はてなキーワード: 篤姫とは
NHKは男→女→男・・・と必ず女主人公を年毎に入れるようにする謎采配が昨今注目されているけど
大河では実は女の活躍はあまりなかったので無理やりにでも戦国時代などでの女の活躍を描こうと躍起だ。
しかし、何故女にこだわるかというと、ジェンダーじゃなくてただ一昔前に「篤姫」が大ヒットした事による。
要するに宮崎あおいのせいでNHKは未だに幻想を見続けている。
だから男性か女性かもずっと謎とされてきた直虎なんかを女主人公と決め付けて放送決定したのだ。
また甘い蜜を吸いたくて。
昨日、加来耕三さんという歴史学者の講演を聞いた。
多分増田をみるような輩でその講演を聞いたのは俺くらいだと思う。
会場は老人ばっかりだった。
「歴史に学び、未来を読む」というのがその講演の題。ちょっと壮大な感じだが、内容はというと常識的に物事を考えることが大事だ、というすごく地に足のついた話だった。
歴史にロマンを求めるのは現実を無視することだとして、NHK大河ドラマを強烈にDisっていた(龍馬伝は80%嘘で、篤姫は200%嘘だとか。残念ながら平清盛への言及はなかった)。
一番笑ったのは龍馬への言及。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は昔の講談本だかなんだかを下敷きにしていて、あくまで創作なので「龍馬」ではなく「竜馬」表記にしているのだが多くの日本人はあれを本当だと思って誤解しているという。
話をばくっと要約すると、龍馬は子供の頃勉強ができなくて大きくなっても寝小便をしていて、唯一剣術に才があったという話になっているが、頭が悪くて剣術に秀でている人間がどうして剣術指南とかにならずに日本初の株式会社を作ったり薩長同盟を仲介したりしているんだ。人間はある日突然人が変わったように優秀になったり馬鹿になったりはしない、常識で考えれば龍馬は勉強が得意なタイプの人間だったと考えるべきだ。だいたい龍馬は暗殺されるとき左手に拳銃、右手に刀を持っていたが拳銃を打ち尽くして弾切れになったあと刀を抜かずに拳銃を振り回したと伝えられている。どうして剣術の達人が刀を抜かずに拳銃を振り回すんだ。というわけで巷で伝えられている龍馬のイメージは作られたものである。
大学で教えていると(加来先生は奈良大学の先生だそうです)毎年必ず龍馬かぶれが一人くらいいるが、みんな悲しいくらいにワンパターンで、「先生、おれは今はバカですが将来はビッグになるかもしれませんよ」などと言う。今日の次に明日があるんであって、今日バカな人間は明日もバカなのだからこつこつ積み重ねなければしょうがないと説くが伝わらない。坂本龍馬が大好きと言う人間は信用してはいけない。
…ということで俺は歴史に疎いのでふんふんそうなんだという感じで聞いていたのだが坂本龍馬に関する結論だけは以前からの俺の認識と一致していた。「坂本龍馬が好きだと言う人間は信用ならない」歴史にロマンを求めて現実を見ない人間である。そう、例えば孫正義みたいな。←結局これが言いたかった。
阿久根市関係のニュースが昨日の新聞に載ってたので、ちょっと書いてみる。
市長の障害者切り捨て容認発言は、はてなでも取り上げられて大炎上を起こした。もちろん常識的に頭で考えればとうてい容認できるような内容ではなく、私も何言ってんだこいつは、と思ったんだけれど、そんな市長が強く支持されているのには感情的な理由があると思う。
それは、阿久根市が鹿児島県内でも切り捨てられていると住民が感じても仕方がないような状況だから。
それを象徴するような出来事のひとつに、九州新幹線の開業がある。地図を見てもらえればわかるように、旧鹿児島本線は南から
の順番で並んでいる。過疎化が進んでいるとはいえ、それでも限界集落だらけの県内では都市部であり、かつては博多からの特急つばめも停車している駅だった。
しかし、九州新幹線の開業によって状況は一変した。阿久根市には新幹線が通らず、川内から出水に直行するコースをとった上に、採算のとれない川内以北は肥薩おれんじ鉄道として分離されてしまった。新幹線の通った鹿児島市には篤姫効果も重なって観光客が大きく増え、川内や出水にも鹿児島市に対する一種のベッドタウンという役割が生まれた。一方、収益のとれる路線はJR九州に残され鹿児島市が出資していないこともあり、阿久根市民に与えられたのは膨大な財政負担と割高な料金、快速しか止まらない不便な駅だけ。
開業前からこのようなデメリットを指摘する声も無くはなかったものの、建設を推進する鹿児島県・市の大きな声にかき消されて県内マスコミなどでも大きく取り上げられることはなかった。ほとんど黙殺されていたといっても過言ではない。
過疎化で、経済的には負担だからということで切り捨てられている、と感じている人たちが、自分で働いて稼ぐことのできない障害者は切り捨てられても仕方がないという意見に同調してしまうのは何も不思議な話ではないと思う。
とは言っても、大抵のスポーツなら自分がやるのは楽しい。下手でも下手なりに楽しめる。
楽しみ方が分からないのは観戦のほうだ。
スポーツニュースとかでJリーグの入れ替え戦とかのサポーターの様子を見ると、うわー…、ってなる。
何なの?あれは何であんなに盛り上がってるの?
なんて言うの?究極の機能美?ただ速く走るだけで美しいとかそういうの?
