2019-05-04

絶望隔離としての平成

ただの一側面としてだが平成になって変わったのが鬱病などの精神疾患に関する認知度だろう。うつ病になったら会社を休むのが普通パニック障害などの精神疾患にも障がい者保険適用されるようになった。いいことである

精神疾患などのなにもかもたちゆかなくなる特殊状態とは別に平成になって(というかここ最近)感じるようになったのが絶望したまま人といることが許されないような感じをうける。

特に社会人におけるコミュニケーションではそうだがポジティブコミュニカティブで微笑を絶やさないで話すことを暗に強制しているような空気を感じるようになった。人間がゴロンとそのまま社会存在することは許容されなくなっている。そんなロールプレイ空気があるせいか無理してポジティブ人間であるアピールするかのように取り繕っているように見える人もいる。

常に笑顔聞き取りやすい声を発することがコミュニケーションをする条件のようになっていて普通に会話をすることがたまに難しいと感じる。普通に会話をすると「冷めた人間」のように見られるから自分道化を演じる。本当は別に何も面白くもないのに笑ってみたりする。

定型文を駆使して会話を途切れさせないようにして別に興味もない話に無駄に多く相槌をうつ。正直言ってそのすべてがめんどくさい。もっと普通に話したい。でも普通に話すとコミュニケーション能力が低い人間のように見られる。

精神疾患社会病理だととらえられることがある。個人社会乖離がその個人精神状態を疾患である結論づけるとするなら社会が通常の状態から乖離しているかもしれないという視点もあってしかるべきである

例えば人と食事するのが苦しいという会食恐怖症がいい例である普通他人がたくさんいる状況で食事をとることは人間動物として考えた場合には自然状態とは言えない。僕達が他人食事を共にするのは「慣習」である。その慣習がいきすぎたり気づいてしまった時には通常の状態でその場所にいることが難しくなる。

鬱病などの適応作法であるコミュニケーションにおいても同様のことがいえる。コミュニケーション舞台が過剰なポジティブであふれ返っていれば普通状態でその場にいることは「相対的」に絶望している状態である。その相対をいつのまにか内面化して自分が悪いと自覚して劣等感を生み高じれば鬱病となる。

抑うつリアリズム鬱病人間のほうが社会を正しく見ているという説)がどういう論理のうえにたっているか普通笑顔で会話している僕達のほうが考えるべきだろう。平成社会から絶望隔離した。鬱病という名のもとに。それは社会が過剰なポジティブ支配されている証左でもあるだろう。

これだけ鬱病適応障害の多い人が多いこの社会はありていにいえばなにかがおかしいのである

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