はてなキーワード: ゴロリとは
テレビのチャンネルを変えていたら日本シリーズが映った。ぼーっと見ていたらふと小学校のテレビのことを思い出したのだ。
俺が小学生だった30年ほど前、日本シリーズはナイターではなくデーゲームがほとんどだった。その時期になると、担任は授業が終わって掃除の時間になるころ「途中経過だけ確認してみようか」とおもむろに教室のテレビをつけ、隣のクラスにバレないようみんな静かに見るのが常であった。野球の内容には興味なかった俺だけれど、そのテレビ観戦の雰囲気はちょっとだけ特別なものに感じていた。同級生と一緒に見るというのがやはり大きかったのだろう。
『さわやか3組』や『たんけんぼくのまち』も、夏休みに自宅で見てもやはり教室で見るときの楽しさとは違ったのだ。他の学校はどうだったのかは知らないが、同世代で同じ番組の話で盛り上がれるところを見ると、全国的に教室で教育テレビを見るのは普通の光景なのだと思ってきた。道徳や社会科の番組は見るのだろう、と。
ところが下の世代に話を聞くと、たとえば当時放送していたであろう『虹色定期便』のことを一切知らなかったりする。でも『わくわくさん』『ゴロリ』のことはよく知っている。小学校でテレビを見る規準がどこかで変わったのだろうか。というか、現在の小学校の教室にテレビはあるのだろうか?
ちょうど私が大学院に入った頃から、いわゆる大学改革が進み、基礎教育のコマ数がどんどん削られていきました。私の専門の科目も、もともと需要が少なく、公募自体がめったにありませんでした。また少子化のために、短大などでは大学そのものが存続していけない状況が始まっていました。
論文を出して博士号を取り、著書も出しました。しかし、就職は決まりません。こうなると奨学金約500万円を返済しなければならなくなります。私は非常勤講師の肩書きで研究を続け、一方で実質的な収入は原稿料で得て、常勤の職に就くまでのつなぎにしようと考えました。
幸い、私の原稿を買ってくれるところがあり、大学から籍を抜く時にはその編集部でアルバイトもするようになりました。仕事内容はコピーを取ったりファックスを送ったり、封筒の発送作業をしたりです。ときには段ボール箱を積み上げる作業もしました。
家族はどうして博士号を取ってまで時給800円のアルバイトをするのかと反対でした。私の筆跡で宛名が書かれている封筒を見て気の毒に思ってくれる友人もいました。しかし私は、こうして忙しく毎日を過ごし、少ないながらも収入を得ることによって気持ちの安定を図ることが出来ました。
そのうち、原稿の仕事が増えていき、800円のアルバイトはやめました。私は、非常勤講師ともの書きで充実した生活を送っていました。憂鬱な気持ちになることもほとんどありませんでした。
唯一憂鬱になるのは、毎年の年末から4月にかけてでした。公募の結果がはっきりし、新しい年の人事が決まる季節です。知人が就職したと聞くとやはり内心穏やかではありません。なんであんな奴がと酒を飲んで発散したこともあります。また、非常勤は一年契約ですから、年末に更新の書類がちゃんと来るかどうかヒヤヒヤします。こちらに落ち度がなくても、カリキュラム上要らないと判断されればその講座はなくなります。実際に私の専門の周辺科目は年を追うごとに減っていきました。
眠れないでうなされたり、やたら疲れたり、注意力散漫で集中できなかったりという程度のことはよくありました。学会や研究会では周りの人が私に気を遣っているように思えて憂鬱でした。いつも行きの電車の中で身体が重くなり、引き返したくなるので、出かける時はスマイルスマイルと自分に言い聞かせていました。それが成功していたのか、私は困難な状況にもかかわらず、たくましく明るい人物だと言われていました。
そんな年を重ねて、私はだんだん疲れていきました。このまま一生非常勤の講師として終わるかもしれないという思いは私を暗澹とした気分にさせました。原稿の仕事が建て込んできて、専門の研究に割く時間が取れない時など、自分は何をしているのだろうと空しい気持ちになることもありました。
原稿の仕事では、時々トラブルがありました。他の人はトラブルがあってもさらりと流してしまっていました。しかし私にはそれが出来ませんでした。私は子供の頃から妙に正義感が強く、曲がったことを許せないところがあります。いつも自分の主張するべき所は主張して、編集の人とやり合っていました。それが後を引くということはなく、言うことを言うとさっぱり忘れてサバサバして根に持たないのですが。
