はてなキーワード: 手続的とは
法哲学の議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定の属性を持っているから寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.
まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.
かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.
他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.
個体の属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.
「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンだからこそ人は憐憫を垂れる.
法哲学者の井上達夫の言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮が正義の普遍主義的要請と対立する」(井上達夫. (1986). 共生の作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.
では我々は,正義にもとるということを理由に,特定の属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.
何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.
そうではない.
なぜならば,民主主義国家によって達成される正義は手続的正義にすぎないからである.
「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬は放置することにした」.
これは本当に正義だろうか.
何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.
この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果的利他主義」である.
昨今のオープンAIのアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.
効果的利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である.
ここでの費用には,金銭だけではなく,自分の時間・労働も入る.
かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動を比較評価し,最もコスパが良いものに投資する.
この比較には,「リソース投下に対する社会的インパクトを定量化できる」のが大前提になっている.
社会科学の素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準で定量化することは不可能である.
例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.
定量化の前提は,効果的利他主義の限界の一つとして指摘できるだろう.
効果的利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.
便益を最大化することにこだわることは,特定の目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.
たまたまの理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義」宣言! : 慈善活動への科学的アプローチ. みすず書房. 42-43.)
そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.
特定の属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き的正義に留まるという限界がある.
実質的正義を追求するには,効果的利他主義のような一定の基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.
なお,筆者自身は効果的利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.
君は威点を知っているか。
威点または宇宙生命。宇宙生命はすでに我々の世界に溶け込んでいる。
我々の内側に、外側に、そして、間に。
威点とは宇宙生命であり、私たちの細胞の一つになっているかもしれないし、
それは威点の自由だ。
少なくとも、彼らの話を聞く限りはそうだ。どうしようもないぐらい、
だからやってることは明確。
人類の生活を豊かにし、生活を豊かにし、しいては宇宙全体の発展に寄与すること。
威点とはそういう意味だ。
逆にいえば、そういった性質をもちあわせていなければ、
それは威点ではないし、威点として存在し得ない。
威点は話せるのか?
話せる。ある日突然姿を現すことをもあれば、
僕が今こうしてこの話を書いているのも、そうした経緯があったからだ。
威点は語りかけてきた。
「俺はここにいるぞ」
って。「俺は」って一人称は僕が今付けたものだ。なにせ直接意識に語りかけてくるから、
本来口調などはない。意味の塊のようなもの、もしくは言葉になる前の意味の塊のようなものが伝わってきて、
それが人間の脳によって解釈されるとき、初めて言葉になるのだから。
だから本来、僕が君に説明しないかぎり、威点に口調などというものはない。
雰囲気はある。
威点が僕に語りかけてきたのは突然だった。
風邪をひいて寝込んでいたら、突然夢に現れて(もしくは僕が彼らの意識に突然現れて)
世の中の仕組みをほんのちょっとばかり教えてくれた。
こう書くとなんか変な気もしちゃうけど、「畑」のひとつとして役割をまっとうしている威点もいるらしい。
「畑」として役割をまっとうする威点?彼らは大まじめに言っていたね。そして威点自身も、大まじめに畑として役割をまっとうすると言っていた。
さて、今日はここまでにしよう。
僕の役割は、威点の存在を少しでも君に知らしめることだ。教えてもらったことはすべて脳内にある。
ぼくも彼らのように意識を飛ばせたなら説明は一瞬で終わるだろう。
けれど言葉というものはどうも手続的でね。一度にはすべてを伝えられないのだよ。
そしてすべてを伝えるには時間がかかる。毛糸の玉をほどいていくようなものさ。
あるいはCDはそこにあるとしても、データは読み込まなきゃわからないだろう。
(ジョブスがいなければ、CDってたとえはもう少し長く使えたかもね。ただ今僕がこれを書いているのもMacBookだ。)
じゃ、また。
憲法的な判断、手続的な瑕疵は置いておいて反対派に感謝したいと思ったことがある。
それは憲法が「国を縛るもの」という、基本原則を知らしめることに一役買ったことだ。(もちろん原則なので、何事も公共の福祉のような例外もある。)
少なからず、学生で憲法の講義を履修するはずなのに、それを覚えてすらいない人間が沢山いる。
学生ですらそんな体たらくなので、法学を習う機会の少ない人々は推して知るべしだ。
しかし、反対派は言い方は何であれ声を挙げた。
個々の問題は別として、全体として一歩先に進むことができるはずだ。
願わくば、民主主義は手段でしかなく実現すべきは国民の自由と権利の保護であるという事が知れ渡ると良い。
最後に守るのは国民である、自分自身ということを心の何処かに置くだけだ。これさえあれば憲法の目指すものは分かったのも同然なはずだからだ。