就職状況を見ていると、どう考えても使えない無能学生が内定とっているから、薬品系はそんなに景気悪くないように見える。
よっぽど景気いいかよっぽど節穴かどっちかだな、って思ってます。
http://anond.hatelabo.jp/20110123214731
どう?昨日分かったと思うけど、
適当な応援メッセージをバカにしたような反応http://anond.hatelabo.jp/20110123231637 すれば、周囲の人はついていかないし、いい情報を与えようとは思わない。
どんな些細な馬鹿馬鹿しいメッセージでも、上っ面だけでもいいから、真摯な対応http://anond.hatelabo.jp/20110123233257 しておけば、何かしら情報を与えてあげようって気分になるんだよ。
世の中ってそんなもの。但し上っ面の対応が上っ面ってばれてしまうような、程度の低い奴もいるから、上っ面をちゃんと固めるだけの頭の良さは持ってね。
あと、頭悪そうに簡単な言葉を使って試そうとする人は沢山いる。それが東大生になってしまった所以のコンフリだと思う。そこも見極めてスマートな感じに返しておけば更に人は一緒にいてくれる。
頑張ってね。
あと、誰かも書いていたと思うけど、東大理一に行って理学部が勝ち、工学が負けって考えはそれは「誰かの」考えを真に受けた、ちょっと時代遅れの発想。
理学だろうが、工学だろうが、バックグラウンドを考えもせず企業の部長をコケにしてる奴の話なんかを主体に考えてたら、自分も同程度の視野の狭い奴になってしまうよ。
折角沢山の情報が手に入る場所にいるんだから、そんな他人の押し売りに洗脳されて時間を無駄にしないこと。
自分で理学進んだ人の良い例や、工学進んだ人の良い例を探して、どっちがいいか、とか自分のやりたいこと主体でいいじゃない。
昔はバイオはそこまでいい位置では無かったけど今はどうだろう?ね、分かるでしょ。時代によってニーズや位置なんて変わってくるんだ。
それ以前に理学がどうの、工学がどうの、とか未だ入っても居ないのに推測で差別して安心してるのってちょっと具合が悪い人にしか見えないんだよ。
頑張ってね。
というのはいかがなものでしょう。
ささやかかもしれないけれど、なにか新しいものをつくるだとか、そうでなくても製造工程を見直して製造効率を高めるというだけでも、すごく立派なことだ。
事故なく発電所が稼働してくれてることで、こうして夜更かしだって出来る。
教育機関の中では、特に大学では、アカデミズム至上主義がある気がします。
現在教鞭をとっている人間のほとんどは、高等教育機関から高等教育機関の教員になった人間で、アカデミズム至上主義から一歩も出ていないことがほとんどです。
一方、民間企業に勤めると、利益至上主義の洗礼を受けたりします。
金があれば幸せか?
人望か?
よき伴侶か?
答えなんかないんです。
世の中理学だろうと工学だろうと、教授職だろうと人脈ありきだから(ごめんこの辺しかわからん。部長は今人脈作ってなくてもなれそう)
ツテ作るのとか顔だけ覚えて貰うとかのレベルでいいから媚びない程度で一二回話してね。折角ネットワーク作りやすい所にいるんだから。横の友達も大事にしよう。
で、別に国内だけに拘る事はないからね。それも付け加えておく。
部長になるんだとしても、友達作りの練習にももってこいだよね。
俺ももう結構歳食ってしまったし、元の専門が純粋理学系なので、今更どうにもならんですね。ちなみに修士出です。
仮に無理矢理入ったとしても業績面で同世代と圧倒的に差があるし、企業に行くような専門じゃないし。
どうにかこうにか学位くらいは欲しいんですけどね。仕事とも元の専攻とも関係無いことをシコシコ勉強してますが、一人でテーマ決めて論文書くとかは実際かなり困難ですね。
日本のどっかのよくわからん大学院の博士課程くらいなら入れるような気もしますが…。
GPAは昔計算したことあるけど忘れました。学部時代なら専門科目が全部優だったので、3.5くらいはあるかもしれないです。
親の話は、経歴とか入試上は関係ないですけど、やっぱ生育環境で圧倒的に差がつくなあと感じますよ。
俺なんて中高生の頃は右も左も何もわからず数学の本とか読んでましたけど、あそこで少しでもまともなガイドラインを示してくれる人がいたら違っただろうなあと思います。
元増田だけど
僕は芸術性というのは第一原理的なモノが必ず作用している、つまり普遍性を伴っていると考えている。
それゆえに時代性、歴史性を考慮した作品評価は商業的にはありだけど、芸術的に評価するのはどうかと思っているよ。
本当に芸術であれば全時代的に、マーケットに左右されず評価されるはずだし、そうじゃない作品はいくら御託を並べたところでそれは商業だ。
研究って言っても、最近の工学部だったらメディアアートばっかり流行って娼婦みたいな自称研究者ばかりだしそういうくくりだと研究をクリエイティビティとは思えないね。
理学分野でも日本の科学者は科哲の教養が無いから、実際に何を研究しているのか理解していない。
小室さんはその辺が理解できてたけど、彼がアカデミックで異端であり続けたことはつまりもう日本のクリエイティブのあるアカデミズムは死んでるんだと思うよ。
流れというか流行と偉い人の意向に沿って、働きアリをすることがアートか?