鬱病を発症した頃、私は仕事で理不尽な目に遭いました(これは、もし裁判になったら文句なしに私が勝つようなことでした)。私は仕事を失いたくなかったので抗議するのはやめました。いつものように自分の言い分はきっちり聞いてもらい、反省すべき点は反省して今後につなげようとしていました。しかしこの時は、すぐに前向きになることが出来ませんでした。これをきっかけに私はため息ばかりつくようになりました。言わないでおこうとしても、「疲れた」と口から出るようになりました。いくら疲れても外には出さないようにしていたのに、元気にニコニコすることが出来ず、帰宅するとゴロリと横になる日が続きました。
思えば原稿の仕事を増やし続け、夏休み明けからはそれまでの2倍は働いていました。週に1度は徹夜のペースでした。いつもなら難なく乗り切っているささいなトラブルが、私の残された最後の気力を吸い取ってしまったのかもしれません。頑張ろうと思っていても力が出ず、焦るばかりの日々が続きました。常に自分に頑張れ頑張れと言い続けなければ何も出来なくなっていました。この頃、メールの最後にいつも「がんばろう」と書いてくるので、おかしいと思っていたと、後で友人に言われました。
「疲れた」とつぶやくようになってからのある日、私はカレンダーを見ていました。原稿の仕事はありますが、講義や打ち合わせで外出する日が2週間ほどないことに気付きました。その直後、私は体が粘土のように重く、何のやる気もなくなっていくのを感じました。それまでの緊張が解けて「気が抜けた」のかもしれません。この隙に鬱病が私の中に入り込んだのだと思います。
最後に研究会に行った日の晩、私は味覚を失い、翌日からは何が起こったというわけでもないのに涙が止まらなくなりました。研究会の準備をしなくてはならないのに、脳にベールがかかったようで、本を読んでも内容が全く頭に入らず、まともな文章も書けなくなりました。唯一好きだった家事の料理も、焼きめしやお好み焼きのような簡単なものを作るのがやっとで、食欲も全くなくなりました。私はパソコンで言うと「フリーズ」してしまったのです。
少し前に柿にまつわる増田が3件くらいあった日があり、
それ以来、自炊のデザートにスーパーで柿を買って帰ることが習慣になっている。
包みには次郎柿とか富士柿(訂正→富有柿)とか書いてあるが、帰ると包みのビニールを剥がして
冷蔵庫にゴロンと転がしているので、食べるときには何柿を買ったのか忘れてしまい、
元来あまり甘いものを食べる習慣がなく、たまにあってもコンビニスイーツ程度だった自分には、
皮をむくときは緑色で葉のように大きく張り出したヘタを先にむしって、ヘタ周りの皮をむきやすくしておく。
そういえば苺にも緑色が鮮やかなヘタがついているが、このヘタは光合成を行うのだろうか。
ヘタは実に直属の我が身を誇り、一般の葉を見下したりするのだろうか。
思い上がるなよ、あまり調子に乗るなよ、という気持ちをこめてヘタをむしる。
皮をむいた柿をひっくり返し、まな板の上でまず六等分に、更にそれを二等分にして一口サイズにする。
ゴロリと皿に盛り、爪楊枝でパクつく。
噛んだ断面からジワリと染み出す果肉の控えめな甘さそのものは柿独特だが、どこかメロンに通じている。
食感もやや硬いせいで世間的な評価で損をしているよな、と思う。
舶来由来特有の物珍しさやありがたみがないこともあるかもしれない。
柿のイメージは和だ。そういえば英語でなんと呼ぶのかも知らない。
最近はスーパーの棚の柿の品揃えが徐々に少なくなってきていて心もとない。
11月も、もう終わる。
手抜き→手でヌくこと
顔出し→顔に出すこと
し損じる→子孫汁
やさしさ→やらしさ
あちらを立てればこちらが立たぬ→アレを立てればコチコチに立たぬ
アハ体験→アヘ体験
願掛け→顔かけ
幹事長→感じちゃう
球筋→タマスジ
阿波の国→泡の国
ナイチンゲール→無いチンゲ得る
生中→生で中出し
ようつべ→幼壷
栄枯盛衰→英子聖水
ケンカ→クンカ
まんげつ草→まんげの草
ご自愛ください→ご自慰ください
初心を貫け→女芯を貫け
おさんぽ→おちんぽ
桃栗三年柿八年→乳繰り三年掻き八年
筆圧→膣圧
unknown→うんkなう
おちつく→お乳突く、お膣突く
みくびる→肉ビラ
ドイッチュ(人名)→ドH
小西→小四
NAMCO→MANCO
ちびまるこ→ちびまんこ
手こずる→マンズリの手コキ版をやる
また開いて~ 手を打って~ その手を上に~ → 股開いて~ 手を打って~ その手を胸に~
ケーキ入刀→性器乳頭
すげえ・・・拮抗しとる→すげえ・・・亀甲しとる
おざなり→オナ猿
世紀末→性器待つ
褒められちゃった→ハメられちゃった
乳業→ちちぎょう
厚顔無恥→睾丸鞭
足摺岬→足ズリ
アレグロ→アレがグロい
私も混ぜて→私もかき混ぜて(性的な意味で)
謀ったな!→破瓜ったな!
