「大型犬」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 大型犬とは

2024-01-16

anond:20240116003349

法哲学議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定属性を持っているか寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.

まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.

かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.

他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.

個体属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.

「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンからこそ人は憐憫を垂れる.

法哲学者の井上達夫言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮正義普遍主義要請対立する」(井上達夫. (1986). 共生作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.

では我々は,正義にもとるということを理由に,特定属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.

何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.

そうではない.

なぜならば,民主主義国家によって達成される正義手続的正義にすぎないかである

「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬放置することにした」.

これは本当に正義だろうか.

何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.

この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果利他主義である

昨今のオープンAIアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.

効果利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である

ここでの費用には,金銭だけではなく,自分時間労働も入る.

かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動比較評価し,最もコスパが良いもの投資する.

これが公平であり,正義なのである

この比較には,「リソース投下に対する社会インパクト定量化できる」のが大前提になっている.

社会科学素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準定量化することは不可能である

例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.

定量化の前提は,効果利他主義限界の一つとして指摘できるだろう.


効果利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.

便益を最大化することにこだわることは,特定目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.

たまたま理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義宣言! : 慈善活動への科学アプローチ. みすず書房. 42-43.)

そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.

特定属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き正義に留まるという限界がある.

実質的正義を追求するには,効果利他主義のような一定基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.

なお,筆者自身効果利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.

黒い大型犬にもいつか支援が降りてくるよとか黒い大型犬好きな人もいるとかさぁ少しでいいから黒い大型犬気持ちになってみろよ

いつ支援が来るんだ?いつまでポメ共を見送ればいい?何故黒くてでかいと助からないんだ?

anond:20240116105440

そらーもう公平もなにも関係なく、自分可愛い子を贔屓してるところを自分他人(犬含む)に見られるのが嫌、というだけじゃないか

大型犬の心が傷つくにしても、気持ちを優先して救済を遠ざける事が出来るような悠長な状況なのか??

限度があるのはどちらかと言えば、公平を徹底する事の方だと思うね

anond:20240116104447

そうはいっても、目の前の大型犬を捨て置いてポメにだけ餌やるのはな。

言いたいことはわかるが今お前が言ったことだけで回すのは限度がある。

色付きトロッコ問題

トロッコの進む先には n 匹の黒い大型犬がいます

切り換えた線路の先には一匹の可愛らしいポメラニアンがいます

n が何匹なら、切り換えますか?

anond:20240116003349

増田には経済学の「再分配」に関する書籍を読んで感想を聞きたい。ちょうど200年くらいずっと議論されているテーマ。俺は20年くらい前に大学生ときに感動したよ。いまの俺の解釈としては「眼の前の再分配によって生じる不平等不公平さは一時的であり、経済科学が進めば一瞬で解消する。議論を重ねて公平さを追求する時間が勿体ない」という感じかな。個人レベルポメラニアン大型犬のどっちに寄付するかは趣味レベルだけど、政治官僚はそれを真剣に3年くらいかけてやるからね。その間にどっちも死んじゃうツーの。やりやす対象から始めればいいんだよ。カワイイ正義。いずれ可愛くないやつにも落ちてくるから

anond:20240116003349

神ならぬ身の人間がなぜ完全な正義・公平に基づいて生きられるなどと驕るのか

べつにいいだろ好きなものを救えば、人間なんだから

 

それに誰かがポメラニアンを救えば少なくとも次の人はポメ大型犬か迷わず救える

大型犬を救う一歩になってるという事じゃないか

anond:20240116094030

関係ないけど、小型犬ポメラニアンの方が助けるコスパはよさそうだよね。同じ予算なら救える命の数が多そう。

あと、大型犬は強そうだから助けなくても生きていけそうってのがある。

anond:20240116003349

誰かがポメラニアンを助けるならお前が黒い大型犬を助けてやりゃいいだろ。そうやって世界は成り立ってるはずだ

anond:20240116003349

正しくない。当たり前だ。

それが許されるのはリソースが限られていてどちらかを選ばないといけない時だけだ。トリアージと呼び、緊急避難と呼ぶ。

では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?

anond:20240116003349

大型犬の方が助けられにくいと思うのなら、大型犬寄付をすればいいだけでは?

差別って『キモい』でよくない?

・・・いつも思うんだけど、差別って『キモい』でよくない?