たとえばそういう彼らがいくら新しい発見をしたところで、それは偶然買った宝くじが当たったくらいの価値しかなくて、一過性のモノでクリエイティビティとは言えないと思うよ。
私の知る範囲での事なので、全てには当てはまらないことを前もって言っておきたい。
というか愚痴だ。
理系、特に理学においては、「研究者になる」ということに、憧れを持つ人は少なくないと思う。
そして、一度はノーベル賞を取ってみたいと願い、
(行動はともかく)燃える時期があるのではないだろうか。
しかし、そんな気持ちはゆっくり熱せられ、急激に冷める。
おそらくピークは学士3・4年。研究と勉強の大きな違いにショックを受けるからだ。
そして、卒業研究が、彼らの望む研究とは遠くかけ離れたものになることも毎年のようにある。
彼らに全くやる気が無いわけではない。
1年で(正確には半年強だが)やれることなど、たかが知れている。
時間が不足しているのだ。
だから、担当教員は悩みながら、1年でできる程度の課題を彼らに与える。
不幸なのは、それに気づかず、
「大学ではたいしたことなど出来ない」と見切りをつけていく学生たちだ。
あるいは、エントリーシートの数百文字程度の内容には、なっただろうか?
(ここでの定義は、「最終学歴を大学院として、卒業大学より上位の大学に大学院生として所属すること。
その行為によって学歴はよくなるはずなのだが、己の学歴に対するコンプレックスを逆説的に強めてしまうこと。)
ただ、ネット上や、彼らの中でもコンプレックスの強い人物の心のなかには、はびこっていることだろう。
しかしながら、有名大学の大学院に進学することは悪いことではない。
現実的に、いわゆる上の大学になるほど、科研費その他もろもろにおいて、
資金は潤沢な研究室が多い。
良い研究をするには、良い環境の中でという考えもあるのだから。
問題はその一歩先にある。
大学院に進学したということは、「閉鎖性」に身を置くと同義である。
例えば、
・研究自体が一人=独りで行う
・取り組んでいること自体に特許や機密性を持ちうる
もちろん、例外は沢山ある。持ちつ持たれつで、他の研究室と交流する研究室もある。
これは私の強い主観だが、大学院生が学部生より無気力に感じる時がある。
彼らがモラトリアムを満喫しているのではなく、「閉鎖性」に慣らされてしまったのではないかと、
心配してしまう。
(本来は学部3年で考えておくべき事だが)
博士になるべきか否か?