狭き門→狭き菊門
ちょっと置かしてください→ちょっと犯してください
お、値段以上ニトリ→お値段異常寝取り
界隈→卑猥
校内で講義→口内で口戯
四股踏み→踏みシコ
ブラジル→マラジル
メスを入れる→メスに入れる
カリブ海→カリ深い
サンドイッチ→三度イった
マリアナ海溝→マン穴開口
神尾菜穂→神オナホ
旅の恥はかき捨て→旅の屁はこき捨て
借りパク→カリをパクッ
おまけ→オマ毛
自慢げ→地マン毛
スジコ→スジマンコ
マンマミーア→マンマン見いや
付き物→月のもの
落ち着いて→お乳突いて、お膣突いて
粛々と執行する→シコシコとシコる
マタニティ→股に手
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
低ラン大はバカ比率高し、なんて大学単位で学コン話に花を咲かせている増田もおりますが、多くの学生さんは、まず自分の大学でバカを発見するのではないでしょうか。
また、バカと一口で言っても程度や具体は様々。そこで今日は、同じ大学に通うバカ女<G子>を例に挙げ、“バカって何だ”という愚かしい命題解法の一助にしたいと思います。サッカーは関係ありません。
G子は、本当に困った女です。まず精神構造がメルヘンです(メンヘルではない、近いが)。自らをお姫様と称し、白馬の王子様への焦がれを周囲に訴える、成人女性です。
口癖は「なんでみんな、物事を複雑に考えるの!?単純でいいのに!難しく考えたくない!」。
BL系の素質があるのか、はたまた女には生まれつき備わっているのか、何かと知り合いの男と男をくっつけたがり、一人で興奮して悲鳴(甲高い)をあげます。
http://anond.hatelabo.jp/20070623084221(なぜ『のだめカンタービレ』はセックスしないのか)
この点は上の増田が参考になりそうです。妄想甚だしい王子様を待つ恋愛観の人間は、具体的な男性性を避けるために、BLという空想世界に浸り込むのでしょうか。そこはどのような恋愛も許されるユートピアでしょうから。
話がそれましたが、G子は通常の挙動もおかしい。落ち着きがなく、「地がぶりっ子」という究極の属性持ちです。これを「ヂブリ」と周囲では読んでいます。
精神構造はメルヘンと言いましたが、言い換えると、文化記号弱者、というのがピッタリな気がします。
例えば、結婚が人生のゴールだ、どんな占いも信じて疑わない、女性向けメディアの価値捏造にひれ伏す、といった具合です。
しかし、G子の最も困る点は、コミュニケーションできない、ということです。まず人の話を絶対に聞かない。人が話をしているとボーッと呆ける。一対一なのに。そして、何事もなかったかのように自分の話をし出す。
そこで私は、彼女が喋る間ずっと黙り続け、話が途切れた時の反応をうかがうことにしました。そしたら、数秒の間を空けて、何事もなかったかのように次の話題を展開し始めたのです。末はサンマか噺家か。
こんな彼女と、数日前にキャンパスで遭遇してしまいました。1ヶ月ほど会ってなかったのですが。たまたま用事で一緒に歩いていた友人(男)と僕をみて、「本当に○○君たちって愛しあってるのね、ステキ。私はぜんぜんモテない…」と言い出す始末。どちらかというと僕は連れの友人が嫌いな部類で、用があるとき以外は一緒に歩きたくない。しかし、こちらが「何を言ってんだ?」という空気を流しても全然動じず、目の前にあるBL刺激剤を貪ろうとする。否定する声には聞く耳もたず、友人が海外へ留学するという話が出ると初めて反応し、「○○君が寂しくなるよ??!だめじゃん!」と怒り出す。
BLの標的にされた嫌悪感で吐き気がし、この界隈から脱出しようと強引に前進したところ、私はG子と接触してしまったのです。
G子はおかしな(形容しがたい、気持ち悪い)体勢でBL語りをしていたので、すぐにバランスを崩し、ゴロリと転がる。そして半笑いで涎をダラダラこぼしながら、「砂食べちゃった」とワンピースの裾で顔を拭く。起きあがり際、パンプスの踵をすべらせ、もう一度こける。
バカらしくなった私は、手を貸したが何も問わず、その場を去りました。
バカにもいろいろな基準があるようですが、私の思うバカとは、「付き合っているとバカらしくなってくる」種類の人間です。
以上、お付き合いいただき、ありがとうございました。