はてなキーワード: 人身事故とは
3路線使っていると1週間のうち1、2回は嫌でも電車遅延に巻き込まれる。
理由は人身事故、車両故障、安全確認等さまざまだが雨の日の混雑だけは納得いかない。
雨の日は自転車通勤の人が電車通勤するから混雑すると聞いたが、どうして雨の日でもカッパ着て自転車通勤をしないのか…。
自転車通勤をするってことは雨の日も風の日も暑くても自転車で会社行くってことだよね?違うの?
具合の悪いときは仕方がないとして、雨が降ったくらいで自転車乗らない人はなんなの?
最初から電車にすればいいんじゃないの?健康のためなら通勤以外で自転車乗った方がいいんじゃないの?
まぁ、それは置いといて。
それでも3路線は手ごわい。1つめの路線が5分遅れると2つめの路線で電車を1本逃し、3つめの路線で2本逃す。
15分の余裕などあっという間になくなる。
新卒のときに上司に言われた「15分の遅れなどは個人の責任だ」という言葉を忠実に守って、
始業10分前に席に着くのは当たり前、加えて15分前に着くよう家を出ている。
と思っていたのだが、どうやら今の会社は違うらしい。
人身事故で40分遅延したときに15分の余裕を引いて「電車遅延で30分ほど遅れます」と言ったら、
「都内は電車遅延なんて日常茶飯事なんだから余裕もってね」と言われたのだが、
さすがに40分の遅れは個人でカバーできないので、余裕は加味すべきじゃないと学んだ。
そして今日、台風で30分遅延したときも個人の力ではどうしようもないので「台風の影響の電車遅延により30分遅れます」と言ったら、
「最近遅いけどなめてんの?気を抜きすぎなんじゃないの?」と言われ、
まぁ先週、体調不良で20分遅刻したけどそれは私の責任だとしても台風の影響による電車遅延は個人の力ではどうしようもないんだが…。
台風なんだから30分早く出ろって言われるかもしれないけど、駅行って電車動いてないのに30分早く行っても仕方がないような気が…。
そもそも遅延証明を認めていない(提出する先がない)というのも問題な気がするんだけど…。
という疑問をぶつけようにも相手は個人事業主で、上司でもなんでもないので、上司の上司に報告して対処云々をしようにも無駄なわけで…。
体調不良は私の責任なので仕方がないのはわかる。
でも、止まってる電車を動かせと言わんばかりの物言いをどうにかして「無理なものは無理だよね~」って思ってもらいたいけど、
オオカミを日本の野山に放そう! の議論をするとき、賛成派も反対派もどっちも極端で参ってしまう。
オオカミを放すなんて、面白い実験でいいじゃないか、やれやれ、と思う。
実験大好きクリスティーナみたいに、俺も科学者の端くれなので。
いろいろデータとれていいじゃんよ、と思う。
ただし、それについていくつか条件をつける。
1、オオカミを放すにあたり、オオカミ研究センター的なものを立ち上げる。
3、その施設で繁殖した個体、または、メディカルチェックをきちんと行った個体のみを放逐すること。
4、放すオオカミは去勢、避妊をきちんと行った物のみにすること。
5、識別番号や、GPS等を取り付け、放逐後も個体管理をきちんと行うこと。
俺が思うのは以上だ。
1、放す野山をどこにするのか
2、放す個体数をどうするのか
3、放した野山等は柵などで覆うべきか
5、何か起きたときは速やかに全個体を回収して放獣実験を中止する、が大丈夫か
の検討がきちんと行われさえすれば、いいじゃん、オオカミ放獣。
なんでやらないのかね?
いろいろ有意義だと思うんだけど。
予算の問題かしら?