差別定義大人でも議論になるけど、キモいなら幼稚園児でも解る。




ハロウィン玄関先に子どもが2人現れて、お菓子をねだってきたらどうでしょう

彼らのうち、ひとりは日本人、もうひとりはロシア人だと、気付いたら?

anond:20240116092458



個人自由差別自由なら、恋愛差別し放題になっちまう

女は年齢聞いて歳上なら即ブロック! ……それでええんか?



すべて差別を平易に言い換えられているよね。

anond:20240116003349

マジレスしてみる

個人感情に任せた場合に、大型犬よりポメラニアンの方が寄付が集まりやすいという前提は正しいと思う。

ポイントとなるのは、寄付が集まりやすい順番に救済されていった結果、最終的には大型犬を含むすべての苦しんでいる対象が最低限必要な水準に至るまで救済を充足できると寄付する人間が信じているか、だと思う。

まり「順番に多少の前後はあれど、ポメラニアンが救済されれば次には中型犬大型犬に同情が集まるようになり、結果としてすべての犬が救済されるはず」と信じている人にとっては、とにかく目についた可哀想な犬に寄付を行うのは、(最善ではないにしても)概ね正義にもとる行為ではないと思われる。

一方、諸々の理由により救済が大型犬に行き渡ることはないと考える人ならば、寄付正義にもとる行為だと感じる傾向が強くなるだろう。

救済が大型犬に行き渡らないと感じる要因としては、

・救済に充てられる全体のリソースが明らかに不足していると感じられる場合

・救済されたと見なす水準が高い場合

などが考えられる。

そして、この中でより考え方の違いが出やすいのは後者の「救済されたと見なす水準が高い場合」ではないかと思われる。

救済を急迫した危機からの脱却(必要最低限の状態の確保)のためだと考えている人ならば「とにかく今、危機的状況にある人には手当り次第に支援を行うことで、世の中から危機的状況にある人をゼロにすることができる」というロジック比較的すんなり受け入れられるものだと思うが、救済を可哀想な要因の完全な排除対象状態を世の中の平均水準まで押し上げること)だと考えている人ならば「そんなリソースあるわけ無いじゃん→個人感情で救われるやつを選別するのか?」と感じるのも自然だろう。

anond:20240116003349

この話でまず思い浮かぶのは心臓移植募金した前沢擁護した坂上が叩かれた話だろ

はてブでも移植ツーリズム寄付することは批判されていた

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2019/07/03/193556

ポメラニアン大型犬比較の極端な例が日本の子供と順番を飛ばされる外国の子供なわけだ

移植に関しては制度の悪さが本質なんだけど、それが炎上するのは募金する人間制度責任を負うべきだって話ともいえる

移植ツーリズムへの募金を叩いた人間が、同じ口で募金自由というのは二枚舌だろう

anond:20240116003349

国はそのような偏りが出ないように注意を払って税を運用すべきであるのは大前提

だけど、現実はそうなっていない。

自民党裏金問題で明らかなように、私利私欲にまみれた政治家法律を定め、行政がそれを執行する限り、

どこかに偏りがあり、見落としが生じる。

国の平等な救済から外れた部分を、個人が見つけて救済してやれば、全体として真の平等が実現する。

ある者は黒い大型犬が可哀そうだと寄付し、別の者はポメラニアンへの救済が不足していると考えてポメラニアン寄付する。

個人価値観多様性を活かすことで、救済の幅を広げるのは悪いことじゃないよ。

もちろん、国の平等な救済をもっと強化すべきだと考えて、積極的納税する考え方も悪くない。

みんながいっぱい寄付したり、納税したりすれば、するほど理想社会に近づくんじゃないかな。

anond:20240116003349

おもしろい。自分寄付をする人間で、存分に選り好みして寄付しているのでその観点から書こうと思う。また自分は犬には寄付しない。ほとんどは被災者である

寄付と善について

自分寄付には差別的要素があると思う。そして、そもそも寄付は究極の善でもないと考えている。

それから自分がやっている寄付は全く善と考えていない。もっと利己的なもの自己満足感を満たすためにやっており、投資や物品購入に近い考え方をしている。

どちらかといえば自分がやっているのは贖宥状購入のような悪徳に基づく行為である

ただしここで「差別的要素があるならすなわち善ではない」と考えると危険であると思う。それは完璧主義的な意見だろうと思う。

これは自分は、世間欺瞞に対する挑発だとも考えている。普段比較「悪」なくせに、そういうときだけ調子のよいことを言う人間がいる。あたかも「自分は善側の人間ですよ」と振る舞っていること・自分が選んだものを助けたことに満足していてその他には一切憐憫の情を向けない「ほかを悪と断罪するための正義」を感じているのもあるのではないか。「やらない善よりやる偽善!」と言って、やらない者を「悪」側に落とす文句もある。

