名前を隠して楽しく日記。
「与党が増税を言い」「官僚が従い」「野党が反発する」みたいにシンプルな構図だったらわかりやすかったんだが
「官僚が増税を言い」「最大野党が増税を言い」「与党が従う」みたいな、シンプルにまとめようとしてもおかしな関係になってるからな
福田ナオの絵見て思い出した。
昨今のゲーム実況とかの話じゃなくて、家にそのゲームがあるにも関わらず、兄弟や友達にゲームをさせてそれを観るのが好きなやつ。小学校の頃のうちの妹がそうで、バイオをやるときは妹がいないと「勝手にやらないで」って怒られた。ホラーゲームだから自分でプレイできなかったのもあるのかもしれない。
今の嫁も、Twitterで流行ってたジャッジアイズをやってと言ってきたので、俺が買って俺がやった。自分でやったほうが絶対おもしろいのにと思ってるしそう言うのだけど、「見るのが好きだから」「いやいや、一回くらいやってみなよ」「下手だから。無理だから」でやらないんだよな。「最初は誰でも下手だよ」とか言ってやらせようとしても、なぜか最後は不機嫌になるので言えない。
コスプレイヤーの撮影会でカメラマンをしていたら、女の子の傍に挙動不審な男がいた。
ブツクサ独り言を言っている。「レイアップね、もっと腕を伸ばさないと……」
バスケ作品のコスプレが中心の会場で、レイヤーのアクションにコメントしているようだった。
レイヤーの女の子はガン無視。その男は俺とレイヤーに視線を向けて一人で喋り続けている。
「後ろに話しかけてほしそうな男の人いたじゃないですか、
コスプレのイベントは変な人によく会うので無視した方がいいですよ」
やっぱりそうか、いかにも話しかけてほしそうな雰囲気を出しながら、傍で大きな声を出す男って不審だよな。
俺もかつては初対面の人間に声を掛けられないタイプだったから、ああいう行動を取ってしまう心理はわかる。
誰かと話したいけれど自分から話しかける勇気はない、向こうが反応することを期待して傍で独り言をしてみる。
そうすれば案外ちゃんと会話まで持っていけるもんだ。
そもそもイラストを公開するのは人に見せるためだと思うんだが、ちゃんと人間が見れるようになってるんです?見るために手順が必要だと見られる可能性がどんどん減っていくよ。
一部で流行りそうなウォーターマークもそうだが、人間に見せるために公開してるはずがAIへの嫌がらせのために公開してる、に主従逆転しないようにな。
昭和俳優がオーラあったのはブサイクの血がそれなりに存在してて偶然整ったブサイクが生まれて顔に特徴がある俳優が生まれたものではないかと
今の子たちを見てもほぼほぼブサイクがいなくて全体的に美形ではあるんだけど飛び抜けてる子がいなくて
美形同士がくっついた結果ブサイクは駆逐されたけど平均的でつまらない顔立ちばかりになりそれが結果として俳優という職業に関しては弱体化の一途を辿るような気がしてならない
対応機のなかでコスパがよくてまともに使える低廉モデルだと、XiaomiのRedmi 12 5Gなんかがおすすめ。
Amazonで16,450円だけど、見た目もシュッとしてて、この値段で128GBの容量があり、重い3Dゲームしないなら十分動く。
長安の豪奢な生活は生前から有名で、『当代記』にその旨が幾つか書かれている。例えば毎年鉱山巡視の際には、遊女70~80人等を含めた250人(伝馬・人夫は別)を引き連れ、宿所も自身の代官所故に思うままの造作をしたとあり、路中の民は迷惑したとある。
家康がこのような長安の振る舞いをどの様に捉えていたかは不明である。『駿府記』『当代記』より後に編纂された『慶長年録』によれば、家康は長安の振る舞いを知っていたものの、長安が有能なため捨て置いて死後になって罪に問うたとされる。
また同書には、大久保忠隣と本多正信の不仲故に、正信が長安の死後に家康へ讒訴したともある。後者は『徳川実紀』にも引き継がれ、長安事件は忠隣改易も含め家康の意志によるものではなく、正信・正純の讒言が主因としている。
一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[6]。慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[7]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、大久保藤十郎、大久保外記、青山成国、大久保雲十郎、大久保内膳、大久保右京長清(越後在住)、男1人(播磨在住)[8]、以上7人は切腹となった。また大久保忠隣や縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。