でも、自然と触れ合うのは危険性も高い。たとえば登山で遭難。川遊びで流される。火遊びで火事。
旅行というのは、人間にとって都合の良い範囲内での行動だけをするから一見問題ないように見えるけど、自然の脅威は依然立ちはだかる。
突然の大雪で電車がストップ。大雨で土砂崩れ。人身事故(人間は何をするか分からないという意味で自然存在)。あいにくの天気でレジャーが台無しとか。
人間が作り出したきわめてリアルなフィクションの世界にはそのようなものは一切ない。全て人間に都合の良いものだらけだ。
観光旅行を求める人間にとって、フィクションというか娯楽の世界はまだまだ不十分なことは確か。
そもそも画面の中にしかないし触れることも出来ない。目と耳でしか楽しめない世界なのだから、自然と触れ合う体験をした人にとってはまだ不十分だと感じてもしょうがない。
これからどんどん技術が進歩すれば間違いなく自然と対等なリアルさと、都合の悪いことは一切起きない良心的な世界が手に入るようになる。
その時、人はむきだしの自然には耐えられない。むきだしの自然には、嫌なことがたくさんある。そこを我慢しろと自然回帰志向の老人たちは言う。だが、結局彼らも我慢などできない。
単に我慢できない人を見て俺は我慢できるぞと虚勢を張ってるに過ぎない。あるいは我慢の経験を積んでいるので多少長く我慢できるだけだ。
頭でっかちになった現代人は、何よりもまず「都合のいい世界」を求める。自然のように、何が起こるか分からない不確定な存在は不気味すぎて耐えられない。
ある程度マニュアル化してみても(ガイドブックなど)、結局不確実な要素は発生する。「何が起こるか分からないのが自然だよな」と得意げに語ってみたところで、実はうんざりしているかもしれない。
そもそも自然派な人間は都市のあまりの「不確実性のなさ」には耐えられない。時間はきっちりと決められているし、少しでも遅れればもう電車には乗れない。両方をとることは出来ない。
いやそもそも、旅行に行くときガイドブックを参照する人間というのは、自然の世界を制御できる人間の世界と同一視している。
あそこには何があり、こんな時はこうすればいい、あんなときはどうすればいい、こういったことをあらかじめ知っておきたがるのは、自然の持つ不確実さを解消したいからに他ならない。
結局彼らの求めている「都市にはない自然」というのも、実はむきだしの自然ではなく「捏造された自然」なのではないか?
これから捏造された自然はますます人間の生活、娯楽に組み込まれていくだろう。
鳥のさえずりが聞こえる雄大な森。しかしそこには気味の悪い虫は排除されている。突然雨が降ったりはしない。夜になって道に迷うと困るので、ライトもある。
こういった捏造された自然を体験するバーチャルツアーが次世代の観光となっていくだろう。
なにせ家から出ないことが一番の節約なのだから。電車に乗る、車に乗る、飛行機に乗る。全て物理的距離を移動するときに費用がかかる。かといって歩くわけにはいかない。時間がかかりすぎる。
多分、物理的現実に依存する物事というのは、料金を下げられる限界というのがある。もしその限界に達したとしても、人間が感じる疲労や、時間の消費といったものがついて回る。
ただ、今よりもさらに旅行が手軽になれば、自然回帰志向とその逆の都市生活志向の人間とがはっきりと色分けされるようになるかもしれない。
もちろん、自然回帰といってもそれは多かれ少なかれ捏造されているのだけどね。その程度の差が問題になるだろう。
未来を題材にした小説では、なぜか未来の生活は賛美されない。それは、書き手が自然回帰志向だからであり、バーチャルなもので満足する未来の人々を嫌悪しているからだ。
しかし結局脳にとって夢も現実も同じだ。どちらがよりリアルに感じられるかだけでなく、より「都合の良い」現実のほうを脳は選択するだろう。でなければ、なぜ今世紀に入ってからも都市の人口は増え続けているのか説明がつかない。本当に人間は自然に帰るべきなら、都市の人口は増えない。というか減るはずだ。
