はてなキーワード: 道徳規範とは
人道的でないというのは、
クーラーがなくて熱中症で死ぬとかそういうのを想定していたけど、
そういうのが無くなるほど社会が豊かになれば、
次はテレビがないとかでも「人道的でない」と言われるようになるだろうし、
成果があった人、努力をした人、将来がある人を優先しているというだけで、
つまり、(もちろん理想論だけど)有り余るほどリソースがあったとしたら、優先する必要はなくなると思う。
「努力をするからリソースが与えられる」というのは絶対的な価値観ではないし、
むしろ「義務を果たしてこそ権利が与えられる」的な錯誤を感じる。
リソースが足りないうちはリソースの獲得を奨励するために報酬を設定することになるけれども、
いつのまにかそれが道徳規範に組み込まれて「何もなくとも努力すべし」となっている。
目標をどこに据えるのか。
同じくアスペだが
っていう疑問をここに書いた
この疑問を試金石にして他人の認識する悪の種類を分析したかったんだが
意外と成果はあったな
っていう回答だった(物理的悪)
この回答から生じた「レイプをした加害者は悪を認識できないのでは?」
という疑問は罵詈雑言で叩き伏せられた
道徳規範を重視する考え方だが
この回答から生じた
「モラルが何らかの事情で歪んでいる、もしくはモラルというものがないレイプの加害者は悪を認識できるのか?」
という疑問は無視された
神がいつも見ているから『悪い』と言う奴は一人もいなかった(形而上的悪)
まぁもっとも神はいてもいなくても同じような存在なのでその回答ではそもそも納得できないのだが……
最終的に出た結論は
一応私のプロフィール、状況整理
さて、高校生くらいになったころに、一通り幸福の科学について調べてみて、
自分のなかで一通り納得したので、そのとき考えていたことを書きたいと思う。
イタコ芸を始めるよりずっと前の話なので、今の幸福の科学がこれで説明できるかはわかりません。
信者の道徳規範のため、コントロールのためのネガティブな要素ももっています。
仏教であれば、現世は輪廻転生で何度も生まれ変わっているうちの一部であり、解脱に至るための試練です。
前世で業を背負ったがために現世という苦痛を背負うことになります。
そして、現世での行いにより、次の輪廻先の世界が決定されます。
キリスト教では、人は生まれながらにして罪を背負って生きています。いわゆる原罪というやつです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
ユダヤ教では、最後の審判の日に全行を行っていたものは、永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねたものは地獄に落ちます。(とWikipedia先生が言ってる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99#.E6.AD.BB.E7.94.9F.E8.A6.B3
さて、ここで幸福の科学が何か、というと
「仏教、キリスト教、ユダヤ教から人々の救済部分だけを抜き出し統合し、ネガティブな要素を排除した宗教」
というものです。
さすが東大法学部卒の教祖様。既存宗教の駄目な点を分析し、それを叩き潰すことで新しい宗教を適切に作り上げている。
911後にはイスラム教を入れなかったのは、さすがだと思った。
私の母がどうだったかというと、心が弱くて既存の宗教のネガティブな部分に耐えられなかった。
親父の稼ぎが悪く、それほど裕福な暮らしができたわけではなかった。
そして、そういった環境を変える力もなく、宗教からは「来世への苦行だ」といわれてしまう。
また、心が弱い人は既存宗教が持つ「改宗することは罪である」という考え方もまた受け入れられません。
「既存の宗教のネガティブな部分に耐えられない心が弱い人が、幸福の科学に入信する」
「幸福の科学を既存の宗教の上位に置くことで、既存の宗教を捨てずに、幸福の科学に入信する」
高校生だった自分は、そのように幸福の科学のこと、母親のことを理解した。
そして、ある意味仕方ないとは思った。
この分析は、教祖様がイタコ芸を始めるよりずっと前の話(15年前)なので、今の幸福の科学がこれで説明できるかはわかりません。
