はてなキーワード: リッケルトとは
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
ダークソウルっていったらあれだ。俺にPS3を買わせた作品だ。
当時、自分は「PS2で十分でしょう。PS2の方が面白いゲームいっぱいあるし。」とか言っていた。てか、当時はそういう奴がいっぱい居た。
俺がPS3をはじめて触ったのは大学生になって大学の友人が大学の近くに居を構えて、働きたくないと考えて進学したバカ5人が20歳を越えて、そのワンルームで毎日のようにくだらく集い、馬鹿騒ぎをしていた頃だ。
友人が「めちゃくちゃおもしれぇゲームを買った。」といった。それが、今年の二月に惜しまれながらオンラインサーバーが閉じたデモンズソウルというゲームだった。
4人はその友人のプレーを見つつ「何回も同じ死に方してるんじゃないよ」だとか、「お前ほんとゲーム下手だな」と笑いながらプレーをしていた。
彼は、ガンダムVSガンダム NEXT PLUSで5人の中で自分の次に強かった。なのでアクションゲームは得意なのはずなのだが、彼が操るキャラクターは慎重で、おおよそスタイリッシュとは言えない動きをしていた。
彼は「なら、増田くんがやってくれ。このゲームがどれだけ難しいかわかる。」と言われ、夜中の1時、酒も廻りに回って周りがグダグダしていた時刻に自分は友人からノーアドバイスでキャラメイクを開始した。忘れもしない。
選んだのは「貴族」だ。レイピアを持っているのが気に入った。自分は当時の2chコピペで「レイピア」を「レイパア」というのが流行ったせいでレイピアが好きになっていた。
ゲームを開始する。説明を読みながら進める。青目の騎士を戦う時、友人はなにも言わない。拡散の尖兵と戦う時、友人は「お前はこいつに負ける」と言い出す。自分は「馬鹿なこと言っちゃいけない。このゲームの本質はわかった。モンハンのようなアクションにみせかけたターンバトルだ。」といううちに自分は尖兵に一発を喰らって負けたのだ。友人は笑っていた。
そこから、酒の酔も冷め、起きているのは自分と友人で金曜日の夜から日曜日の昼までひたすらにナビ友人、プレー自分でデモンズソウルをして、一周終わらせたのだった。
その友人から「デモンズソウルの続編がでる」と聞かされたのは社会人になったばかりの頃だった。
働きだして初任給を貰った時、「これだけあればPS3とダークソウルが買えるのではないか」と考え、働きたくない思い全てをこのダークソウルに託して初仕事をこなしていったものだ。
サービス開始したダークソウルは、まさしく「ダクソ」であった。
デモンズソウルの良さが全て失われたオンラインシステムに憤慨した。
まず、オンラインプレイなんてできないレベルでサインが見えない。そもそも発売後1週間はオフラインプレイ強制だったはずだ。間違いない、自分は2日目あたりでオーンスタインとスモウというダークソウルの難関と呼ばれるボスで、レイピアと弓を巧みに使い、いや、実際はスモウが倒れた後のオーンスタインが柱に引っかかり、遠距離雷しかしてこなくなったおかげで、弓でチクチクとダメージを与えて勝った。「オンラインプレイさえあれば」と何回も思ったものだ。このオーンスタインとスモウに3日間進行をストップさせられたのだ。友人はその頃「病み村が越せねぇ、しかも戻れねぇ、詰んだ」と言っていた。
友人に「手伝ってくれ」と言われてレベルをあわせたキャラを再度作り、サインを書くがマッチングまでによくて15分かかる。
それでも、自分がダークソウルをひたすら何周もしたのはストーリーが良かった。
一周目は楽しむことすらできなかったストーリーだが、情報が揃ってきて、NPCの腹の中がわかると、自分の作ったキャラクターの世界が広がったようでワクワクした。
ちなみに一番好きなNPCはローガンだ。彼はおおよそオビ=ワン・ケノービめいた賢者として書かれるが最後は神の智慧を身に着けて、服を脱ぎ去り狂ってしまう。しかし、主人公に分け与えた神の智慧により一撃で討たれてしまう。可愛そうで一番ダークソウルらしいキャラだと思う。ダークソウルでは、主人公に友好的であればあるほど狂人となってしまうのだ。悲しいね。
全く飽きる事もなくやりこんでいたらその一年後、DLCがでた。いや、まずは先行でPC版(DLC内包)がでた。
日本ではおま国で変えなかったが、ロシアのシリアルをロシアの販売サイトで買い認証させて無理やり始めた。PCでは、慣れないXBOXのコントローラーを使い、☓と○が逆なのを有志が作ってくれたmodで解消し、これまた有志が作ったmodで画質を上げてプレイした。
正直言って震えた。DLC部分だ。正直に言うと、オーンスタインとスモウは、上述の経緯から完全に自分のトラウマであり、敵であった。四騎士の物語は考察を読むが「シフがかわいそう(小並感)」ぐらいの感想しか抱かない程度に敵視していた。
深淵歩きのアルトリウス。DLCは彼にスポットが当たった。DLCをやり終わった後、自分にあったのは深い四騎士への愛情だった。
あんだけ敵だと思っていた四騎士も、結局は自分がいいと思うことをしているに過ぎなかった。アルトリウスはウーラシールを深淵から救うため、オーンスタインはそうやって得た平穏を守り、グウィン王の意思に従った。キアランとゴーはなんかしてた。
よく考えたら無数に借り続けたオーンスタインとスモウ。オーンスタインが死んだ時、スモウはためらいなくオーンスタインの力を吸い自分を強化するが、オーンスタインはスモウが倒れた時、そっと駆け寄り、兜で顔は見せないが悲しむようにうつむく。そして、意を決して力を奪い取るのだ。王女の間へ行く資格をプレイヤーがもつか試すために。