人間は自然の模倣以外には何一つ生み出せない生き物だし、都市が抱える問題を解決するために必要なのは自然の叡智だ。
重要なのは自然を情報化し自由に使えるようにすること。その時はじめて、都市は自然に勝利し、バーチャルな世界が自然を超えることになるだろう。
それを考えるとまだまだ人間には自然由来の知が少なすぎる。完全にバーチャルな自然で育つ「都市人間」が誕生するのはまだ先のことか。
事故原因に関してJRに責任はないが、柵を付けるなどの対策を怠っているわけだから全く落ち度がないとは言えない。
ただ最大の問題はそこではなく、事故後の対応が手際悪いから乗客の怒りが増幅されてしまうことにある。復旧が不必要に遅い(他社と比べて)、適切なアナウンスがされない(状況報告、乗客の誘導がない)。
大抵の乗客は月に1度ぐらいの頻度で事故に遭遇し、JRに対しそういう不満が積み重なっている。駅員=JRの職員だから矛先が向いてもおかしくはない。
深夜やっとも思いで辿り着いた駅の改札で駅員に有料券を渡していたら、後ろから来た会社員風の男が特急券を駅員に投げつけて去っていった。
駅員は何も反応せず、疲れた表情で申し訳なさそうに他の客に対応していた。
理解できんな。
人身事故だけは電鉄会社悪くないから俺は駅員にも怒りがわかない。
それより「車両故障の影響で」とか
「車両点検の関係で」とか
「混雑の影響で(いつもと同じ混雑でそれ理由になんのか!?)」とか
そういう理由でしょっちゅう遅延する俺の利用してる電車の駅員に
もっとみんなで切符ぐらい投げつけたらマシになるんじゃなかろうかと思ってる
http://anond.hatelabo.jp/20101110041534
俺もその事故の影響受けたよ。
その前に京王線が2分遅れ、いつもは遅延すれば待っていてくれるはずの中央線普通列車がばっちり時間内に高尾から出発。
しかもそれは甲府まで行く普通の最終電車で、それに乗り遅れたが運のつきだった。
普通の最終を逃すとあとは有料特急しかない。年収の低い自分はまさに身を切る思いでの特急券購入になった。
最寄り駅に特急は止まらないから駅から自宅近くまでのタクシー代まで考えると頭が痛くなる。
急いでJR八王子駅まで戻って隣のホームから出発する甲府行きの有料特急に乗ろうと走るも、あと一歩で出発。
ただでさえ風邪気味だったのに、仕事場で気の重いことが色々事が多くあった後だったのに、これはないよ…本当に泣きたくなった。
結局、23:11時点で、自分は一時間後の有料の最終を待っていた。
その矢先に人身事故。まさに泣きっ面に蜂の大群。
結局一時間半以上またされて、家に着いたの深夜二時半でいつもより二時間半遅かった。
昨日は死んだように眠り、明け方に見た夢は身体の幅ギリギリの通路を滑り落ちて地下に逃げ隠れる気分の悪いものだった。
今日は休みなのでゆっくりしようと思うが、不健康な事をしたものだから身体全体が痛いし、食欲がまるでわかない。頭痛も残っている。
深夜やっとも思いで辿り着いた駅の改札で駅員に有料券を渡していたら、後ろから来た会社員風の男が特急券を駅員に投げつけて去っていった。
駅員は何も反応せず、疲れた表情で申し訳なさそうに他の客に対応していた。
俺だって辛かったよ。投げつけたお前だって辛かったんだろうに。
トラバ先を書いたやつだって辛かった。
駅員だって辛いに決まっている。皆等しく帰宅は遅くなる。
タクシーの運ちゃんが「ずいぶん遅くなりましたね」って声をかけてくれた時、ようやく身体の力が抜けた。
運ちゃんだって、この電車を待っていた。
八王子駅では色々な腹いせに自分も電車に飛び込んでやろうかと思った。
だけどそんなことをしたら、俺の帰りを永遠に待ち続けるであろう家族に辛い思いをさせてしまう。
待つというのは辛いことだね。
線路で横たわっていた男こそこの一連の事件の中で一番辛い思いをしたのではないのかな。