ここで就職を選んだ人は幸せ者…と言われる(私はこの考えに賛同できない)
理由は明白である。
・学費をさらに3年以上も払いながら研究する金銭的問題。
・視野が狭くなる
あなたは他にも理由を挙げることができる。
いろいろな問題点があるが、ひとまず「閉鎖性」に焦点を絞りたい。
多く言われるのは、「論理的に物事を話せる(ロジカル・シンキング)」だ。
企業にとっては、その研究内容よりも、学部で学んだ専攻が重要だろう。
すると、「どのような閉鎖性を含んだ環境に身をおいたか」が重要になってくる。
・一つの物事に没頭できる環境がある
・日常生活の自由度という点においては、修士が最も高い。学部生には単位の問題、博士には博士号の問題がある。
・時間は研究に削られるかもしれないが、タイムマネージメントをすることにより、効率的に行動を起こせるようになってくる。
・学会発表等の機会が増え、「自分の考えを分かりやすく説明する(コミュ二ケーション能力)」
(社会人には負けるだろうが)
人間関係は学会・バイト・趣味・留学・お隣りの研究室で補うこともできるんだよ。
私はやる気のない受動的な人間ほど、閉鎖性のデメリットをもろに受けてしまうと考えている。
私の立場は、有機化学系の研究に携わり、仕事上ある研究室をちょくちょく訪問する研究員としておこう。
彼らの多くは就職先が決まっているあるいは、博士へ進むことが決まっている。
けれども、以下の状況からは、その能力を疑わざるを得ない。
・彼らは集団で、気に入らない博士後期の学生をいじめ、うつ病に追い込んだ。いじめられた学生は、病気を患ったまま研究室を去った。
彼の将来の生活は本当に闇。
ボディタッチはさすがにないが、下ネタを一日10回以上、同じ研究室の女性へ敢えて聞こえる言う。
担当教員は、セクハラに関して「男が多い世界だから仕方がない」とのこと。
・彼らは集団故に、上記の罪悪感は無い。
・研究に積極的に取り組んでいるのは少数。あとは担当教員の言いなり。
まぁ、言われたことはやれるんです。
だから、発表できる程度の結果は残し、大学院生としての最低限はクリアしている。
・気に入らない人間を探し、悪口とその人の不幸をいうのが日常の楽しみ
人間関係が研究室で完結すると、周りが気にならなくなるからね。
残念ながら、彼らはロジカル・シンキングのできる幼児に「成長」してしまったのではないかなぁ。
彼らは大学院生にならない方が良かったのでは?
学部生の時の方が実はピュアだったりして。
研究室が悪いのか?その担当教員の管理能力が悪いのか?彼らが悪いのか?
私はそういう原因を探る問いが有効な手段ではないと考えている。
出来れば、研究室の自然消滅かなぁ…。そうすると、私の食いぶちがなくなるので困るが。
彼らの人生はこれからも長い。他人を平気で潰していくのかな?
そして大事なモノを閉鎖性のブラックホールに吸い込まれてしまったのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20100611110402
を投稿した増田です。
そうですね、誤解半分、と言ったところだと思います。
「自分には輝かしい人生が待っていたはずなのに、なにこの平凡!!」
なんてふうに思ってるように思えてならないのですが。
輝かしい人生とか、全然思っていませんでしたよ。平凡なのは百も承知でした。
在学時に病院実習がありましたし、漠然とどういう業務なのかは分かっているつもりでした。起伏がなく、地味な仕事です。平凡なのは百も承知でした。
もし、そういうところに勤めたいと思ったら、理学、工学、化学専攻のライバルたちと競争しないとならない。
君が学問とは関係ない薬事関係の法律の重箱の隅や、法律上その検査法をしなくちゃならないというようなかび臭い時代遅れの検査法の勉強をしてる間、彼らはアカデミックの最先端を突っ走ってきたわけで。
うーん、あなたも薬剤師のこと見下してますか?いや、別につっかかるつもりはないんですけどね…
就職の時点で楽な道を選んでしまいましたが、4卒で就職したことに後悔はしていないので、研究職と比べてなんたらかんたらの妬み嫉みはありません。
博士に進学した友人(理学部)がいるので、このあたりの苦労はよく聞きます。大変だということだけは分かっているつもりです。
そういう節はあると思います。国立出はだいたいそうなんじゃないでしょうか。周りもそんな感じでしたよ。
でも、私自身は「院卒で研究職就けば輝かしい人生だったのに!」とか、微塵も思っていません。
研究職の適性がないと思って早々に諦めたので。それぞれの苦労があります。強いて言えば、さかのぼって薬学部にに入ったことを後悔してます。でも、学部とか関係ないお前自身の問題だと言われたら、それまでです。その通りだと思います。
特にないです。誰かと張り合うという意味での「大企業」でしょうか。張り合う相手もいないので。
あるいは、いい点数さえ取れれば褒めてもらえる世界に戻りたいという願望をもってるのじゃないだろうか?