もし多くの人間に対する不信感がある場合、選ばれなかった方に目を向けたくなる。彼彼女らが助からないのなら、それは善といえるのかという話のようにも見える。

自分には、増田は「嫌われている方を助けたい」という考え方があるようにも見えている。ちょうど増田が考えていることはロールズの「無知のヴェール」の話にも通じるのではないか。これは個々の立場を忘れるヴェールを被ってから正義を考えようという概念である。この概念はそこそこ有名だが、それほど一般的ではない。ほとんどの人々は伝統的な倫理観にしたがって寄付などを行っているはずだ(※ べつに揶揄しているわけではない)

平等に誰も救わないことについて

ただし差別うんぬんよりも、もし「すべてを救えないのなら救うべきでない」とすればこの世のほとんどは何も救えないことになる。われわれは有限の資源の中で生きているので、絶えず不足にさらされている。不足している中では選別が必要となる。

このあたりはトリアージ等の動画を見ると非常によくわかる。属性のせいで助けてもらえないというのは悲しいものである。何もないまま助からなかったよりも、助けられそうな資源が目の前にあるのに助けてもらえなかったという絶望はたしかものだ。それが現実である現実理不尽であり不公平であるしかポメラニアンを助けている人も、何も黒い大型犬に思いを全く馳せていないわけではないかもしれない。助けたいが、資源が足りていないために助けられないのだ。

どのように「公平に選別するか」も重要問題である。こうした点がトロッコ問題などで考慮されていた。選別しなければならないのだ。ポメラニアンと黒い大型犬はその「愛らしさ」に焦点をおいているので、その独善的な部分に嫌悪感を感じるのではないか。善という正義の皮をかぶって差別正当化しているように見えるのかもしれない。通常、笑って朗らかな態度で選別してはいない。血涙を流しながら、選べないという自分の無力さ無能愚鈍さとどこかで折り合いをつけて、否応なく選別している。

そして誰も救わない場合、「どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えない」と言っているとおりのようになるだろう。もしそれが現実となったとき、考え方はどうであれ実際に起こるのは「誰も寄付しない世の中」である。つまりどれだけ困窮しようが誰も何も手を差し伸べはしない。それはポメラニアンや黒い大型犬のみならずすべての生き物が平等絶望しなければいけない事態であると思う。

理想現実について

人々から金銭徴収して再分配することはODAなどで一応おこなわれている。

一方で寄付は、自発的自分の所有財産から抜いておこなっているものだ。これは財産権という強固な概念で守られている。

われわれは「自分の持っているもの自分の使いたいように使っていい権利」を持っている。これらをとりあげて自由使用することは、自由権や民主主義否定するものである

たこれは単純に「世界中で増税する」ということに他ならない。国はそれほど信頼できるだろうか。国同士は同意できるだろうか。現在の世の中ではかなり厳しいものとなる。

また、マクロ問題を持ち出して、ミクロ問題のやらないことの根拠に含めてしまうのはズルであろう。個人的寄付をすることと、国家群が寄付を集めて再分配することとは次元が違う問題である

まとめ

結局増田が言っているのは理想論なのではないか。「あるべき理想の姿」があまり現実と違いすぎる。今この瞬間にはどうしようもないことを前提としすぎている。遠い将来にそれが普通になることはあるかもしれない。しかし周りから見ればそれは「ただやっていない」「ただ誰も助けていない」のである

そして実際にその浮いた100円は何に使っているかといえば、個人的実益に対してなのではないか。これはどう言い繕っても「誰かを助けるよりかは、自らの幸福を高めたい」という行動である。この言はずいぶん切れ味の鋭いものだが、それが事実である。われわれは見ず知らずの黒い大型犬の命よりも、見ず知らずのポメラニアンの命よりも、コンビニお菓子の方を選ぶことがある。そちらの方が自分にとって幸福からだ。