その男を失って、辛い思いをしている人はいるのだろうか。
なぜ、死ぬほど嫌になってしまったのか…
「生きることは辛いこと」
なんて言って、死ぬことを嘲る人がいる。だけど、生物として命を投げだすことほど究極の選択はないと思う。
そこに至るまでの自殺者の精神は、まだ生きる選択ができる自分たちには考えても及ばない。ネットで自殺中継した奴も然りだ。
おれも昔、自殺しようとしたことあったけれど、結局死ねなかったのは生きる選択肢を選べたから。
「死ぬほど辛いこと」
それに飲まれてしまった奴は本当にかわいそうだな。
http://anond.hatelabo.jp/20101110041534
>何故電車は死に方としてそんなに人気があるのか。
ということについて、確かにJRおよび地下鉄、私鉄各社は心理的な検証をしたことがあるのだろうか。
どうして電車で死んだんですか、と経験者にインタビューしようとしてもその人は既に肉塊になってしまっているので、無理もないだろうが。
電車での自殺を実行コストの観点から説明しようとすることには確かに一理ある。
しかし、腑に落ちない点もある。
そこであらためて「電車が死に方として人気がある理由」を考えてみたい。
といったようなイメージが強烈に定着しているということがまず、あるのではないだろうか。
みんながやっているから、確実に死ねる。赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ。
日本人にとって、電車とは自殺の安心ブランドなのではないだろうか。
ほかに簡単で苦しくない死に方を思いつく人にとっては、こういう死に方は思考停止に思われるかもしれない。
そうだ、死にゆく人の思考は停止しかかっている場合がある。
重度の鬱で気がついたら死のうとしていた、という人にとって、自分の死に方についてそれほどクリエイティブな思考を巡らせるだけのエネルギーはもはや残っていない。
だからそういう人は、この国における「自死」のイメージに強烈に結びついた電車のイメージに、まさに身体ごと引き込まれていくのではないだろうか
2【自分が死んだことを知ってほしいという願望がどこかにある】
誰にも迷惑をかけず、この世から消えてしまいたいと本気で思った人は、富士の樹海への行き方を調べたことがあるのではないだろうか。
電車で自殺をする人は樹海を目指す人たちとは異なる考え方をしているように見える。
たとえば毎日の通勤で、駅に行くと電光掲示板に「人身事故」の文字が流れる。
このようにして、電車で自殺すると、あなたの死はいやおうなしに知らされる。たとえ大部分の人にとってそれが匿名の死であっても。
電車で死ぬ人には、彼または彼女が愛した人にであれ、殺してやりたいと思っている人にであれ、自分が死んだという事実を確認してもらいたいという願望がどこかにあるのではないだろうか。
死んでからも皆から迷惑がられるのだろう。
マジを考えた身としては、やっぱり列車が簡単な方法に思えてしまう。何も道具がいらない、ただ選択するかしないか。
周りのことなど考える余裕などない、迷いながら決行するとしたら、ビルに登るより、いつもの駅でフラッと落ちてしまうことを考えたりしてしまう。
安楽死施設があれば、、とは皆が思っているだろう。
マスメディアは自殺を報じない、後追いを避けるためらしいが、電車に乗れば、いや乗らずとも社会と関われば、「事故で遅刻します」という言葉で今日も自殺があったらしいと分かる。
無駄な抵抗に思える。
しかし、それは向こう岸に行った人には届かない無駄な戯言だろう。
その外堀を埋めたのは誰か?
生きていてよかったと最近思うが、それは意外と生きる才能がありそうだと思ったから。
死にたいと思っていた日々は嘘ではなく、死の方が楽なこともよくあることだ。
鉄道で人が死ぬ内線国という現状にもっとフォーカスをあてまくった方がよいのではないか?
