僕はコミュニティのメンバーではないし、プロジェクトや仕事などで絡んだことは無かった。
そんな程度で個別で会うことも、遊ぶこともなかった。
とあるウェブサービス上で多少のやりとりをした。そのサービスも今はもうない。
それから、狭い場所で何人かと一緒に酒を飲み食事をした。それも数年前。
「道で出会って、知り合いになった生き物がふと見ると死んでいた。
そんな時なんで悲しくなるんだろう。そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ」
そういうことかもしれない、ただ、それだけのことかもしれない。
一瞬の辛味しか無かった僕が悲しんで、ましてやダイアリに上げていいか分からない。
分からないけど、上げずに居られなかった。
3つ。
・その癒えない傷は“杞憂”だ。仮に空が落ちてくる事を心配するとしても、それは一人の悩み事ではなくて世界全体の問題だ。原罪や人類として生まれてきちまった事も同じく、一人で悲しむべき問題ではない。
・立ったら歩き出していい。好きなところへ自分で歩いてゆけばいい。
お前の気持ちもわからんでもないけど、上司の気持ちもなんとなくわかるなぁ。
上司と部下ってことは同じ部署で、基本的にはお前のスケジュールは上司は把握してると思ってていいよな?
その前提で
>私「午前中に会議があるため<とある道具>をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか。」
これ聞いたらもやもやするなぁ。
おそらく上司だって午前中に会議があるのはわかってるはずだろ?
だとしたら「午前中に会議があるため」っていう語り出しがもうおかしいじゃん。
「とある道具」が必要になる理由は、「午前中に会議があるから」じゃなくて
午前中に予定されていた会議で「『とある道具』が必要なのに、それがないから」だろ?
「『とある道具』が必要」な目的と「それが用意されていなかった」現象と「なので上司に借りたい」という要望、
借りたいという申し出のためにはこの三つが必要なんじゃねえの?
「午前中に会議があるため」「『とある道具』をお借りしたい」なんて言われたら
「会議があるのが借りたい理由じゃねえだろ」って聞きたくなる。
なので補充もやろうと思えばできると思う。
のんびり迫ってくるゾンビなら、とりあえずゾンビから十分離れた場所まで逃げて、
火炎瓶をたくさん作って置いておいて、ゾンビどもをその場所まで誘いだしてから、
そこに置いてある火炎瓶を投げまくるとかできるじゃん?
杉樽鼻緒ってだけだろ。
確かに、さまざまな生殺与奪は自分以外の要因によって決められ、世の中は自らの意思とは無関係に動いてゆく。
「運命とか俺の知らないところで勝手に決まっちまって、こんなん戦えるわけねーじゃねーか」と思う自分の心と戦う。
戦わなければ、いずれ何かに縋り付く。そして自分の足で立ってはいられなくなる。
それが一時的なものであればいいが、心を折られたままの人は、もう自力では永遠に立てなくなってしまう。
共働きの親の為に子供を格安で預かってくれる保育園を運営していたり、逆に年老いて家族もいなくなったような人間を預かる養老院みたいなのを運営しているのもある。
それってどれくらいの割合で?
別に宗教じゃなくてもそういうの運営してる所いくらでもあるよね?
むかーしむかしはそれこそお寺とか、そういう役割あったけど、今やそんなところ皆無じゃない?
ただただ坊主丸儲けばかりじゃない?
そりゃ、中には身を切って、って人も居るかもしれないけど、それは一般にも居るわけで、別に宗教じゃなくてもいい。
ってか、宗教の場合は、なにもしないで金集めてんだからむしろ当然だろ。
その昔、佐村河内守みたいに目が見えなくなったり耳が聞こえなくなった人に向けて、音楽家になるよう教育を施したという歴史もある。
これってホントなの?どこに有る話?
本当に弱くて立ち直れない人は、ちゃんと面倒を見るシステムが整えられている。
どこにだよ。今の時代、立ち直れなくなった人がお寺行ったらなんかしてくれるの?
お坊さんが炊き出ししてる、とか殆ど聞かないんだけど。ヤクザ以下じゃん。
ちげーだろ、人の心を弄んで金貪ってるだけじゃねーか。
なんで、あんな僅かな土地の為にたけーかね払わなきゃいけねーんだよ。
おかしいだろ。
“現実の問題に対して結局は自力で立ち向かわなければならない”
その事実
事実?本当にそうでしょうか。こんなことを言うのが聖職者とはおかしいとおもいませんか?あなた。
生老病死にイナゴに弾圧、ワニの脳はお前と関係なく性欲を分泌するし、世界はお前と関係なく始まって終わる。
「おつかれさまです! ●時からの××の会議の件でご相談があるのですがお時間よろしいでしょうか?」
「××の会議では▲▲がないため☆☆できません。▲▲の貸し出し手続きをしていいでしょうか」
「お忙しいところありがとうございした!」
これが足りてないのでは。
先日姉夫婦+その子供(要は子供の世話要員)とディズニーに行って思ったこと。カップルの割合が下記のようでした。
ブサメン+ブス(2割)
イケメン+ブス(0割)
俺、女じゃなくてよかったなと思いました。まあ、ブサメンの俺はイケメンをしのぐほどのコミュ力がないと彼女ができないってことなんだよねたぶん。
弱者救済を旨とする宗教法人の活動の一側面は存在するが、大事なのはそこではない。
苦しんでいる時、大変な時、助けてくれるが、場合によっては無償に近い状態で助けてもくれるが。
残念ながらそこまでのスペックは備えていない。
少し前まで孤児を引き取る聖職者も珍しくなかった。デイサービス展開したり霊園を区画分譲する宗教法人もある。
ただし、生活の面倒をすべて見て、人生の最期を看取る事までできたとしても、心を現実から逃がしきる事はできないという事だ。
人一人の人生を、全部全部宗教が引き受けて、面倒見てあげられるわけじゃない。
心に無限の救済を与えられるわけではない。
疑う余地のない信仰を与え、それで心を満たし、人生の終末まで幸福を与え続けられるわけじゃない。
人間は生まれてから死ぬまでずっと考え続ける生き物だ。たとえ生まれてから死ぬまで、揺り籠から棺桶まで宗教に世話になったとしても、信仰に一分の隙もなく心まで満たしてはもらえない。
もちろん、幻想として「そんな宗教があってくれたらいいな」「宗教はそうあって欲しいな」という願望があるのはわかる。
皆の心にもあるだろう。
だがそれは甘えでしかなく、いずれ現実として直面し克服すべき弱さだ。
足を骨折した時の松葉杖としては機能するが、足が完治した後になお、自力で歩き出す助けにはならない。
心を折られた時に優しい薬として機能するが、心が完治した後になお、精神的自立を支える補助具ではいられない。
また本人のためにもならない。
幼児が転んで傷の痛みに泣き喚いても、いずれは自分で立って歩き出すように。
誰もが皆、いずれ自分の足で立って歩かなければならない。