アルトリウスは主人公が相対するとき、完全に深淵に取り込まれ、左手を失った狂人として戦う。その強さは凄まじいもので、今まで属性武器や呪術に頼った人間ほど苦しめられる耐久と素早さをもっていた。オーンスタイン以上である。しかし、彼とシフの関係。深淵歩きの逸話、そして、DLCをクリアした後のシフとの戦いでプレイヤーの心は「フロム許せねぇ」という域まで生き身体は闘争を求め、ACの新作が出た。
完全に四騎士、特にオーンスタインとアルトリウスに心を奪われた自分はコスプレキャラを作り、わずかに拾われる可能性がありそうなDLCエリアにサインを出しまくったものだった。
ダークソウル2のファンには申し訳ないが、自分はダークソウル2が受け入れられなかった。
四騎士、特にアルトリウスとオーンスタインの扱いが「お前らコイツら好きだろ?サービスして提供してやる」といったような雑な扱われ方されたのが一番うんざりしたが、自分が思想を巡らせたダークソウルの世界が完全にフロム側にいいように利用されたような気がした。
ゲーム内容は面白かった。多くの武器に多くのアクション。大味で迫力のある魔法と、ステータス重視のアクション性ははっきりいって面白い。ダークソウル2は好きな人がいるのも頷けるほどゲーム内容はよいからだ。
でも、ブラッドボーンは好きだ。ダークソウルと共通点を見出すなら、ブラッドボーンもダークソウルと同じく、主人公に友好的であればあるほど後半にひどい目にあうのだ。正直、主人公以外救われていない。これがフロムのやり方なんだなと安心した。
ダークソウル3は2よりマシだ。
まだ、四騎士が匂わせる程度で済んでいる。なんというか、自分みたいなめんどくさいファンに配慮してか、批判を避けるためか、四騎士はフレーバーとなった。しかし、ダークソウルにガッツリと関わる「火継ぎ」の続きが書かれていて、ダークソウルをプレイすればしているほど、自分が冒険した結果が隅々に表れていて心を打たれた。
最後のボスのBGMがグウィンアレンジなのは今思えばあからさまかなとおもったが、ゲージを終わらせて、火継ぎの歴史と戦ってる前半では流れず、グウィンのような力を手にしたボスと戦う後半で流れるのはそんな事考える余裕もなく、感動でしかなかった。何百回とパリィで殺してきたグウィンはパリィを拒否してきたがまさしくグウィンだった。
はっきりいって最高だ。多分、2や3をしたあとに全くプレイしていなかったが、2や3をプレイした後だからこそ、このダークソウルの物語はまるでダークソウル内では歴史に確実に残るような大事な演出がされているが、3からみるとたったちょっとのことなのだ。たったちょっとだが、無ければ3の世界はなかった重要な事なのだ。ダークソウル全体の世界で見ればものすごくものすごく小さな事。
そして、戻ってきたのだ。
アノール・ロンドのソラールが座っている篝火に到達した時、びっくりしたのはそのサインの多さだった。そして、サインを書くと数秒で拾われる活気。P2P方式のオンラインからサーバー方式のオンラインになり、ダークソウルが完成したのだ。
もうなにも言うことはない。完璧なダークソウルだ。自分がダークソウルに不満を持っていたことが解消された。
今後、SWITCH版がでる。
SWITCH版ではじめてダークソウルに触れる人もいるだろう。
そんな人が、自分が勝手に思惑して、勝手に魅了されて、勝手に妄想を爆発させた(俗に言うフロム脳)世界を初見で、しかも最高の環境でプレイできるなんて羨ましすぎる。
きっと自分みたいにオーンスタインを恨みに恨んで心が壊れる寸前まで行く人はいないだろうが、あんな思いはしなくてもいいのだ。最終的には自分はオーンスタインを愛しているし、きっとしゃべるNPCであったならローガンを越えて一番好きなキャラと言うほどだろう。まぁ、でもやっぱローガンが好きだ。
最後に、ローガンについてフロム脳を爆発させてこの増田を終わらせたいと思う。
再び見て思うのは、多分、ローガンはプレイヤーの時間軸の人間ではないということ。小ロンド遺跡に鍛冶屋のリッケルトがいるが、彼は「100年前にヴィンハイムにいた爺さん、ビッグハット ローガン」の話をする。
いや、このダークソウルの世界の人物は全員不死なので、爺さんが不死になり、100年間正気を保ったまま冒険をしていた事で辻褄は合うが、リッケルトやグリッグスが100年間生きているような器に思えない。また、ソラールが白サインを「100年前の伝説がいたかと思えば」というような話をして、その時間軸を合わせるために白サインがあるという話をする。一見すると、ゲームシステムを保管した説明に思えるが、実際はダークソウル世界では伝説的な人物なのだと思う。
事実、ダークソウル3ではローガンの残した影響は大きい。結晶魔法はローガンが作り出した魔術だが、結晶の古老はローガンのように結晶魔法を使い、しかもビッグハットをかぶる。ローガンのスクロールには結晶魔法について書かれている。
ダークソウル3ではダークソウルの四騎士は匂わせる程度といったが、下手をすれば名が忘却の彼方へ行ってしまっているのに対して、ローガンだけははっきりと残っている。つまり、ダークソウルの時点で彼は伝説的、または伝説的偉業を残した事が伺える。そんな人物が正気を保っている時の話を聞けるなんてものすごいことではないだろうか。最も、ダークソウル3の時点で名前を残しているキャラは結構いるが…(ハベルや、ファンサービスではあるがパッチなど)