今はいい点取ることが出来なさそうなので、そういう願望はないです。でも筆記試験で選抜される仕組みは昔から好きです。逃げたい気持ちは人一倍あります。そういう事実だらけですから、目を瞑っていたら歩くことも出来ません。そういうものだと思ってます。
そうですか。でも、なりたいとは思わないですよね?
「自分には輝かしい人生が待っていたはずなのに、なにこの平凡!!」
なんてふうに思ってるように思えてならないのですが。
薬学部じゃないから誤解があるかもしれない。
進学してもしなくても同じだったように思う。
就職には国家資格さえあれば困らないのに、院卒という肩書きを得るメリットが浮かばない。
そりゃ企業の研究部で研究したいとか、品質部でテクニシャンとして働きたいなら院卒のほうが有利だと思うけど、国家資格の強みを失う。
もし、そういうところに勤めたいと思ったら、理学、工学、化学専攻のライバルたちと競争しないとならない。
君が学問とは関係ない薬事関係の法律の重箱の隅や、法律上その検査法をしなくちゃならないというようなかび臭い時代遅れの検査法の勉強をしてる間、彼らはアカデミックの最先端を突っ走ってきたわけで。
それに、ちょっと考えて欲しい。
君は研究職や技術職が高尚で、製造職、サービス業が下賎だと思ってる節はないだろうか?
あるいは、いい点数さえ取れれば褒めてもらえる世界に戻りたいという願望をもってるのじゃないだろうか?
評価体系が複雑な現実社会から逃げたいと思う気持ちはないだろうか?
本当は大学にいたって、試験の点数だけで決まらないという事実に目を瞑っていないだろうか?
答えを用意してくれることもなく、失敗の尻拭いだってしてくれないことのほうが多いくらい。
やりたくない研究でも、勝ち目がない、成功の見込みがない研究でも、しろと言われたらしなければならない。
そしてノルマと期限がある。
成果が出ても出なくても、出たように見せかけないとならない。
技術職に自由はない。
言われたとおりに、手順書、計画書通りに手を動かすだけの仕事だ。
ロボット化できないところを人がやるにすぎない。
大企業に就職すれば幸せかと言えば、中小よりは確実だけれども、制度に保護されている薬局勤務に比べてもそうかと言われたらそうでもないでしょ。
そんな事言ったら、ソフトウェア工学は、作業員への効率的指示の所に心理学を含んでるし、アルゴリズムは理学だし。
だけど、基本的に、ソフトウェア工学だよ。
スピーカーを設計するのは理学だが、製造するのは工学。そういう話。だが、製造するのに理学が不要かといえば、そらいるだろ。
学問を学問として発展させるのが基本的な理学のスタンスで = 研究
学問を使って工業製品を作る(ための技術の学問)が基本的な工学のスタンス。 = 製造
ただ、あくまでも、工学というからには、物づくりであって、自分の手を汚せない、学問だけの工学を工学と呼ぶのか?というは、微妙だと言いたい。官僚的すぎる。
離島だろうとなんだろうと、たった80円ぽっちで物理的な郵便物が正確にとどく郵政のシステムと
ひねれば、飲めて安全な水が出て、トイレが水洗で衛生的という上下水道のシステム
なんだがな・・・実際、これらを科学って思う人は少ないよなぁ。
こんだけのことでも、できない国は多いんだが・・・。
いわゆる、ハイテク、先端技術分野じゃなくて、枯れた泥臭い科学が人の生活を支えているんだけどなぁ・・・。
その理学を物理的に実装して、人が実際に使える製品にするのが工学。
工学はなぁ、学問ではあるんだが、同時に職人文化の世界でもあるので・・・
学問はできても、職人ができない人が、多すぎるんだよなぁ・・・。日本は。
究極、名誉もいらない、地位もいらない、名声もなくていい、金も生きていけるだけ有ればいい、お客さんには怒鳴られてもいい、
ただ、最終的に使ってくれるユーザーさんが喜んでくれればいい。
いったい、どれだけの、工学屋が、そんなことを思っているだろうか?(そして、そう思っている人がいかにババ引いているか、大手ではマジメで責任感ある奴からPJ終了ぐらいで辞めていく。)
確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。
そんなときに、森が著書の中で
「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」
と主張していたのに、救われた気がした。
いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。
「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」
「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」
というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。
私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。
私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、
「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」
というようなことばかりが書かれていた。
それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。
敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。
「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。