頭で考えると陸上競技とかはそれで納得出来る。
でもこういうのは頭で考えることでもないと思うので、スポーツ観戦が好きな人、誰か僕にスポーツ観戦の楽しさを教えてくだパイ。
となるとやはり僕は物語を求めているのだろうか。
Jリーグの入れ替え戦の件は、チームや選手のバックグラウンドが分からないからとかか。
いやでも、それまで見たことの無い篤姫の、何でも無い回をちらっと見ただけで
泣きそうになってしまったぐらい感情移入しやすいんだけど。
ぼくはテレビが好きだった。それは確かなことで、特にバラエティ番組を見ている量では誰にも負けない時期があった。それは短い期間(約1年)だったけど、その時期にNHK以外で放送されたバラエティ番組は全部録画して見ていた。毎日だいたい8時間、日によっては16時間近くかかることもあった。今考えたら親にとっては迷惑な話だったかも知れない。また今みたいにバラエティがつまらなくなかったからできたことだ。しかしとにもかくにもバラエティ番組の知識だけではその時期はおそらく誰にも負けなかった。ヒキコモリだからできたというのもあるだろうけど。
だからどうというわけではないのだが、テレビを見なくなったのはやはり面白くなくなったからだと思っている。もちろん急に見るのをやめたわけではない。それは長い歳月をかけて徐々に見なくなったのだ。そうして、飽きているというのともまた違う。面白いバラエティ番組があれば、やっぱり今でも面白いなあと思うわけだから。それが「サラリーマンネオ」だったり「もやサマ」だったりする。長い割に内容がない、まるで昨今のバラエティ番組のような文章に疲れてきたのでこの先はちょっとはしょる。
だから、ぼくがテレビが面白くなくなったと感じるのは、いわゆる俗流若者論とも違うと思う。表現ジャンルというものには栄枯盛衰があって、そういう視点で言っている。ある時栄えていたジャンルがそれより下り坂になって全体的に面白くなくなるということは歴史的にはいくつもあって、例えばギリシアの時代の彫刻の技術はもう失われたし、ルネッサンスの頃の絵画の技術も失われた。中国の青磁の技術だって、いまだに再現できなかったりする。
だからそれは、いつの世でも老人が「最近の若者は軟弱になった」と言ったりしていることとは意味が違う。文化は栄えたり滅んだりするのだ。永遠に進化し続けるなどということはない。テレビがつまらなくなったというのはそういう視点に立ちながら言っているのであって、何もノスタルジーに浸っているわけではない。だいたいぼくは子供の頃に素晴らしいと思っていたものよりも、大人になってから素晴らしいと思ったものの方が印象深いものが多いのだから、そういうノスタルジーにとらわれるような俗流若者論的な考え方とは無縁である。
その上で、なおぼくの書いたことに反論があるのだとしたら、どうか面白いテレビ番組を教えてほしい。ちなみにこの前たまたま「篤姫」を見たらとても面白かった。なんだそんなものも見ずして最近のテレビは面白くないと言っているのかと言われるかも知れないが、それは実際その通りだ。
ぼくは今ではほとんど月に数本のテレビ番組しか見なくて今のテレビをつまらないと言っているわけで、それは前のエントリーでも書いたけど電車の中でテレビを見る人がいないからである。だから、乗ってる電車がたまたまそうかも知れないと言われれば、それは確かにそうかも知れない。それから、電車の中でテレビを見る人が少ないからといってテレビの衰退に結びつけるのは無理があると言う人もいるだろうけど、これに関しては無理はないと思っている。説得力はないけどね。だから別にそれで人を説得しようとも思わない。ぼくはただ坂田信弘のゴルフマンガに出てきそうな外国の頑迷なキャディーのように、これまでの経験と五感を働かせて、なんとなくグリーン上空の風の流れを予測しているだけで、そう予測する根拠を述べよとゴルファーに言われても、説明しようがないのだ。
それを傲慢だと言うのには異を唱える。ぼくはそれを誠実な態度だと言ってほしい。この種の誠実さがないと、真善美というものは突き詰められないところがある。それはid:aurelianoを見て「こいつこそキングオブうすらバカだ!」と叫ぶのにも似ている。その結果、ぼくはid:aurelianoやあるいはその取り巻きにdisられるかも知れない。しかしそれを自覚した上でなお、叫ばずにはいられないところがある。それを傲慢と呼ぶのなら、それはそれで仕方ないが、しかしそれをぼくは受け入れられない。
それからそういう態度だと議論や話し合いにならないという人も時々いるが、ぼくは初めから話し合いを求めていないどころかそれを回避している。なぜなら議論や話し合いはクリエイティブにほとんど寄与しないと考えるからだ。それにしてもテンプレートとして使うにはもう少し短い方がよかったが,どこを切り取っても内容がなく、全部がテンプレートに使えそうなのはさすがだ。
これは実際に見たり聞いたりした話じゃなく、僕がよく巡回しているとあるサイトで見かけた記事に書かれていた事だ。
簡潔にいうと
マクドナルドのCMで篳篥を吹いていた人を見て、サイト主は親父さん(サイト主によると雅楽の権威、らしい)に「あんなに軽快に吹けるの?」と質問すると「あんなに軽快に吹けるものではない。」と親父さんに言われる。
だが、親父さんは次の一言で
「こいつはもうこういう事でしか拾えてもらえないんだよ。」
と、言ったらしい。
彼は雅楽器と現代楽器のコラボレートで話題になり、映画やテレビCMに楽曲を提供したり、音楽や歴史やバラエティー等のテレビ番組や、更に大河ドラマの篤姫にも出演。