だからといって、幸福の科学を私に勧めてくるのにはさすがに愛想が尽き、実家とは絶縁するに至った。
あーあ、俺も宗教おこしてぇよ。
ベッキーの不倫騒動を皮切りに、著名人の不倫が文春や新潮に次々に暴かれて少々食傷気味だったのだが、昨日の評論家の荻上チキ氏の不倫には誰もが驚いたのではないだろうか。
「あの真面目な荻上さんが、どうして?」
と私も思った。
彼のような真摯な人間がするのならば、誰だってする可能性がある。
既婚者である自分が、不倫を絶対にしてはならない、と気持ちを引き締めた時に、ふとひらめいたのが冒頭の標語である。
ヘロインや覚醒剤の害悪が知れ渡っているのに、それでも人がドラッグに手を染めるのは、極上の快感を得られるから。
『オーガズムの数万倍の快感を伴う射精を全身の隅々の細胞で行っているような』
『人間の経験しうるあらゆる状態の中で、ほかの如何なるものをもってしても得られない最高の状態』
だという。
覚醒剤も、ヘロインよりも劣るとはいえ通常のセックスの数十倍の快感を得られるらしい。
だから、常習者はやめられない。
不倫(結婚後の愛人との性交渉)も、浮気(彼氏彼女以外の人との性交渉)も、常習性が高いことはよく知られている。
なぜなら不倫も浮気も、通常の恋愛よりも気持ちがいいからだ。楽しいからだ。快感が増すからだ。
特に不倫は、背徳感でセックスの快感が倍増し、脳内麻薬がドバドバ出るらしい。
たいていの場合、不倫がばれたあとに離婚となるのだが、不倫相手とそのあと結婚したとしても、だいたい数年でわかれるパターンが多い。
元々背徳感があったから快感を得ていたのであって、それが日常のものとなったら、一気に感情が醒めるからだろう。
特に愛人だった側の気持ちが一気に醒めるらしく、そうなると不倫をするような貞操観念も道徳規範もないような人間だから、すぐに愛想をつかして、再びの快感を求めてほかの人間へと走る。
幸せを失わないためにも、不倫や浮気はヘロインや覚醒剤と同じくらい、危険なものだ、という強い危機感を持ってもらいたいとおもう。
なお、そのあとに続く言葉として、
という言葉も考えた。
「不倫や浮気はダメだが、風俗はあくまで遊び。大麻と同じで、世間は騒ぐが実は常習性もなく健全な薬物」
「リベラルなフェミニスト」というのは、世間一般の風潮に対する態度であり、他人に対する態度である。自分自身のことではない。特に、家庭における自分の個人行動のことではない。「女性一般の権利を尊重する」ということと、「自分の女房の権利を尊重する」ということは、まったく別のことだ。前者はフェミニズムで説明できるが、後者はフェミニズムとは全然関係がない。
ここが難しい。
自分は他人である女性の権利は尊重するが、自分の女房の権利は尊重しない。
そして他人がその他人の女房じゃない女性の権利を尊重しないことは許容しないが、その他人の女房の権利は尊重しないのは許容するってことなのか。
そうすると、世間一般の夫のいる女性の権利が尊重されないことを許容していることになって、女性一般、というか多くの女性の権利を尊重していないことにならないか。
それとも、他人がその他人の女房の権利を尊重しないことは許容しないが、自分が自分の女房の権利を尊重しないことは当然だと考えているってことなのか。
これはジャイアニズムとかいうやつで、典型的な道徳規範に反する態度だったと思う。
リベラリズムもフェミニズムもなんかぼんやりした使われ方をされがちだから仕方ないのか。
http://realtor-readyabooks.hatenablog.com/entry/2015/06/09/190209
これを読んで思ったこと
この世界が仮に「男女は能力に差があるからこそ素晴らしい」という道徳規範が優勢な世界だったとしても
そうは思えない。
この記事は一つの別の可能性を提示しただけで、女性棋士の弱さを器質的な差に見いだす議論を反駁しているわけではない。
にもかかわらず記事の筆者が、女性棋士が弱い理由を器質的な差に見いだす議論を「妄想・偏見の類」と断ずることができたのはなぜだろう?
男女は平等であるべきだからーー男女の知的能力に差があるべきではないから、
その差を肯定する議論は妄想でなければならないと考えたのではあるまいか?
この記事は一例として挙げたにすぎない。
たとえば我々が障害者やいじめの被害者について述べるとき、この種の信念から自由であるだろうか?