そもそも「転売肯定派が転売だと主張する行為は本当に転売なのか」って論点を都合よく無視してない?
本当に転売だとすれば「転売は認めるべきかそうでないか?」っていう増田の論に移ればいいけれど、その前段階の「それは本当に転売か?」って言う段階をスルーして、転売であることを(論点化しないことによって)あたかも事実であるように規定しているよね。
さて、じゃあ、転売ではないとすると何なのか、といえば物じゃないから転売じゃないという話だ。例えばコンサートなんかの場合、「ある公演を任意の条件(時間とか席とか)で見る権利の契約」ではないのか? 契約だとすれば、契約の片側(運営側)の了解を得ずに、第三者にそれを譲渡するのは許されるのか? そう考えればこれは否だよね。契約なんだもの。当事者以外に無断で再契約しちゃまずいでしょ。多くの場合これはチケットの約款に書いてある。
うちはでないけどな
それはどの会社もそうだぞw
ただの一側面としてだが平成になって変わったのが鬱病などの精神疾患に関する認知度だろう。うつ病になったら会社を休むのが普通でパニック障害などの精神疾患にも障がい者保険が適用されるようになった。いいことである。
精神疾患などのなにもかもたちゆかなくなる特殊な状態とは別に平成になって(というかここ最近)感じるようになったのが絶望したまま人といることが許されないような感じをうける。
特に社会人におけるコミュニケーションではそうだがポジティブでコミュニカティブで微笑を絶やさないで話すことを暗に強制しているような空気を感じるようになった。人間がゴロンとそのまま社会に存在することは許容されなくなっている。そんなロールプレイ的空気があるせいか無理してポジティブな人間であるとアピールするかのように取り繕っているように見える人もいる。
常に笑顔で聞き取りやすい声を発することがコミュニケーションをする条件のようになっていて普通に会話をすることがたまに難しいと感じる。普通に会話をすると「冷めた人間」のように見られるから自分も道化を演じる。本当は別に何も面白くもないのに笑ってみたりする。
定型文を駆使して会話を途切れさせないようにして別に興味もない話に無駄に多く相槌をうつ。正直言ってそのすべてがめんどくさい。もっと普通に話したい。でも普通に話すとコミュニケーション能力が低い人間のように見られる。
精神疾患は社会の病理だととらえられることがある。個人と社会の乖離がその個人の精神状態を疾患であると結論づけるとするなら社会が通常の状態から乖離しているかもしれないという視点もあってしかるべきである。
例えば人と食事するのが苦しいという会食恐怖症がいい例である。普通、他人がたくさんいる状況で食事をとることは人間を動物として考えた場合には自然状態とは言えない。僕達が他人と食事を共にするのは「慣習」である。その慣習がいきすぎたり気づいてしまった時には通常の状態でその場所にいることが難しくなる。
鬱病などの適応の作法であるコミュニケーションにおいても同様のことがいえる。コミュニケーションの舞台が過剰なポジティブであふれ返っていれば普通の状態でその場にいることは「相対的」に絶望している状態である。その相対をいつのまにか内面化して自分が悪いと自覚して劣等感を生み高じれば鬱病となる。
抑うつリアリズム(鬱病の人間のほうが社会を正しく見ているという説)がどういう論理のうえにたっているか普通に笑顔で会話している僕達のほうが考えるべきだろう。平成は社会から絶望を隔離した。鬱病という名のもとに。それは社会が過剰なポジティブに支配されている証左でもあるだろう。
全員死んでくれ