1)ラットによる実験では、ラットをラーメン内に入れると87%の確率で溺死する。
2)カップラーメンを食べた人が将来200年以内に死亡する確率はほぼ100%。
3)凶悪犯がカップラーメンを購入する確率は、同じ犯罪者がアフガニスタン国債を購入する確率よりはるかに高い。
4)カップラーメンを気管に入れると咳嗽反射が起こり、最悪の場合窒息により死に至る。
5)カップラーメンを食べながら自動車を運転した場合、重大な人身事故が発生するおそれがある。
6)健康な成年男子にカップラーメン1個のみを与えて長期間監禁した実験では、被験者の99%が50日以内に死亡した。
7)電化製品をカップラーメン内に入れると、破損するおそれがある。
8)25年間保存されたカップラーメンは有毒である。
やばかった。具体的に死にたくなったのは今回がはじめてだ。
今までは消えちゃいたいとか思っても、具体的な方法までは考えなかった。
昨日は目がそういう場所を探す感じで、実行するならこうだとかまで考えた。
3Fの屋上からじゃ運が良くなきゃ死ねないとか
10Fの非常階段、あれ登りやすそうな足場もあっていいかもとか
あそこから下に落ちたら入口のとこだから誰かに当たったら悪いとか
でも植え込みのところじゃ変に死ねないのも困るしとか
ホームの端の青いランプ見ながらこのくらいの速度でも大丈夫なんだとか
人身事故は迷惑かかる人の桁が違うから避けるべきだろうかとか
この橋の高さと川の水量じゃ溺死の前に全身打撲で死亡だよなとか
まさに「うつ」真っ只中って感じだ。
ってハイクに軽く書こうかと思ったけどやっぱ無理だ。
今、姉が飲酒運転をしている。
会社から帰った私とほぼ入れ違いで姉が遊びに出掛けたんだけど、ビール2本入ってる。
新しく買った服を見せて、かわいいでしょ?って上機嫌で聞いてくるから珍しいなあと思ってたら、
出掛けた後、姉がさっきまで飲酒していたことを母から聞いた。
実はこれが初めてのことではない。
以前にも出掛けた後に空のビール缶を見つけたことがある。
今回は事前に分かっていたので母が止めたらしいのだが、姉は聞かなかったそうだ。
お酒は私のガソリンなの!ガソリンないと走れないでしょ!?と言ったそうだ。
ダイエットではない。もともと痩せていた150センチもない小さな身体はちびたようにガリガリになった。
「仕事がハードで体調を崩し、食欲がわかず、物が食べられなくなって」痩せたと言っていた。
確かに姉はよくご飯を残していた。ほとんど手を付けていないくらいだった。
しかし、毎晩のビールは欠かさなかった。
毎晩ビールを2本から3本飲んでいた。
それから仕事はほぼ定時終わり、土日祝日も必ず休みで、休みの日は大体遊びに出かけていた。
友人宅に行っているようだが、そこでも酒を飲んでいるらしいと今日母から聞いた。
たまに深夜に帰宅する姉と鉢合わせすることがあるが、そのときは身体全体にこもる煙草の臭いが強烈で気付かなかった。
友人の家で少し眠ってアルコール分を抜いてから帰っているのだと言ったらしいが、
ここまで書いてきて絶望的な気持ちになった。
姉が現在置かれている状況はとても危ない。
まさか姉が……と信じたくない気持でいっぱいになる。
姉だけではない、私たちも危ない。
検問で捕まるくらいならいいほうで、飲酒で人身事故でも起こされたら賠償金なんて払えない。
母と祖母と私が首をくくってもまだ足りないだろう。
事故の恐ろしさを母に説明し、もし次も飲酒運転するところを見つけたら何が何でも止めてほしいと伝えた。
姉は昔からよくヒステリーを起こして物を壊したりする癖があり、それが怖いので私たちはなるべく姉を刺激しないように生活してきた。
今までの経験から、姉が私たちの言うことを聞くとは思えない。
それでも止めるしかない。