増田はもしかすると「誰からも助けてもらえなかった」と感じているかもしれない。だから自分も手を差し伸べはしないのだと。しかし本当は助けられたかったのではないだろうか。助けてもらえない者たちから見れば、この世は邪悪な方が都合がいい。この世が邪悪から助けてもらえないのだと考えられる。それほど邪悪でないのに助けてもらえないなんて諦めがつかない。

寄付だろうがなんだろうが人の行動は利己的なものであり、己のためにするものだと思う。どちらかといえば、寄付することによって自分が救われているのだ。

べつにこれは自分個人意見だが、「全員を助けられないのなら寄付しない」と考えるのならば、あまりもったいないと思う。

誰かを救いたいのなら救えばいいのではないか

実はもっと極めてシンプルな話だとも思う。

少なくとも、正しく誠実に生きたいのであれば、寄付をした方がおそらくいいだろう。無理のない範囲で。

anond:20240116003349

正しく富を分配すれば平等で公正な社会になる、というのは社会主義につながるのだけど

今のところ歴史的社会主義がその社会を実現した例はない、というのが前提。

人間人間である以上、平等は無理で。

国や民間団体個人がそれぞれの切り口でばらばらに、時に共同で活動をすることで、

平均値的な平等と公平に近づけていくのが人間のできるせいぜいの事だと思ってる。

最初の話に戻すと、ポメラニアン大型犬がいたら。

自分は両方に100円を渡すか、責任者用途指定せず100円を渡すかするタイプだけど

からってポメラニアンだけに寄付をした人を責める事はない。

ポメラニアン寄付金が集中したらしたで剰余金大型犬やほかの犬たちに回って名もなき犬たちが救われると信じてる。

anond:20240116003349

では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?

どっちにも寄付しないより良いだろ

大型犬だって別に損するわけじゃない

俺の持論間違っていると思うから反論してくれ

俺は基本俺個人として何かしらの属性を救済するための寄付などはするべきではないと考えている

何故なら「誰かを助ける」という行為は同時に「助けない何か」を選定することでもあって、

例えば苦しんでいるポメラニアンの子犬に100円を寄付すれば助けられるという状況で100円を寄付するのは一般的には正しいとされる行為かもしれない

では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?

というと、その「黒い大型犬を見捨てて愛らしいポメラニアンのみを助ける」という選定の思考プロセスには正義にもとる何かしらがあるように思えてならない


一般的弱者とされる属性寄付を行うという行為差別みたいに言われることはまあまずないだろう

ただ俺が黒い大型犬みたいな立場だったとしたら「ポメラニアン世間に助けてもらえたけどあなたは助けてもらえませんでした、何故ならあなたポメラニアンのように愛らしくもなければ同情したくなるような顔もしていないからです」と言われて納得するだろうか?

差別』という単なる単語定義に当てはまるか当てはまらいかなんて当人には関係なく、目の前にあるのは属性のせいで選定されて助けてもらえなかったという不平等感と助からないというクソみたいな確かな現実があるだけで、

俺だけが救われない世界であるのなら、俺以外全員が救われない世間であった方がましだろうと俺なら思うだろう

俺は自発的寄付などは行わない、ただし納税は当たり前に行っているし、再分配みたいなものは国を通してやるべきかと思っている

もちろんこの国は民主主義で成り立っている上に人間運営している以上、上記のような問題が起こらないわけがないが、それでも個人感情のままに救済のリソースを再分配するよりはましだと思っている

もちろん国はそのような偏りが出ないように注意を払って税を運用すべきであるのは大前提


こんな考え方をしているんだが、どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えないから、どう間違っているのか教えてほしい

寄付するしないなんて個人自由から好きにしろよ」っていうのはわかってるからそれ以外で

2023-12-07

anond:20231207181533

毎食牛肉もらえてる海外大型犬動画見ると羨ましくて涙が出る

2023-12-02

anond:20231202153530

子育て罰ゲームではなくて趣味やぞ

趣味のなかでも高級な部類に入る趣味 

人間育成

大型犬買うよりお金がかかる

子育て自分の子供の成長を楽しむというエンタメ

ゴルフはじめようかな→でも、ゴルフやってもゴルフはなにも見返りがない!ってなるか?

2023-11-17

いまめちゃくちゃにグルーミングされてます……

毛むくじゃらの大型犬複数頭に絡まれ身体を擦り付けられたり顔を舐められたりしてます……

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん