はてなキーワード: 反原発とは
途中のやりとりを省略しない方がよかったかな?
高「反反原発には過激な言動をする奴がいないと思っているようだな。身内に甘いクズめ」
低「反反反原発には過激な言動をする奴がいないと思っているようだな。身内に甘いクズめ」
高「反反反原発については書いてないのになんでそう思ったんだよw」
低「俺も反反原発については書いてないんだけどお前こそなんでそう思ったの」
高「反反原発に言及しなかったということは、反反原発には叩くべきクズがいないと思ってるってことだろう」
これが正しいなら当然
低「じゃあお前は反原発にも反反反原発にも言及しなかったんだから、反原発や反反反原発には叩くべきクズがいないと思ってるんだな」
も通る
反論されたいようなので無駄と知りつつも付き合ってやろうかとリンク先を開けてみたけど、何を言いたいのか全くわからなかった
誰か理解できた人いる?
できるだけ頭を高能レベルにまで落として解読を試みた結果としては
高能「反反原発には過激な言動をする奴がいないと思っているようだな。身内に甘いクズめ」
低能「反反原発については書いてないんだけどなんでそう思ったの」
高能「お前が反反原発に言及しなかったからだよ」←リンク先のエントリ
こういうことを言いたいのかなと思ったけど、でももし本気で「言及しなかったから」が十分な根拠になると思ってるんだったら、これまで一貫して反原発の罪について言及するのを避けてきた高能様を身内に甘いダブスタのクズと見なすのも十分に妥当ということになるし
「別に反原発のクズさは否定していない!」って言い張るんなら、同じように軽く一言「反反原発の中にも過激な人間はいるが…」的なエクスキューズを入れとけば後は1:99の割合で片方だけ叩きまくっても十分“身内”から離れた中立になれるということだから、これまで貼った反反原発レッテルが無効化されちゃうし
やっぱ詰んでんじゃん
こんな解釈をしたのかな?
あ、自分が貼るレッテルは正しいレッテル、お前が貼るレッテルは印象操作のデマ、ですか
お前ほんとそれしか戦い方持ってないのな
鏡を見れない低能っていやだねえ
右:愛国 尊皇攘夷(?) 特定の日に軍歌流しながら凱旋 ヘイトデモ
左:労働者の権利 生活保護 人権 法改正とか反原発とかのデモ (昔は激しくてバリケード作ったり立てこもったりしてた)
書き出してみたら右のほうが知らない度が高そうだし、なんだか平等を欠いた記述になってしまった。申し訳ない。
9条で対立するのはなんとなく、そうねえとは思うんだけど。よくわかってないから間違ってたらごめんなさいだし今掘り下げるつもりはない。
でも愛国心がヤバイくらいあって、低所得者の生活の向上もしたいっていう人はいないの? そういう人はどっちなの?
別に左を全否定するのが右とかその逆とかではないと思っていて、というかそもそも別に常に仲悪いわけではないの?(門外漢にはそうは見えないけど)
よくわかんない。ぜんぜんわかんない。
近頃、人と人が理解し合うことが難しくなっているようで、なんだかとても疲れる。
何事も、相手の視点に立ってものを考えられない人が一定数いて、自分に都合のいい情報だけを集めては自説を補強したり、対立する考え方を持つ集団に関するネガティブな情報だけを集めては執拗に攻撃したり。そんなんばっかりって気がする。
知人や友人でも、右翼になっちゃった奴もいれば、左翼になっちゃった奴もいる。
右も左も、どっちも!
熱心にRTやシェアしてるけど、「あーあ。」としか思ってないから。そんなん読んで、感心とか共感とかしないから。
例えば、反原発を叫ぶ人間は、エネルギーの安定供給とコスト削減にアイデアを出すべきだろうし、反原発を批判する人間は、福島の問題や、原子力に対して不安を抱える人たちの想いをもっと真剣に受け止めるべきだろう。
異なる価値観の人間と理解し合ってこそ、新しいものが生まれるんじゃないか。
偏ってるってだけで、無条件にダメだといいたい! ああもう。
マハトマ・ガンジーのように非暴力、不服従を持ってすれば、自立した人間ないし民族はその自由を達することができる。しかし、それでは優遇を引き出すことはできない。反政府、すなわち左翼的活動化が暴力的になるのにはここに原因があり、彼らは権力側から何か自分の欲する金銭ないし待遇を引き出したいのであるから、彼らは暴力に訴えざるを得ない。例えば、もし反原発を行いたいと思うならば、原発のないところに移住し、木製の風車を建て、あるいは自動車を発電に用い、更に節制でもってその生活を達すことはできる。そして、活動家はみなそこに移住すればよい。しかし、左翼的活動家の目指すところはそうではない。むしろ、言葉の暴力でもって政府を攻撃し彼が意に沿わそうとするものである。また、もし在日朝鮮人において不当に彼らが搾取されているというのであれば、非暴力・不服従でもってその身の自由を達することができる。しかし、実際には、日本人の3倍もの生活保護を輩出しており、すでに多大なる行政サービスの恩恵を受けている。彼らにしてみれば過去の日帝の悪行のため、朝鮮人が優遇されるのは当たり前ということであろう。どちらも政府を彼が意に沿わそうとするものであり、言葉の暴力でもって政府を徹底的に攻撃するものである。政府なら侮辱しても構わないというのはおかしい。政府は国民のものであるならば、政府への侮辱は国民への侮辱に他ならない。
今日に至って、政府が民衆のものであるならば、政府にも自由があらねばならない。元々強権を持っている組織であるから、本来自由を持つはずである。しかし、現状、この政府の不活性さはどうであろう。幾つかでも抜本的な改革ができたのであろうか。国民主権の憲法を土台にして、国民の代表者がもっと自由に振るうことが可能であって欲しい。国民の主権を犯さない範囲において、政府はもっと自由活発に活動できるのではないか。愚かな代表を選んだならばその責任は国民が贖わなければならない。その上で、政府活動をより活発にするあるいは、われわれの政府の自由について考える時期に来ているのではないか。そんなに議員は民衆の声を聞く必要があるのか。国のため正しいと思ったことを行うための議員ではなかったか。国民は一旦選んだならば、委任した以上これに口を挟まずその政治活動全てを任せ、自由闊達に事が進むようにしなければならないのではないだろうか。あるいはそういう信念をもった議員を輩出することについて考えるべきなのかもしれない。